4.選択
『なぁ、イル。なんでオマエは、死んだ人の肉しか食べないんだ?』
迷っているうちに、昨晩は眠りに落ちてしまったのだろう。
イルは、夢を見ていた。今よりもっと幼少の頃の、村の幼馴染との会話だ。
『……ノッカ。君だけだよ、わざわざ俺の近くに寄ってくるのは』
『そうか? ま、オレもオレで嫌われ者だからな~』
その骨まで
指先に付いた血液を見つめて、自分の口元に付いた肉を拭って。彼は、短く答えた。
『……本当は、人なんて食べたくないんだ。死んでいる人なら、罪の意識も薄らぐから』
『そっか。やっぱ、オマエは変わり者だな! でも、イル──』
幼馴染の視線が、ぐるりとイルの方を向く。
無邪気な素振りで、純粋な疑いだけがあるような声で。彼は、イルへとこう尋ねた。
『──ソレ、なんでだ? どうして、人を食べたくないんだ?』
『それは……それ、は……』
喉まで来た言葉をどうにか口に出そうとするものの、幼い少年は何も答えられない。
ぐるぐると意識を回らせていれば、幼い日の記憶も曖昧になっていく。次に目を開けたときには、琥珀の瞳が彼を見下ろしていた。
「──起きたみたいだね。おはよう、イル」
「エンド、だったか。あぁ、おはよう」
彼女はどうやら、自分よりも早起きだったようだ。
近くの川まで足を運び、イルは少しばかり
「どうするべき、なんだろうな。このまま村へと戻れば、きっと歓迎されるだろう」
人を喰うということは、世界の常識とは大きくズレている。あくまで伝聞で得た知識の域を出ないが、イルはそう知っていた。
けれど、ここは紛れもなく彼の故郷だ。17歳を迎えた今日に至るまで過ごしてきた、曲がりなりにも思い出の詰まった地なのだ。
「この場所を、離れたくはない気持ちもある。それでも、俺は……」
小さく息を吐いて、イルは川面に映った自分へと視線を落とす。
村の皆とは大きく異なる、白く染まった髪をした、赤い目の青年。彼は、幾つかのものを望んでいた。
村の輪へと入れてもらうこと。傷付いた人には、優しくしたいこと。それに、彼の夢は──。
■
「ねぇ、イル。これは、どこへ向かってるの?」
太陽擬きは高く昇り、ちょうど正午かという頃合い。
洞窟を出ると、イルは少女を連れて歩いていた。ボロ布を頭から被せられているから、エンドには周りは見えていない。ただ、手を引かれるがままに進んでいる。
「……そう遠くない場所だよ。少しだけ、じっとしていてくれ」
前を行くイルの表情は、彼女からはあまり伺えなかった。
ただ、どこか張り詰めたような声音だけが聞こえている。どこか不安に襲われたのだろうか。歩を進める傍らで、エンドはぽつりと彼に尋ねた。
「あのさ、イル。ずっと、聞こうと思ってたことがあるんだ」
少女の声は、どこか張り詰めている。
イルは知らないことだったが、エンドは五感が鋭かった。
村人と話していたことも、彼から漂う血肉の臭いも──村から聞こえる
「何かな、エンド──」
「──君って、人間を食べているよね」
唾を呑む音。振り向いた一瞬、視線が重なった。
足を止めたイルの表情を、彼女はどう形容したものだろうか。物悲しい瞳だけが、エンドをじっと捉えている。それから彼は、何か口を開こうとして──。
「──おっ、残飯食いじゃねぇか。久しぶりだな、生きてたのか!」
ぶっきらぼうな男の声が、二人の耳に届いた。
エンドが視線を向ければ、そこには幾人かの村人たちが佇んでいる。誰も彼も、昼食代わりに乾かした
「……イル、これは?」
尋ねられても、彼は何も応えない。
じっと、村人たちの方を向いているばかりだ。その横顔からは、感情は何も読み取れなかった。
「ソレ、ヒトだよな? いや~、また旅人が迷い込んだか。結構結構、収穫祭に届けようぜ!」
