2.湖底世界

「……遅くなったね。君の口に合うかは分からないけど、人肉の他にはこれぐらいしか無いんだ」


 瀕死のの口元へと、イルは近くで採れた木の実を運んでいく。

 彼がコレを見つけてから、今日でかれこれ三日が経った。薬効のある植物、川で洗ったボロ布。少ない物資や知識で介抱とも言えない介抱を続けているが、幸いにして傷口は塞がりつつある。


「コこ、は……」

「熱も酷いんだ、まだ喋らない方がいいと思う」


 右手をソレの額部分へと当てれば、明らかに高熱を出しているようだった。

 切り傷や打撲の痕、それに火傷……表情などはとても分からない有様だが、時折漏れる呻き声から辛そうだとは察せていた。

 何せ彼もまた、こうして生きているのが奇跡なぐらいには体が弱い身の上なのだ。一人で、うなされることしかできない。その苦しみは、痛いほど理解できている。


「その代わりに、俺が少し話をしようか。きっと、ただじっとしているよりは気が紛れるから」


 だから、任された雑用が終わった夜更け頃に、イルは寝床の傍でそっと口を開いていた。

 この誰かどこから来たのか、どんな人物なのかは分からない。とりあえず始めるのは、この世界についての話。


「知っているとは思うけど、ここは地の底なんだ。地下深くの、巨大な湖のような空洞の中……らしい」


 語尾をぼかしたのは、彼自身もこの地底の村で生まれ、地上に出たことなど無かったから。

 ただ、誰に聞かされずとも直観的に理解できている。洞窟の外をいくら見上げても、そこに星空はないのだ。どこまでも続くような暗闇と、昼夜に合わせて稼働する、魔法仕掛けの巨大な太陽擬きが遠くにあるだけだ。


「空の湖の底だから、湖底世界こていせかい。確か、ここはそう呼ばれている。詳しくは分からないけどね」


 まともな教育を受けたことはないのだ。詳細は成り立ちについて、イルはほぼ知らない。

 未踏破の迷宮ダンジョンで溢れており、その奥に眠る財宝を目指して探索者・・・たちが入り乱れている。そんな状況にあることだけは、村に流れ着いてくる人の話から知っていた。


「それで、この村は北西の端に位置しているんだ。近くに目立った町も迷宮も無いから……こうして、何とか存続しているんだろうね」


 イルは、そこで言葉を濁した。どうやら、村について詳しく語るのは止めたようだ。

 人を喰う。初日はぽつりと漏らしてしまったものの、それがあまりに世界の常識が外れているのは知っている。

 余分な衝撃を与えてしまうのを嫌ったのだろうし……あるいは、それ以外の理由もあるのだろう。


「……君は、どんな人なのだろうか」


 殆ど真っ暗な洞窟の中、イルは傍らの人物をじっと見つめている。

 付着していた血肉や土汚れを落としてみれば、橙色の髪は透き通るように美しかった。


(……ただ、この傷だ。きっと、助かりはしないのだろうけど)


 気まぐれに助けたものの、到底生き長らえられるような状態ではない。

 小さく息を吐いて、彼はそれでも包帯を換える。そして、離れた床の上で横になると、ゆっくりと瞼を下ろした。


 ■


 そうして、それから更に三つの夜が巡った頃。

 イルが村から戻って来れば、見知らぬ何者かがそこにいた。洞窟の入口で、じっとうずくまっている。


「……誰だ?」


 鋭い視線を向けて、イルは骨の短剣を後ろ手で構える。

 その人影は、彼を見るなり立ち上がった。背丈としては、彼より一回り下だろうか。

 小柄ながらもしなやかさのある体格が、身に纏ったボロ切れの上から覗いている。流れるような橙色・・の髪が、夜風になびいていた。


「えっと、その。治ったから、出てきてしまった。迷惑、だった?」


 耳に届いた声が信じられなくて、イルは思わず目を凝らした。

 子供と大人の中間のような、どこか中性的な顔立ち。透き通るような橙の髪の合間から、琥珀の瞳が覗いている。

 間違いない。目の前で五体満足で立っているこの少女は、先ほどまでだったはずの──。


「君は、まさか……?」


 視線が交錯する。

 やつれた青年の歯車が、回り始める音がした。

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