狸
裏道昇
狸
雨が降りしきる山道を僕は小さな折り畳み傘を差しながら、下っていく。
田舎の小学校は山の頂上で、通学も大変なんだけど今日は気にならない。
それも当然、明日から夏休みなのだから。
しかし――
「傘があったのは助かったな……いきなり降ってくるんだもん」
新品の傘を使いたくて持ち歩いていたのが良かったらしい。
雨音が傘の中だけに隠してくれる独り言を呟きながら、僕は山道の真ん中辺りにある小さな広場に出た。
「……ん? あれはなんだ?」
広場の中心に横たわる灰色の物体があった。
近付いてみると、どうやら動いているようだ。
「狸だ……まだ子供かな」
灰色の狸は僕から逃げようとするが、上手く動けない。
「大変だ、怪我してる!」
僕は慌ててランドセルから絆創膏と定規、セロハンテープを取り出す。
そのまま学校で習った通りに骨折の応急処置を始めた。
灰色の狸はその間、僕をじっと眺めていた。
「うん、大丈夫」
授業と同じように出来たはずだ。
元通りとはいかなくても、元気に走り回れるようにはなるだろう。
僕は狸を周囲の林まで運んでから帰ろうと立ち上がったが、思ったよりも雨足が強いことに気が付いた。これでは林の中でも濡れてしまう。
――お気に入りなんだけどなぁ。
僕はしばらく迷ってから、狸の脇に立つ木の根本に折り畳み傘を差し込んで固定した。
「いい? 貸すだけだからね! 絶対に返してよ!」
自分の未練がましさを少しだけ笑いながら、僕はランドセルを頭に被って走りだした。
夏休みというものはあっという間に過ぎると決まっていて、新学期は一昨日から始まった。
ただ、今年はいつもとは違う。
というのも『予定が大幅に繰り上がった』(よく分からないが、大人はこう言っていた)らしく、町が合併して僕の通う小学校は隣町になってしまったのだ。
環境が変わり、疲れている僕はゆっくりと下校しているのだが……
「えっ?」
ふと、前から歩いてくる女の子が驚いた顔をした。
「?」
「でも……さっき……」
女の子の反応を不思議に思うが、周囲をよく見れば他の通行人も似たような顔をしていた。
「どうしたの?」
僕は気になって訊いてみることにした。
「あの……君さ、さっきまで駅前のコンビニにいなかった?」
女の子は自分が歩いてきた道を指で示した。
「いないよ。今から家に帰るところなんだから」
「そう……勘違い、かな」
すると、女の子が示す道の先から二つの影が全力で走ってきた。
奥からこちらへ走っているのはコンビニの店員さん。
手前を走っている……いや、逃げているのは、
「わー! ごめんなさいー!」
僕にそっくりというか、全く同じ姿をした男の子だった。
「――え?」
動けないままで言葉だけ漏らして、僕達はすれ違った。
ただ、男の子は後ろを向きながら謝っていたので僕を見ていなかった。
そしてコンビ二の店員さんは僕の前に辿り着くと――
「やっと捕まえた……」
僕の肩を掴んで、形だけの笑みを浮かべた。
「君、お金は払おうね?」
僕は嫌な予感で頬がぴくぴくと動くのが分かった。
「ありがとう! 助かったよ!」
僕は女の子に大きく頭を下げた。
女の子は少しだけそっぽを向いて呟いていた。
「別に……本当の事を言っただけだから……」
もし、この子が店員さんに別人だって言ってくれてなかったら……。
そう考えて、僕はゾッとした。
まだ僕にそっくりな男の子の背中が見えていたのも救いだった。
でも……現状はよろしくないだろう。
「あれは誰なんだろう? どうして僕と同じ顔なの?
というより、放っておいたら大変なことになりそうだ……」
「どうするつもり?」
僕は少し考えてから答える。
「とにかく話をしないと……探すことにするよ、ありがとう」
女の子はちょっと困ったように顔を背けてから、
「手伝ってあげようか?」
「へ?」
「だから! 一緒にあの子を探してあげるって言ってるの」
僕はやっと女の子の言うことを理解して、手を握った。
「ありがとう! 僕は五年一組のタカシ! 君は?」
ランドセルを背負ってるから同じ学校だろうと予想した僕は握った手をブンブンと振りながら訊いた。
「あたしは五年三組で、サヤだけど……何、気付いてなかったの?」
そういえば合併のせいで僕はまだクラスメイトの顔と名前すら一致してないんだった。
これではクラスを聞いた意味なんてほとんどない。
「ごめん、まだ皆の顔を覚えてなくて……」
「ま、いいわよ……とりあえず後を追わない?」
僕は頷いて、謎の男の子と不幸な店員さんが走っていった道を二人で追いかけた。
町の何人かに話を聞いただけで、男の子の事はいくつか教えてもらえた。
でも、それは素直に喜べなかった。
「どうしよう……悪戯ばっかりしてる……」
僕は涙目で頭を抱えてしまう。
人の物を勝手に食べたり、道路に飛び出してみたり、木に登ろうとしたりしているらしい……僕の姿で!