「……あぁ、そうだな」
村の大人は、ボロ切れを被った人影を指して笑っている。
外から来た者などは、皆等しく食料なのだ。覚えている限り、例外はない。
「何だ、渡してくれないのか? ま、お前が捕まえたんだ。手柄は、好きにしたらいいとは思うがよ?」
言葉もなく、イルは懐から骨のナイフを取り出した。
そして、密かにそれを構える。エンドに……ではなく、村人たちに気付かれないように、そっと。
「それでよ、イル? お前にひとつ、聞いておきたいんだが──」
コホンと咳をすると、男はイルの後方を指さす。
ここからは随分と
「──こんな村の外れで、何やってんだァ?」
「……走るぞ、エンド!」
瞬間、青年は少女の手を強く引いた。
大人たちの合間を斜めに縫って、二人は村から離れた方へと駆け出していく。
「ハハッ、こりゃいいぜ! 脱走者が出たか、久しぶりに同族が食える!」
「久しぶりって言っても、先週には食ってたけどな」
粗野な声と幾つかの足音が、すぐさま二人を追ってきた。
イルは走る。低木の枝を越えて、大岩の後ろへと回り込んで、どうにか追手を撒こうと四肢を動かしている。
この辺りは、彼からすれば慣れ親しんだ地なのだ。少女の動きも悪くはない。やせ細った身で、イルは俊敏に動いているが──。
「──知らなかったか? そこら辺の砂利は尖ってんだ」
土地勘があるのは、大人たちもまた同じ。
足元に気を取られた瞬間。飛来した棍棒に、イルは横殴りに吹っ飛ばされた。
重い衝撃が枝葉を揺らす。木の幹に叩き付けられて、青年はくしゃくしゃにされた紙屑のよう。こめかみから流れた鮮血が、草木を赤く塗らしている。
「イルぅ、お前が逃げられるワケが無いだろ。冷静に考えろよ、冷静に」
強く握りしめていた骨のナイフが、彼の手から零れ落ちる。
ガンガンと鳴る耳鳴りの中、近付いてくる足音だけがよく聞こえた。
「……大丈夫、イル?」
赤く染まった視界で見上げれば、少女の瞳がじっと彼を見つめている。
琥珀のような、綺麗な黄色だ。浅く短い息の合間、イルはエンドにこう告げる。
「……逃げてくれ、エンド」
「君は、いいの?」
ギクシャクとした動作で、彼は首を振る。
助からないほどの傷ではないが、しばらくはまともに動けないだろう。
そんな有様の彼を見て、エンドはじっと傍らにうずくまっていた。考え込むような無表情で、青年の手を握っている。
「さて、と。コイツも持ってくか。それじゃあ、適当に絞めておくからよ」
ただ、そんな健気さなどは大人たちの気にするところではない。
一人の村人が、そこらに転がっていた棍棒を手に取った。小さく息を吸って、大仰に振りかぶって。うなる石棍棒が、少女の頭を砕こうとして──。
「……あ?」
指先の一つで、まるで嘘のように止められた。
外したわけではない、きちんと力も入っていた。その証左のように、巻き起こった風は橙の髪を揺らしている。
けれど、ただそれだけだった。棍棒も、少女の体も、ぴたりとも動いていない。昼下がりの森は、不気味な静寂に包まれている。
「腰が抜けたか? 運が良かったな、すぐに、すぐに……?」
少しばかり冷や汗を流しつつも、偶然か何かだと片付けることにしたのだろう。
そう吐き捨てると、村人は棍棒を引いて再び構えようとする。しかし、その手すらも動かなかった。
「……エン、ド?」
瞼に付いた血を拭えば、イルの目には確かに見えた。
エンドの爪が、石の棍棒に深く食い込んでいる。細い腕で、大の大人の全力を圧倒し、弄んでいる。
「ねぇ、イル。私には、本当に記憶が無いんだ。善悪も常識も、まるで分からない」
赤くなっていく大人の顔とは対照的に、エンドの顔は涼しいまま。
