Act 2 可愛い先輩
アントン・チェーホフが書いた小説に『可愛い女』という作品があるこの女は【愛】に生きている故にいつも誰かを愛していたし愛なしではいられなかった人は一度何かを愛してしまったらそのものに毒される運命を辿るそれが摂理であるかのように
気怠い高校生活の始まりを打ち砕くように私の心臓が高鳴っているそれがなんとも不思議な感覚であった
ふとした出会いから、私は入学式翌日に演劇部に入部する事になっていた。私の腑抜けた返事を聞いた部長の壊れんばかりの笑顔が鮮明に脳裏に焼き付いている。
「ようこそ、演劇部へ!!」
部長が手を差し伸べてくると、今度は私が強く掴むようにして部室の中へと誘われた。流石は元々用具入れだと言う他ない手狭な室内は甘い制汗剤の香りとほんの少しのカビ臭さみたいなものが入り混じっていた。丁度、窓際でYシャツを脱いで体操着に着替えている男性が見えた。その背の筋張った筋肉が、後に知る演劇部の特殊さを物語っていたように思う。
「あっ…」「あ、大丈夫だよ新入部員ちゃん。ここでは茶飯事だ!」「久手川か、それと…」
振り返った男性は、体操着の襟に指をかけて引っ張りつつそばに置いていた眼鏡を片手で器用にかけると、私に視線を向けた。
「柴崎です。柴崎茜」「あぁ、これはご丁寧に…って、さっき何て…?」「じゃーん!!新入部員ちゃん!!」
瞬間、男は2,3歩退き勢いよく窓に後頭部を打ち付けた。それから、患部を押さえながら今度は勢いよく私に駆け寄ると小声で話しかけてくる。
「何を人質にされたんだ…?」「馬鹿言ってんじゃないよ〜アラキぃ」「あ、はは…」
アラキ?先輩は訝しげに顎に手を置きながらジロジロと見つめる。一方で部長はアラキの脇を抜けて窓辺で着替えを始める。咄嗟に手を目の前に持ってこようとしたが、その時にはもう体操着の部長が居た。どうやら、制服の下には既に着ていたようだ。
「まあ、いいや。俺は新城真司、よろしくっバサッキー」「ば、ばさっきぃ…?」「柴崎さんでしょ?だから、バサッキー。だめ?」「アララちゃんはセンス無いから無視しときな。」
このノリでなんとなく理解したが、この部活では呼称名を決める流れが存在するのだろう。唐突な事で反応できずに失礼ではなかったろうか等と考えていると部長が肩をポンと叩いた。部長曰く、あくまで部室は着替えと荷物置きの役割で活動場所はあの湿っぽい体育館らしい。彼女に手招きされるまま私は、体育館に向かうのだった。
「いきなり濃ゆいのに出会っちゃったね… まあ、他も大概だけどさぁ。どうかな、演劇部…」「…楽しそうです。」「そっか、他の奴らもきっと面白いよ…だからさ…」
『『………でね。』』
部長の言葉は運動部の怒声や足音にかき消されてよく聞き取れなかったが、どこかあの笑顔と違う笑みを浮かべてることだけは理解できた。
「さあ、着いたよ」
部長は体育館側面奥の鉄扉の前で立ち止まる。そうして、フッと一息入れると扉を力一杯引いた。鉄扉は金切り音を上げて開くと、先に集合した部員の声が響いてきた。発声練習、といったところだろうか。小気味のよいリズムでの単発的な発声。力強い音量に私は気圧される。
「おはようございます!」「「おはようございます!!」」「ぁ、ぉ、おはようございます!」
口の中で引っかかりながらも、辛うじて飛び出た挨拶。先輩たちが部長のもとに集まってきた。部長は今日の予定を軽く指示すると、私の背中を先輩がたの前へ押しやると、あの悪戯な笑みで親指を立てた。
「ぁ、えっと…」「落ち着いて、ゆっくり話したら良いよ」「はいっ」
私は短いながらにここまで生きてきて、初めて自分が人と面と向かうのが苦手なんだということに気付かされた。部長の言葉で平静を取り戻した後は、ゆっくりと自分の事を話した。他愛のない話題だったと思う。名前やクラス、それから猫が好きだとか、よく聞く音楽の話とか、そんな所だっただろう。
「これから、よろしくお願いしますっ」「よろしく〜」「よろしくね」「よろしくお願いします」
陽気な声、真面目そうな声、そして、ふんわり包み込むような声が私を取り囲んでいた。これが私の新しい居場所になるんだと思うと、なんだか胸の真ん中がズキンと痛んだような気がした。場違いにならぬよう頑張ろう、ただそれだけを胸に、体育館の隅で一人見学をしていた。
そういえば、今日のスケジュールを言う際に「引退公演」という言葉が出ていた。恐らく、今はそこへ向けた練習をしているんだろう。演目は…たしか
「柴崎さん!」
ふと声がした方に顔を向けると、小首を傾げて唇に指を当てた時東ほのかの姿があった。
「柴崎さんも演劇部入るの?」「「も」ってことは時東さんも?」「うん、あるって聞いて気になって篠宮先生に聞いたの〜」「なんで篠宮先生に?」
その後に口にすることは大体想像がついた。ついていたのだけれど、出来得ることならそうでなければ良いと思って彼女に答えを委ねるような聞き方をしてしまったのだ。
「なんでって、副顧問になるらしいよ、依澄ちゃん」「副?なんで副…?」「えっとねぇ…赴任して日が浅いから?とかなんとか」
