第14話

「なんで」

「え、子どもが持ってたら危ないって」

 ランドセルに折り畳みナイフは、たしかに似合わない。しかし、前しか行く道が見えていないような阿波根に、背負った通学鞄の中にナイフが入っているとか、筆箱が入っていないとか、内容のあれこれの、どこまでが目に入っていただろうか。

「なんでナイフ持ってたの」

 きゃあ、とくすぐったそうな顔をして体位を崩した阿波根は、お互いの思いが分かりきっている上で、それでも恥ずかしさにうねりながら、これからのさらに甘い展開を期待する恋愛告白をするようとでも言おうか、一語一語を大事に、語を継いだ。

「台所にあったからぁ、持ってたら便利だあ、と思ったわけさ。うふふ」

 酒でも飲んだような奇妙な上機嫌である。折り畳みナイフを忍ばせていた理由を、おれは肺からの軽い一息のついでに聞いただけなのに、少年はもう楽しい、嬉しい、恥ずかしいらしい。恥ずかしいといっても消え入りたい暗い恥の感覚ではなく、くすぐられて身悶えしながら、もっともっとと求める恥ずかしさだ。

 おれは刺激してやらなかった。そういう趣味がない。阿波根はくねくねしていた。


「冬っていえばさあ、古田さんは、雪、見たことあるわけ?」

 そう聞かれた時、おれはまぶたの裏に故郷の降り積もる雪景色が映って、笑ってしまった。阿波根にはおれの頭の中なんて見えないくせに、なぜかおれと一緒に笑っていて、抜けた前歯の顔がもっとおかしい。

「古田さんが笑ってるのが、おかしい」

 走っても息の切れなかった阿波根の耳の端が、ほんのり色づいていた。

 ああ、この耳、描きたい、と思う。自由で、素直で、健やかだ。色黒で、もはや色が付くとも思えなかった耳だ。紅がほんの少し足されて、故郷で雪像を作るあの少年少女と同じ目線だ。


 ものを描きたいという苛立ちは、民宿に帰っても、次々と噴き上がった。砂を、木を、寝転がったときに見える民宿の天井を、おれは描いていった。見たものを紙に写し取ると、記憶をそのまま持っていってくれたようになる。頭が軽くなる。

おれはじっと、生身の目と手先を通して、鉛筆をインク代わりに、記憶のコピー機になる。

 どんなに慣れても、長時間使用が、熱を発生させるもとであることは変わりなかった。寝なければいけないし、食べなければならない。

それは、心配する母のためだ。周りのためだ。それから分かっているけど、おれのためでもある。


 不快とか面倒とかにかまけて、毎日のいろんなことをスキップして飛ばすとどうなるかは、さながら、階段を一段ずつ降りたときと、高さのある段から飛び降りたときの違いのように対照的だ。後者はぐっと、足にくる。体にくる。その感覚をおれは知っている。足先か、悪くて膝や腿までじいんと痺れて、立てなくなって、高いところから飛びすぎたことを心から後悔する。今度は、横着な心を押さえて、階段は一段ずつ降りようと思う。

 でも、通り過ぎるべき日課についての印象ときたら、仕方のないことと分かっていても、うざったくてやってられない。日のストレスについて誰かがおれに聞いたとしたら、描く以外のことを必要とする、この生肉の塊だと答えるだろう。


 二週間の滞在もあと一晩に迫った夜、民宿のおじさんはおれのところにやってきた。


「良かったあ」

 おじさんはおれにそう言って、両手でおれの両肩を押さえつけるように、ポン、ポンと叩いた。

「古田さんさあ、死にに来たんじゃないかって、思ってたんだよ」

「死ににですか」

「そうだよ。四泊するっていうのに、カバンもないしさあ。これは、何かあるなって思ったんだよ。でも、最近は元気になったねえ。画家なんだね」

「おれ、あんまり色々気にしないたちで」

「今はあんまり色々気にしないんだなって分かるよ。空港では分からなかった」

 おじさんは、良かった、良かった、と嬉しそうに、先生が生徒の卒業を喜ぶみたいだった。

「じゃ、明日は気をつけてね。明日は忙しいから、送っていけなくて悪いけど」

「いえ、お世話になりました」

「じゃあね。がんばってね」

 ずいぶんあっさりした別れだった。死にに来たんじゃないかとか、おれの背景を想像していたにしては、先生のような心配と安堵の色が出たのは、ほんの一瞬に感じられた。たしかに、宿泊者に自殺や事故なんてあったらと思うと、寝床を貸す側としては安穏ではいられないだろう。

 おれの身の心配をするなら、明日も空港へ送ってくれよ、と無礼にはなれなかった。

 スーパーで買った、おれの両太ももでさえ入りそうな大きさの紙袋に、この二週間で多くなった荷物を放り込んだ。部屋の外に放り出したままにしておいたゴミ箱を空にして、力強い顎の小さな蟻たちを洗い流し、まだ水流に耐えてしがみついている一匹を指ではじき、水滴を拭いて室内に入れた。スマホで目覚まし時計をセットして、もう、今晩のやることはない。

 そうだ、と思い出して、おれはスマホのメモ帳に、「コンビニのてんぷら」と入れた。明日、タクシーで空港に向かいながら、途中のコンビニに寄ってもらおう。

「明日帰るよ」

 母にメッセージを送った。空港で、土産のちんすこうでも買っていこう。


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絵描き、南の島へゆく。 谷 亜里砂 @TaniArisa

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