悩むように眉を潜ませてから、少しばかり視線を鋭く尖らせる。二人を見下ろす、大人たちの方へと。
「でも……君は、私を助けてくれた。それだけは、判るから」
細い指先に、血管が浮き出る。ほんの一秒もかからなかっただろう。
まるで乾いた粘土かのように、彼女の身丈ほどもある棍棒は罅割れて崩れ去った。その残骸が地面に落ちるより前に、エンドは素早く立ち上がる。
「──今度は、私が君を助けようと思う」
そんな文句を言うが早いか、少女の肢体は大人の懐へと潜り込んでいた。
その視線が追い付くよりも先に、エンドは拳を彼の腹部へ突き出す。濁った空気が吹き飛ばされて、乾いた音が一つ鳴る。
「……ぁ?」
殴られた。いや、貫かれた。そう表した方が正しいだろう。
ほんの一度だけ瞬きをしたような瞬間のうちに、少女の拳は血で染まって……腹に風穴を開けられた大人が、力なく崩れ去った。
「かはっ、ぅ、げほっ」
吐き出された血を躱して、エンドはまたイルの傍へと寄った。
そこでようやく、壊れた棍棒の残骸が地へと落ちる。息を呑む暇も無いような、ほんの一呼吸の出来事だった。
「オイオイ、マジかァ?」
少女の体には、傷や汚れの一つもない。
対して、取り囲む大人たちは四人から三人に減ろうとしている。
冷たい視線が交錯する中、倒れた一人から漏れる呻きだけがよく聞こえた。赤い水の音が、淡々と響いている。
「たすけ、助け、て……」
「あ~、こりゃダメだな。ノッカを呼んできてもいいが、まぁ間に合わねェだろう」
腹部を貫かれたのだ。棍棒を持っていた威勢は既になく、彼の顔は土気色。
血だまりに膝を突いて介抱していた一人も、既に手遅れだと判断したのだろう。小さく溜息を吐くと、彼は瞳を閉じた。
「仲間を失くしたくなかったら、これ以上は──」
──ただ、異常なのはそこからだった。
掛けられた声にも気付かないように、村人たちは倒れた男の近くへ寄る。ほんの数秒の静寂の後、彼らは一斉に
「……エンド。見ない方がいい」
その先を察していたイルは、指先でどうにか少女の視界を隠そうとする。
けれど、ボロボロの体では間に合わない。手を合わせる音が響く。幾度も繰り返された、この村の日常が始まった。
「やめ、ろ。おま、お前ら、俺はまだ助か──」
「それじゃ、食うか」
力なく伸ばされた手が、手始めに食い千切られた。
鮮血が噴き出る。それが目鼻にかかろうとも、囲む三人はものともしない。
手足の先から、脇腹や耳。出来るだけ長持ちするように部位を選びながら、食人族たちはさっきまで仲間だった肉を咀嚼していく。
「人を、食べてる」
「……あぁ。ここは……俺たちは、そういう人種なんだ」
言い様も無く凄惨な光景だというのは、理解できている。
ただ、これはイルにとっても日常なのだ。さして驚いた色も無く、彼は少女の手を引いた。
「逃げるぞ、エン、ド」
ただ、エンドの足は動かない。
目の前で行われている食事を、両の目でじっと見つめている。
「ゲホッ。衝撃的なのは、分かる。ただ、この隙を突かないと、俺たちもきっと……」
あまりにも猟奇的な光景のため、動揺していると思ったのだろう。
どうにか気を取り直してもらおうと、イルは声をかけるが……どうやら、少しばかり違ったようだ。エンドの瞳は、終始とても冷静なもの。
「……ねぇ、イル。また一つ、聞いてしまうんだけどさ」
先ほどまでと変わらないような声音で、彼女はイルへ問いかけた。
その横顔が、今朝の夢と……いつか幼馴染からされた質問と、どこか重なった。
「人を食べるのって、ダメなことなの?」
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