予想は大方合っていた、しかし一つだけ違ったのはあの人が正式な顧問ではなかったという事だ。あの話し方や声色には、部長と似た興味と似ても似つかない闇を感じる気がしたが、やはりこの部活で繋がったか…。そう私は心の中で一人腑に落ちていた。
「それで、柴崎さんはなんで演劇部に〜?」「私は、その…部長が」「部長さん可愛いよね〜」「いや、違っ」「私も好きになっちゃいそ〜ぅ」
どこまでもこの女は話を聞かないのだと、この時から私は確信を持ってそう思った。突然の飛来者を加えた部活見学は、あっという間に終わってしまった。部長が再び私を手招きして呼ぶ、改まって私も背筋を正して輪に加わる。
「それじゃあ、今日の部活はここまでにします。 明日は部活紹介もあるから、開始はいつもより遅め、 それから、明日からは配役決めも始めるので各自 台本の用意よろしくね。あとは…」「明日以降は1年生が増えるから、見窄らしい姿見せない ようにな〜」「うん、新城もたまには良いこと言うね。それじゃ解散!」
部長の言葉が終わると同時に2年の先輩たちは走って部室へ帰っていった。3年の先輩たちは何やら追加で会議をしているようだ。ふと横を見ると、時東は何やらスマホで誰かと連絡を取っていた。
「じゃあ、私は帰るね」「あ、うん。また明日ね、柴崎さん♪」「ぅ、うん。またね」
体育館を出ると日はすっかり傾き、夕日が校舎に差し込みとても綺麗に見えた。私はそれを背に校門へと歩き出すと程なくして二人組の男子とすれ違った。学年は多分一緒で一人はクラスメイト…だった気がする。すると、何気なしに会話が聞こえてくる。
「ぶっちゃけ、小中高と同じ学校同じ部活は避けようや」「そうだな、俺は剣道部入るよ。お前は?」「うーん、軽音部とか?なんか適当に、同じじゃない所」
部活の決定には、もう少し大義名分のような理由が必要なのかと考えていた私は、彼らの何気ない理由を聞いてから自身の動機は不純だという考えが晴れた。そんな理由でも部活を選んで良いんだと、背中を押してくれたような気がして勝手に彼らの背中に親指を立てていた。
それから暫く歩いて、私は駅のホームに立っていた。電車待ちの列がポツリポツリと増えてきて、その中には私と同じ制服を纏う人間がちらほらいる。これから当たり前となるこの風景も、今だけはどこか新鮮な非日常体験にも感じられる。ふと隣に前髪を乱雑にピン留めし、かなり顔を近づけて本を読んでいる女子がいた。見たところ同級生だが、あまりに集中し過ぎて列が進んでいるのに気がついていないようだった。事実、2,3人はしびれを切らし抜かしてしまっていた。
「あ、あの…」「はい?」「列、進んでるんで、詰めたほうが」
彼女は眉間にシワを寄せ、かなりの眼つきで前を覗き込むと慌てたように手提げの荷物を抱えて間を詰めた。
「すいません、今日は入学式だけなので眼鏡 置いてきちゃってて…ありがとうございました」「いえいえ」
そう言うとまた至近距離で本を読み出した。気不味い空気に目を泳がせていると、対面のホームに時東の姿が見える。どうやら、早速出来た友人たちと一緒に帰るらしい。彼女の陰気さに負けず劣らず友人たちも物静かそうな面々だと、内心失礼だとは思いながらもそう思った。遠くで電車の姿が見えると、ホームにアナウンスが響く、私は準急で一駅ほどの所に帰るため、この電車には乗らず次の列車を待つことにした。脇に避けると元居た辺りを人混みが通り過ぎてゆく、そして間もなく発車した。
「あ、電車…」「もう行きましたね…」「…本、片します…」「その方が良いかも…」
取り残された先程の彼女の傍に私は歩み寄った。せっかくなら部活で破った殻のついでに友達の1人でも作ってみようかと、一時の気の迷いみたいなものだったと思う。思えば、この出会いだけは後にも良い思い出だったと言えそうだった気がする。
「やっぱり持ってくるべきだったな…眼鏡」「な、なんか切り替えれるんですか?かけると…」「え?あぁ、そうなんですよ。眼鏡ないとポンコツで…」「い、意外ですね。しっかりしてそうなのに」
部活からすこし時間が経って冷めてきたのか、次第に会話がぎこちなくなる私をよそに、彼女は少しずつ笑顔を見せるようになっていた。彼女は私より更に遠くから通っているらしい。田舎にしては珍しくわざわざあの高校に進学したんだそうだ。私なんかよりよっぽどちゃんとしている人だ。なんだか、急に私が恥ずかしくなってきた。
「お名前、聞いても?」「柴崎茜です。よ、よろしく…」「財部といいます。あ、下は絢音です。こちらこそ…」
不思議な縁だったが、案外良いもんだ。そう私が思ってると、特急の列車がホームに入ってきた。財部は荷物を持つと一目散に開いたドアから乗車するとキュッと振り返って小さく手を振った。私もなんだか気恥ずかしくなって小さく手を振ると、彼女は席に腰掛けまた本を取り出した。
「乗り過ごさなきゃ良いけど…」
部長に惹かれて入った演劇部だったが、彼女が口にした
「引退公演」の言葉に既に心がざわついていた。
・・・久手川さくら 引退まで66日
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