既帰のもの

蝶々屋

既帰のもの

 人形が捨てても帰ってくる、という類の怪談を耳にしたことはあるだろうか。

 髪が伸びる、声がする、何らかの怪奇現象が起きる、実際に危害を加えてくるなど、根本的な異常性には多様なものがあるが、「捨てても帰ってくる」という特性は複数の話で共通して登場するものではなかろうか。

 この異常性は、無生物、いわゆる「モノ」が人間に恐怖と脅威を与えるためには非常に重要な要素と言える。

 どれだけ強大な力や複雑な情念を内包していたとしても、その本質が「モノ」であり、人間に「所有される」側である以上、「手放す」という行為が絶対的なメタになってしまう。

 言うなれば、モノ型怪異の「捨てても帰ってくる」という特性は、「手放す」という禁止カードに対抗するための標準装備ということだ。


 しかし、一見すると不気味で完璧なこの特性は、「恐怖を与えつつ身を守る手段」としてはいささか非効率的と言える。

 いくら怪異が起こす現象が超常的であっても、「エネルギーを必要とする」という絶対的な自然の摂理から逃れることはできない。

 高速移動か、あるいは転移か、どちらにしても「捨てられた場所から元の場所まで移動する」という動作にはそれなりのエネルギー消費が伴う。

 そう考えると疑問が湧いてくる。

 なぜ彼らは、わざわざ「一度捨てられてからまた戻ってくる」という回りくどい方法をとっているのか。

 そこまでのエネルギーを内包しているのなら、「そもそも捨てられないように妨害する」ほうが確実なのだ。

 彼らにとって「捨てられる」という動作にはいったいどんな意味があるのか。


 ここで、ひとつの仮説を立てた。

 彼らは、人の心に取り入ろうと努力しているのではないだろうか。

 彼らの起こす怪奇現象は、その強弱に関わらず、現象の受け手となる所有者がいて初めて成立する。

 そのためにも、彼らとしては「捨てられない」こと、もっと言うなら「愛着を持たれる」ことが最もベターな手段と言える。

 では、人間がモノに対して持てる最も強い愛着とは、何に起因するものだろうか。


 ひとつ、質問を投げかけたい。


 読者が実家に帰省したとき、ふと郷愁に駆られ、なんとなしに古い棚や机を物色したことがあるだろう。


「とうに捨てたと思っていたモノが出てきた」ことはないか。


 そう、懐古である。

 彼らの認識からすれば、「捨てる」とは「恐怖からの逃避行動」ではなく、「過去との一時的な決別」なのだ。

 ゆえに彼らはこう考える。


「捨てたはずのモノがまた手に入れば、人間は懐かしがって大切にするはずだ」


 つまり、いわゆる「帰ってくる人形」の類の有名な怪異は、心に取り入る素人なのだ。

 怪奇現象を派手に起こし、そして捨てられたとなれば一目散に帰る。そういういわゆる「馬鹿の一つ覚え」を繰り返しているのがこういう連中なのだ。

 一方、心に取り入るのが上手い連中はこうはしない。

 怪奇現象は目立たず、しかし認知はできる「なんか妙だな」のラインを保つ。仮に捨てられたとしても、前回とは別の位置に帰ってきて身を潜め、記憶から薄れたタイミングで再発見されるよう調整する。

 そういう「怪異とすら思われない怪異」が、我々の生活にひっそりと溢れている。


 もし読者の家で、妙に埃が溜まりやすい場所や、妙にぶつかりやすい場所があったら、そこをよく探ってみてほしい。

 懐かしい玩具が見つかるかもしれない。

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