第13話
民宿の二階の電灯の下は、明るすぎるくらい明るかった。そこでおれは、鉛筆を削る。
三十年ほど生きてきて、鉛筆をはじめて削ったのはいつだっただろうか。習い事で通っていたとき、教室の先生が教えてくれたのだろうが、もうその日のことは覚えていない。
自分の感覚にぴったり合うように、道具を尖らせる。故郷でおれが慣れ親しんだメーカーの鉛筆は、南の島のスーパーでは手に入らなかった。
結局、おれはこういうことをしたがるんだ。鉛筆を削るという見知った動作に、安心している自分がいる。
これで良い。照明のチリチリした主張の強い明かりは、昼間の日光と違って、濃い影を作るのが好きらしい。
取り巻く世界の全てを長い目で見ていられるような、安心と余裕のある気分だった。阿波根が持っていた鉛筆を欲しいと思った自分が、誇らしいような気持ちでもあった。
それでも、一抹の心配はある。
鉛筆を握って、紙に向かって、また何も思い浮かばなかったなら、と思う。
そしたら、また海に行って、波打ち際に座って、くるぶしから下を砂に埋めて、海水が満ちるか、引いていく様を、夜じゅう、ずっと感じていよう。夜はきっと暗くて何も見えないけれど、触覚は利くだろうから。
そしていざ紙に向かうと、鉛筆にナイフを当てたのは、おれの、ただの習慣のなせる業だったらしい。このところは放置されていた、身に染みた動作をすべしという習性がせり上がり、おれにそうさせただけだったらしい。
「描けんかあ」
おれは紙に鉛筆を当てて、紙や、手や、鉛筆の長さを眺めていた。やがて、両手に持っていたものをぱっと放り出した。描けなかったら夜の海に足を浸して、慰めにしようと思っていたのに、そのまま毛布を頭から被って何も見ないようにしていたら、いつのまにか寝てしまった。
翌日の午後も、阿波根は木陰にやってきた。夢に出てきそうな、がきんちょを絵に描いたような無敵の笑顔、薄い生地の半袖、スポーツ用の半ズボンなんかを着ているから、日に当たることに慣れ切った、肌の色が目立つ。
「もう十月なのに、半袖かよ」
「こんにちは。元気ですか。えっ、半袖?」
阿波根は、慌てたニワトリが喋っているように言った。今日は、おれの言葉を聞くより先に、用意してきた挨拶の言葉が飛び出たらしい。
「古田さんも半袖じゃん。今日は鉛筆持ってるね。買ったの?おれもやろっと」
走ってきたのに息も切れていない阿波根は、乱暴にドサリと落としたランドセルにかがんで、まず筆箱を取り出した。生きる速度がけたたましいほどに乱雑で、速い。
「今日さ、宿題やってたから褒められた。だからこれからここでやることにした」
「誰に褒められたの」
「先生! 花丸ももらった!」
赤の太いフェルトペンで、ほぼ一筆書きと思われる、堂々とした花丸を、阿波根はおれの目の前に掲げた。先生は、コメントも残していた。
「字は、マスの中に書きましょう」
「今日はちゃんとやるからそれはいい!」
プリントを入れているファイル綴りにはチャックが付いていて、そこから今日の分の宿題を出すと、花丸と先生からのコメントがついた分をしまって、しっかりと閉めている。
おれはやっぱり、阿波根のシャツの生地が薄いのが気になった。淡い色のシャツは、おれが着ると色んなものが透けそうだ。いや、もしかしたらもう透けているのかもしれない。おれは自分のシャツの下側を引っ張ったりして眺めたが、しっかりした紺色の向こう側に何も見えなくて、ひとまず安心して語を紡ぐ。
「そうか、ここは寒くならないもんな」
「今は冬だし。十月、十一月、十二月、一月、二月までは冬」
阿波根はむっとして言った。
おれは、冬の概念が君とおれではきっとずいぶん違うぞと思いながら、鉛筆を削る方に視線を戻した。
「ナイフ、没収されちゃった」
阿波根がおれのナイフを見て、思い出したように報告をした。
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