現実に形式が追い付いた感じ

「君は実に愚かだな」

「すみません……」


 病室で文庫本を閉じて、文芸部部長──佐山百合香さやまゆりかは深々と嘆息した。


 細いフレーム銀縁眼鏡の向こうに、切れ長の目が光る美人だ。部の在留を条件に、俺たちに部室を貸してくれる恩人でもある。


 ちなみに春風のバイト先である「さやま古書店」の一人娘。


 彼女は革製の赤いブックカバーのへりを弄りながら、


「謝るな。愚かだと言っただけで、雄一君のしたことを間違いだとは言わない」

「はい」

「でもなぁ、動画も見たが……あんな安い挑発で上手くことを運べたのは奇跡だぞ?」


「……乗らなかったら、俺から殴るつもりでした。

 俺も罪状がつくかもしれませんが、あいつらからリンチを引き出せれば過剰防衛まで持っていけるかもしれないって。

 それに俺にも情状酌量があるかもしれなかったし」


「穴だらけだよ。そもそも君の腕力じゃ逆立ちしても無理だ。元バスケ部だぞ?」


 佐山さんは俺にコーラゼロを差し出しながら眉を曇らせる。


「そもそもMOが殴らなかったら? 部下に殴れって言ったら?」

「配下には慕われていませんでした。クッパ大王の足元にも及びませんよ。部下だけ手を染めろって言ったら、即座に反抗して内ゲバになったかも」

「結果論だろう?」


「じゃあ、大人しく待てって言うんですか。

 春風にわけわかんないドラッグ投与されて、人生ぶっ壊されるのが正解だって言うんですか」

「あのな。心配からの嫌味くらい許してくれ。だから友達が少ないんだ、君は」


 わかっている。この場は俺が幼い。佐山さんの指摘には完膚なきまで正論だった。


「……すみませんでした」

「謝らないでくれ。間違っていなかったと言っているだろう」


 刹那的なヒロイズムに酔っていたと言われたら否定できないし、そもそも途中からMOを通して「あいつら」に反論していたように感じる。


 俺は途中から春風のこともMOのことも見ていなかったと言われたら、俺には返す言葉もない。


 今さらながら自己嫌悪が滲みそうになった時、先輩はふっと硬い頬をほころばせた。


「お姫様が来たぞ」


 すると病室のドアが開き、茶色いウェーブヘアーが現れた。


 唇を噛んで、翡翠を彷彿とさせる済んだ瞳に、たっぷりの涙を湛えている。


「ゆ、ゆちゃん、ゆーちゃん、ゆーちゃんっ!」

「うおっ!」


 ここが個室でなかったら怒られそうな声量をあげ、春風は抱き締めてくる。まだ完治じゃない頭がズキンと痛む。


「あ、ごめ、ごめんね。大丈夫? あ、私ばかで」

「ああ、平気。平気だから……検査入院で、たぶん明日には帰れるって」


 脳内に出血もなければ、後遺症もほとんど残らないらしい。しばらくたまに車酔いのような感覚が襲うくらいで、それも一月程度で治る見込みだそうだ。


「よかった、よかったよぉ……ゆーちゃん、死んじゃうかと思った。死んだらどうしようって」

「……人はそう簡単には死なないよ。知ってるだろ」

「うん。うん。知ってる。死なないの、知ってる」

「良し。ごめんな。心配かけて。佐山さんにももうちょっと上手くやれって怒られた」


 その佐山さんが座っていた席は空白で、持ち込まれたカーネーションが気まずそうに風に揺られていた。


 ひとしきり泣いた幼馴染をなだめると、彼女はさっきまで佐山さんの座っていた事務椅子に腰かける。

 両ひざの上で拳を強く握り、ちらちらとこちらへ視線をくれる春風。


 しおらしい様子だ。

「どうしたんだよ」

「いや、あの」


 常に挙動不審な女の子だが、今日はいつにも増していた。


「……お、覚えてる?」


 何の脈絡もなく繰り出される質問。


「覚えてるって、何が」

「聞こえてなかった感じ?」


 はきはきと喋る春風にしては珍しく、口の中でもごもご言葉を捏ねているような喋り方だ。

 視線は自分の膝にだけ向けられ、ニーハイの黒地を摘まんだり離したり落ち着かない。


「……ああ」

「え、あれ? 聞こえ、てたのかな……」


 そもそも春風はMOを「好きな人がいる」と断っていた。そして俺はMOが真剣に春風のことを考えていると誤解していた段階で、彼に漢を出させてやろうとその場を去ろうとしていた。


 これらは矛盾している。


 どうして? ハイになってアドレナリンの濁流に疑問ごと押し流されてしまったから? それとも、春風が断って瞬間から、俺のなかにずっとあったものが形を得たから?


 俺は主人公になれる器じゃないから、長い間女性をキープするようなことはしなくない。


 ……宙ぶらりんは良くない。


「聞こえてたかもな」

「……そうなんだぁ」


 意識を手放す直前、大粒の涙を俺の顔に垂らしながら、必死に叫んでいた春風の表情。


 都合二度目になるあの表情の中で、俺は再確認のように春風の本心を知った。


 この娘がどういう少女か俺は知っている。


 自分よりもまずバイト先の迷惑を考えて、俺を巻き込みたくなかったから曖昧な言い方で呼び出した相手がMOだということを誤魔化した。


 こいつは着いて来てほしいときは、素直にそう言える娘だ。


「あのね、ゆーちゃん」


 意を決して話し出そうとする春風を遮って、俺は言った。


 「なあ春風」


 これ以上、幼馴染に恥をかかせるわけにはいかなかった。


「付き合おうぜ」


「ぇ、あ」

「あの、撮影してある動画の中で彼氏って言っちゃったし、佐山さん曰く、それ証拠として警察にもコピー渡っちゃったっぽいし……」


 いや違う、そうじゃない。理由付けしないでシンプルに話すべきだ。


「ずっと一緒にいると思ってたけど、いざいなくなるって一瞬考えたら、めちゃくちゃ寂しくなった」

「いなくならないよ」


 春風は唇を噛んだ。


「いつか私の前からいなくなるのはゆーちゃんだと思ってたから」

「そんなことない」

「……じゃあさ、証明してくれるのかな。ゆーちゃんがこれからも、あの、わ、私といてくれるって、証明」

「する」


 即答した。


 病室の外をあわただしく走っている足音が聞こえて、薄く開かれた窓からあたたかな春の風が舞い込んでくる。


 それは春風の柔らかい前髪をかきあげ、丸い瞳がしっかりと俺を見ていることを示してくれた。


 春風は言った。


「じゃ、あ、いいのかな」

「いいって言ってくれないと大泣きする」


「じゃ、なる。かの、じょになる」

「……」

「ゆ、ゆゆ、ゆーちゃんのっ! か、彼女に、なる……」

「……」

「ゆーちゃん?」


 俺はずきずき痛む全身を無視して、無理やり上体を起こした。天高く拳を突き出す。


「よっしゃああああああ! うおおおおおおお! やっべええええええ! 叫んで頭痛いけど叫ばずにはいられねぇえええええええ!!」


 すると春風も続いた。


「ああああ、ゆーちゃんが私の彼氏だやったああああああああ! 宝くじ買ったらあたる! あたるよ! NISAやらなきゃ!」


 看護師が飛んできて二人して注意される。


 こうして俺と春風は付き合うことになった。


 そのことを佐山さんに連絡したら、『おっそ』とだけ返ってきた。

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