「だ、大丈夫よ、あたしが証人になってあげるから……」
あまりにも僕が落ち込んでいたからだろう、サヤは慰めるように言ってくれた。
「本当?」
「うん、約束する――あっ」
サヤが目を見開く。
僕が見ると、例の男の子(要は僕だ)が電柱の陰に隠れていた。もちろんバレバレなのだが。
やがて僕と目が合うと、慌てた様子で走りだす。
「待って!」
僕が僕を追いかけるという異様な光景が出来上がっていた。
僕達三人は前の学校があった山へと入っていく。
山に入った男の子は驚くべき速度で逃げ、山の中腹にある広場へと入っていった。
「……逃げ足が速すぎるよ」
「頑張れ、男の子」
サヤが楽しそうにからからと笑った。
僕は不満気な目を精一杯作って睨んでやった。効果はなさそうだけども。
そんなこんなで僕達も広場へと入る。
僕の顔をした男の子は広場の出口に立っていた。
「……」
僕は逃げられないよう、細心の注意を払いながら一歩近付いた。
「ごめんなさいっ!」
すると、男の子は急に大きく頭を下げる。
「? どうしてこんなことを……いや、そもそも君は一体……」
僕が訊き終わるよりも早く、男の子は瞳に涙を浮かべ、
「うわーん」
ぼん、という音を発した。
「!?」
男の子の代わりに小さな子狸が怯えたように蹲っていた。
「……へ?」
僕の声だけでも驚いたのか、小さな小さな狸はあっという間に後ろの林へ逃げてしまった。
子狸?
狸……広場……夏休みに入る前、ここで狸を助けたような。
ひょっとしてあの時の狸だろうか。なんて考えたが、それは違った。
あの時の狸は白に近い灰色をしていた。今逃げた狸は茶色いし、明らかに小さい。
「一体……?」
「……あの子はあたしの友達なんだ」
不意に後ろから声が掛かって、僕はゆっくりと振り返った。
だからその景色は僕の中ではスローモーションだった。
サヤが夕日を背負って笑っていた。
毎日通った広場なのに、太陽なんて見飽きたはずなのに、世界はいつもより少しだけ綺麗だった。
「どういう」
「言いたい事があって……嘘吐いちゃった、ごめんね。
あたしはあなたの姿しか知らないのに、あたしは女の子だから男の子には化けられなくて」
僕はさすがに状況を理解し始めていた。
「言いたいことって?」
「うん。前、意地悪な人達にいじめられて……怪我をして、雨まで降ってきたことがあったの」
「そう、なんだ」
「山の開発だなんて言いながら襲ってくる人は怖かった……でも、助けてくれた人がいたの。
いじめられたことよりも、助けられたことがあたしには価値があったみたい」
サヤは僕に一歩近付いた。
「あたし、君が傘を取りに来る日を待ってたんだよ?」
さらに一歩。
彼女はポケットから折り畳みの傘を取り出した。
そして僕の目の前までやって来ると、大きく大きく頭を下げた。
両手で僕に傘を差し出しながら、伝わる程の想いを込めた言葉を口にした。
「あの時は、本当にありがとうございました」
僕は大切に傘を手に取る。
汚れていたけれど、傷ついてはいなかった。
「そして、今日はとてもとても楽しかったよ」
サヤは顔を上げて、もう一度笑ってみせた。
僕はその笑顔に、一つ訊いてしまった。
「……人間は嫌い?」
サヤは夕日に負けない笑みを浮かべて、
「……好きよ」
ぼん、という音で消えた。
僕は手に残った傘を眺めて、それから今日一日の苦労を思い出して、
「ちくしょう――狸に、化かされた」
思わず笑みを浮かべていた。
狸 裏道昇 @BackStreetRise
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