第46話

「とりあえず新しいマンションが見つかるまでうちのアパートで我慢してな」

 そう言う翔は、本当に申し訳ないような顔をしていた。


 菜々美のマンションから翔のアパートへと移ってきたふたり。ノートパソコンと、必要最低限の荷物を持って。

 瀬田にはマンションを少し空けることを話した。山之内は実家の事情を知ってるから、全てを話した。話を聞いた山之内は、新しい住まいを探してみると言ってくれた。


「山之内さん、なんだって?」

 電話を切った菜々美に、珈琲を渡す。

「新しい住まいをいくつかピックアップしてくれるって」

「山之内さん、そんなことまでしてくれるのか?」

「友達に不動産関係の人がいるんだって。あのマンションも山之内が探してくれたの」

 珈琲をひとくち口に含むと、ふぅ……と深いため息を吐いた。

「バタバタでごめんね」

「いや。こっちこそ、こんな狭い部屋で悪いな」

 菜々美の隣に座ると翔も珈琲を飲む。



「なぁ」

「ん」

「このまま、結婚しちゃおうか」

 翔の顔をまじまじと見た菜々美は、驚きで言葉が出てこなかった。

 そんな菜々美にくすりと笑って、頭に手を置いた。

「翔……」

「菜々美と付き合ってから、そう思うようになった。ずっと一緒にいたいって」

 いつになく真剣な顔をした翔に、菜々美は顔を逸らした。

「い、いきなりそう言われても……」

 菜々美には結婚のイメージが沸かない。それもその筈だ。母と養父を見てるといいものとは思えないのだ。


「ゆっくり、考えて?」

 翔の優しい言葉は頷くことしか出来なかった。




     ◇◇◇◇◇




 翔のアパートに移り住んでから、毎日のように養父からの電話とメッセージが入る。マンションに菜々美がいないことに気付いたのだろう。どこにいるんだと毎日毎日、菜々美のスマホが鳴る。それも一時間置きに。



《どこにいる!》



「うわ……っ」

 スマホが鳴るとビクッとしてしまうようになった。

 仕事をしていても落ち着かない。そもそも翔のアパートで仕事をしていること自体、落ち着かない。それなのに養父からの電話に苦しんでいる。

(仕事にならない……)

 頭を抱える菜々美は、ため息を吐いた。

「気分転換してこよ」

 立ち上がり、外に出掛けようと身支度をする。ノートパソコンをカバンに入れてアパートのドアノブに手をかけた。

(なんか……。嫌な予感……)

 咄嗟にドアチェーンをかけた。


(ドアの向こうに誰かいる……)

 菜々美はそっとドアから離れる。ベランダ側に行き、スマホのメッセージアプリを開いた。

 メッセージアプリの一番上に翔の名前がある。名前をタップして翔にメッセージを送る。

《誰かとドアの向こうにいる》

 翔のアパートは、玄関入ってすぐにキッチンだ。キッチンの横に小さな窓がある。その窓から人影が見える。動かずにこちらの動きを伺っているかのようだった。



 ブーッ、ブーッ!

 持っていたスマホが静かに動いた。

 画面を見ると翔の文字。

『菜々美?そのまま聞いて』

 電話の向こうで翔が話す。

『クローゼットか風呂場かに隠れていて。おれ、早退してそっち向かってる。あと、晴斗にも連絡入れておいた。晴斗の職場が近い。とにかく、すぐに行くから隠れてて』

 一方的に話すと電話が切れる。仕事中なのに電話かけてきて、更に早退してきてくれる。その気持ちが嬉しかった。


 スマホを握りしめてクローゼットに隠れる。風呂場は玄関の左側なので怖かった。

 ドンドンドンッ!

 ドアを叩く音が聞こえた。

「菜々美ーっ!」

 やっぱり養父だった。

 どうやったのか、ここを嗅ぎ付けてきた。

 クローゼットの中で震える菜々美は、どうしたらいいのか分からなかった。ただそこで震えて時間が過ぎるのを待っているだけだった。

 今まで養父から殴られたとかそういうことはない。だが、菜々美にとっては怖い人だった。それは大人になってからも続いていた。


(だから逃げたのに……っ)

 涙を堪えるのが辛く、震えながら涙を流していた。

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