1。メルティ・イノセントの日常
底が見えない洞窟。
一人の少女が、その断崖の境に足をかける。
その間、わずか一ミリ秒。
「お、おいッ」
ちょうど灌木に潜んで穴を観察していた商人の男が、ハッと我に返り少女を呼び止めようとする。
屈強な成龍が、丸ごと吸いこまれそうなほどの洞窟。
思わず
凶悪な魔獣ですら道を遠回りして避ける場所。
怪異の巣窟か。
あるいは、邪神の幼体か。
なんにしても、だ。
この中には、とんでもない化け物が潜んでいるに違いない。
……そんな場所に、自ら飛び入るだと?
……そんな、武器一つない軽装で?
歴戦の冒険者が精鋭のパーティーを組んだとて、こんなものを目にしたら一目散に逃げ出すだろう。
それなのに目の前の、年端も行かぬ程の女の子は飛び込もうとしている。無言で。真顔で。
狂っているのか。
「ま、待っ――」
しかし呼び止める間もなく、その少女はひらりと飛び込んだ。
まるで一枚の薄紙を落とすかのような軽やかさと、その身動きの華麗さに一瞬、商人は見惚れた。
そして我に返り、慌てて再度穴を覗く。
少女の姿はもう、見えなかった。
一方。
巣窟に飛び込んだ少女の方は、やや愉快そうに落下の感覚を味わっていた。
彼女の名前はメルティ・イノセント。
この、魔法のある世界の住人だ。
可憐な容貌をしているが、その姿に騙される事なかれ。
正直彼女自身も、自分の年齢を知らない。
ただ気づけば、生きていた。
それだけだ。
親も仲間もいない。
やりたいことも特にない。
そんなメルティの毎日は、簡単なものだった。
依頼を受けて、報酬をもらう。それから、帰る。
以上。
そして今日も依頼を受けて、とある果樹園近隣の森にやってきていた。――あたかも、何気ない日常を過ごすかのように。
「【緊急依頼――邪神の住んでいる巣窟が、私の果樹園の横に突然できました。これのせいで、今年の収穫はほとんどパーです。なんとかしてください】……ね」
太ももまでを覆うコートの横ポケットから、依頼書を取り出してボソリと読み上げる。
同じような依頼が、全部で八枚。全部、この洞窟についてである。
「『邪神』、ね……。ほんとにいるのかな」
畑だけを荒らす邪神って……ちょっと腕白な感じがする。
笑い事ではないが。
「それにしても、本当に深い」
もうだいぶ自由落下を続けている。
まだ、底が見えない。
……と、その時だった。
「……む」
彼女はぴくりと反応した。
コートの長い襟で口元を隠し、左手をウサギの肩掛けポーチに添えた。いつもの癖だ。
――思い浮かべるは、一人の哀しき守護者。
「……【忘却された巨人――ガロミヤ】」
「オゥ゛エッ」
メルティの声に反応して、ポーチがその縦に伸びた口を開き、ギザ歯を見せる。
丸パンをちぎるようにソレは半分に割れ、中から一枚のカードを吐き出した。
べっとりと唾液がついているのにも気を向けず、メルティはそれを食いちぎった。
「……【
そう唱えると、カードはギラリと怪しげに発光して、メルティを飲み込んだ。
圧倒的な悪意が、彼女を侵食していく。
ボコリ、ボコリと変質する肌。
マフラーも、ぶかぶかなコートも、靴も。
自分の全てが、まるで巨大化したような感覚。
あるいは、周りが小さくなったというべきか。
そんな、幻覚。
ゆらり。
一筋の気配が、背後から迫る。
ちらりと肩越しに目をやり、メルティは空中で身を翻した。
「……【守護者の誇り】」
「ギャッ!?」
咄嗟に展開したガードが、ナニカを強く弾く。
「……む」
弾いた反動を使って、岩壁に飛び移る。
顔を上げ、メルティは眉をひそめた。
視界を覆いつくすような、人知を超えた存在。
彼女の目に映るのは、巨大な「口」であった。
半径がどれほどあるかも測り知れない、大きな口腔。
その奥から覗くのは、朽ちた板状の歯。そして歯には無数の管がまとわりついており、その生き物らしからぬ禍々しさをより一層強めていた。
襲撃を防がれたのが気に食わなかったのか、ソレはブルブルと震えて、ガラガラと歯を鳴らしている。
「……」
一方、メルティの方はあくまでも無表情だ。
何食わぬ顔で壁を蹴ると、その口に自ら飛び入った。
「ゴギギェ……ガゲッ!!」
「おっと」
怪物は
瞬時に、当たり一面から濁った泡が噴き出た。
毒液。
蒸気。
粘液。
徐々に、徐々に彼女は沈んでいく。
――端から見ると、問答無用の大ピンチだ。
大の大人でも泣き出す体験である。
というのにメルティは、ただ真顔で怪物の歯をペタペタ触って、うーんと唸るのであった。
そして、薄く笑いを浮かべると、ぼそりと零した。
「……なるほど、理解した」
――二時間後。
阿鼻叫喚の冒険者ギルド内。
「どどどど、どうするるんん」
「おおおおおちちつけけ」
どうやら、阿呆な誰かがデカブツを仕留めて、そのまま街中を引きずり回ったらしい。
そしてついにその阿呆が、
その大きさ、実に邸宅一つ分。
その悪臭、門番が全滅するほど。
その醜さ、街中が災厄騒ぎをするほど。
その阿呆というのが一体誰なのかは、言わずもがな。
メルティは、歯ぎしりをするギルドマスターをキョトンと見つめ、おずおずと口を開いた。
「……えぇっと、洞窟に擬態するゼリーみたいなやつで、空気に体を溶かせるから……」
「……それで?」
「中に落ちると口が見えてきて」
「うん。……それで?」
「……あとは、べちーんって殴った」
「……すばらしい。依頼達成だ。だがその前に、何か言うことがあるだろう」
ジロっと睨みをきかせてくるギルドマスターを、メルティは見つめ返した。
それから横でずっと笑いをこらえている、副ギルドマスターらしき女性をちらっと見てから、また視線を戻した。
「えーっと、ごめんなさ……い、かな?」
「なんで疑問形なんだよ!!」
ベシンと木机が叩かれたのを皮切りに、メルティは三時間もの小言を聞くことになったのだ。
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