5.矢
──人を食べるのって、ダメなことなの?
そんな言葉が零れた一瞬、両者の視線が重なる。
嫌味や皮肉ではない、純粋な疑問の色がそこにはあった。何か口を開こうとするイルだったが、そうこうしているうちに村人たちの
「……走るぞ、今のうちだ」
唇の端を強く噛んだまま、イルはエンドの手を取った。
青年のこめかみからは、血の雫がぽつりぽつりと零れていく。村の灯りとは逆へ、街の方へ続く道の方へと。
『なぁ、イル。なんでオマエは、死んだ人の肉しか食べないんだ?』
あのときの問いかけにも、先ほどの質問にも……彼は、どうしても答えられなかった。だって彼は、この村の外に出たことはないのだから。
人肉食がタブーとされることも、あくまで伝聞で知っているだけだ。彼の中の常識では、食事といえば人の肉。本質的には、それをおかしいとは思っていない。
「……ケホッ。なぁ、エンド。少なくともこの村では、人は食べてもいいものなんだ。でも、俺は……そうは思わない。思えない」
ただ、一つだけ思っていることはあった。
投げて寄越される
「あれは、どれぐらい前になるのだろうか。俺には、友達がいたんだ。俺と同じように仲間外れにされた、年の近い女の子が」
罪人の子供か、さもなければ食事にされた旅人が身籠っていた子だったのだろう。
両親を早くに亡くしたイルと同じように、村でははぐれ者として扱われていた。あの頃の彼にとって、殆ど唯一の遊び相手だった。
「別に、そこまで仲が良かったわけじゃないさ。ただ、干からびた骨を投げて遊んだり、一緒に村外れの洞窟を探検したぐらいだ」
顔はどうにか思い出せるが、もう声は
それは、彼女と過ごした時間はそう長いものではなかったから。
「……その女の子は、ある日突然
あの収穫祭の朝のことを、イルは今でも鮮明に覚えている。
窓の外から響く歓声に眠い目を擦れば、村の中央では煌々とかがり火が燃えていた。その中で焦げていく女の子が、涙すらも瞬く間に乾いていく様が、よく見えた。
「この村では、人肉は生きたまま食べるものなんだ。死んでしまえば、味が落ちるらしい」
村の大人に連れられて、幼いイルは火の傍へと歩いていく。
状況も分からないような混乱の中、彼は骨のナイフを手渡されていた。大人たちが指さすのは、随分と減ってしまった少女の右腕辺り。意味するところは、すぐに分かった。
「……食べたんだよ。エンド、俺はその子を食べたんだ」
気付けば、二人の歩みは遅くなっていた。震える手で顔を覆うイルを、エンドはじっと見つめている。
骨を縫うように刃を動かして、あの日の少年は拳大ほどの肉を削ぎ落した。めらめらと燃え盛る火に炙られて、それは肉汁を滴らせていて……口へと運べば、ほろりと溶けていくようで。
「あぁ、美味しかったさ。でも、美味しいと思ったことにも……食べること自体にも、忌避感があったわけじゃない」
繰り返すようだが、それは彼にとっても常識だったのだから。
その代わり、彼にとってのトラウマだったのは……彼を
「俺が恐ろしかったのは、彼女が……変わり果ててしまったことなんだ。昨日まで元気に手を振っていたはずの腕が、俺の喉を通り抜けていった感覚だ」
……きっと彼は、死が怖かった。
石畳の上を笑って歩いていた少女と、目の前で炙られている肉が同じモノだと認識するのが恐怖だった。
「……俺は、人を食べたくはない。人を、殺したくはないから……誰であれ、死んでほしくはないから」
きっと、それが彼の全てだったのだろう。
大きく深呼吸をして、イルは最後にぽつりと呟く。それは、彼の抱える仄かな願い。
「
出血の影響か、そう口にしたせいで改めて現実を認識してしまったせいだろうか。
そんな言葉を最後に、イルの足は止まってしまう。遥か後方からは、追手の足音も響いてきているというのに。
「……そう、だね。それじゃあさ、イル?」
その代わりに、今度は少女が青年の手を引いた。
肩を貸して、ゆっくりと走り出していく。変わらない無表情だったその顔には、微かに笑顔が灯っていた。
「一緒に、村の外へ出よう。ここじゃない、人を食べなくてもいい場所へ行こうよ」
「……この湖底世界じゃ、どこだって同じようなものだ。人が人を、食い物にしている」
村から出たところで、外はそう理想的な世界ではないのだ。
「うーん。そうだ、それなら──」
その曇り切った表情を覗いて、エンドは少しばかり考え込む。
ほんの数秒の後、出した結論はとても明快なもの。昨日の夜と変わらない瞳で、彼女は青年をこう誘う。
「──約束をしようか。私と一緒に、地上へ出ようよ」
こんな地底の端の端から、陽光の差すような地上へと。
記憶も何も持たない少女は、簡単に手を差し伸べた。陰りなどのない横顔が眩しくて、イルは目を細めてしまう。
「……地上に出て、どうするんだ?」
「麦でも育てて、羊の毛を刈って生きていこう。きっと、そんな世界もあるはずだから」
その声には、嘘や誤魔化しなど微塵も感じられなかった。
僅かに心を動かされて、イルは目を閉じ夢想する。陽の光が当たる地上で、今のように屍肉を食らわずとも過ごせる毎日を。
伝聞でしか知らない光景はとても朧げだが、不思議と頬は緩んだ。温かい未来をほんの少しだけ想像して、彼は仄かに希望を抱く。
「あぁ。それもきっと、悪くは無いんだろうな。町に出たら、一緒に──」
そして彼が、再び目を開けた瞬間のこと。
耳のすぐ横を、鋭い何かが通り抜けていった。鮮血が、すぐ傍から迸る。悲鳴も聞こえないぐらいに、それは一瞬だった。
「一緒、に……」
垣間見えたはずの未来が、赤く、赤く染まっていく。
どうやら、もう時間切れだったらしい。心臓を矢に貫かれて、虫のような息をする少女。
彼女を呆然と抱えながら、イルは近寄ってくる大人たちの足音をじっと聞いているだけだった。
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