第29話

 翔の優しさがストンと菜々美の中に入ってきた。それは本当に些細なこと。菜々美を気遣ってることが分かる。

 それは毎日菜々美のマンションに来ては、食事を取ろうとしない菜々美の為にお弁当を買ってきたり、最近は料理をしてくれたりする。あるいは仕事に構いっぱなしで片付けまで行き届かない菜々美の為に片付けをしてくれたり。疲れた菜々美をただ傍にいて抱き締めていたり。

 ちょっとしたことで翔の優しさが身に染みる。



 パタン。

 パソコンを閉じた菜々美は一息吐つくために仕事部屋からリビングへと向かう。

 平日の昼間。ひとりで仕事部屋に籠りっきりの菜々美は、誰にも会わないという日もある。一歩も外には出ないこともある。

 そういう生活はダメだなぁと思うが、小説を書き出すと他のことには見向きもしないのだ。


(今頃は翔も仕事してるんだろうなぁ)

 ベランダの窓を開けて外の空気を取り込む。青空が広がってるこの時間に、菜々美はほっとしていた。

 近くの公園では子供たちの声が聞こえてくる。昔はその声が鬱陶しいと感じていたのだが、今はその子供たちの声は微笑ましいと感じる。

(無邪気だなぁ)

 その声からどんな様子かが伺える。


「さてと。もう少し頑張ろっ」

 背伸びをして仕事部屋に戻っていった──……。




     ◇◇◇◇◇




 その日は翔は来なかった。翔にも予定はあるだろうと、気にも止めてなかった。

 翔がいなくても、軽く何かを食べてお風呂に入ってビールを飲む。

 そんな日常を過ごすだけだった。


「なんか……この部屋、広く感じる」

 翔がいないだけでひとりは寂しいと思う。

 こんなにも寂しく思うなんて……と、言葉にしてしまいそうになる。

 それ程までに翔の存在が大きくなってることに菜々美は気付いてなかった。



 ~♪~♪~♪~

 スマホが鳴った。画面には山之内と表示されていた。

「はい」

『菜々美先生!すみません!』

 大声が耳に痛い。この山之内は本当に声が大きい。

『明日の打ち合わせ、ちょっと時間通りにそちらへ行けないかもしれないです』

「そうなの?」

『はい。菜々美先生の前に他の作家さんの打ち合わせが入ってしまって、その作家さんとの打ち合わせは本当に長引いてしまうんですよ、いつも。なので出来ればこちらの方まで来て頂けると嬉しいんですが』

 担当作家は他にもいるこの山之内は、菜々美との打ち合わせに間に合わないと慌てて連絡をしてきた。

 それはたまにあることだから菜々美は素直に受ける。

「いつもの店に行けばいい?」

『はい。そうして頂けると……』

「じゃ午後だよね?」

『はい。終わる前にメッセージ入れますので』

「分かった」

 菜々美はそう言って電話を切る。

(久しぶりにひとりで外に出るな)

 殆ど外に出ない菜々美は、こんな時じゃないと外へ出ない。それも分かってるからか、山之内は外での打ち合わせをたまに提案してくるのだ。

 スマホを置いてパソコンを開いた。そしてカタカタカタ……と、キーボードを叩く音が部屋に響いた。

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