第11話

 昨日、おれが日射しを避けて逃げ込んだあの日陰の中から、まっすぐで細い、浅黒い足が二本突き出ていて、青い靴に、濃い青の靴下を履いていた。男の子らしかった。

 茶色のランドセルは、その少年の背から降ろされたままの形で静止しているのか、斜めに鎮座している。

 子どもに挨拶をすると不審者情報に載ってしまう昨今、おれはその少年に挨拶をするつもりもなかったし、おれの場所をとっているこの子どもが、早く帰らないかなとさえ思っていた。

 平日の朝、海の木陰で学校をさぼっているらしいその子は、しばらくするといなくなっていた。

 おれは席の空いた木陰で休んで、スーパーで買ったおかかのおにぎりを食べる。今日の持ち物は充実していて、ちょっとしたビーチパーティのような気分だった。優雅に過ごそうという気になって、スーパーで白のビニール袋に飲料やスナック菓子を詰め、高揚した気分で買い物の疲れも感じないまま、いそいそとこの浜にやってきたのだった。

 ふと、おにぎりの海苔の色にそっくりな黒の、四角い筆箱に気付いた。少年が落としていったのだろう、どうせここに探しに来るだろうからと動かすこともない。


 拾った貝や、サンゴのかけらや、ゴミを、砂で小さな家を建てて、そこへ集めた日中だった。集めているうちに潮が満ちてきて、砂の家ごと海に還った。

 海が迫ってきて、狭くなっていく砂浜から何かを発掘するのを諦めきれないまま、少し暗い夕方が来る。

 おれは木陰に座りにいった。気持ちを切り替えて、お茶を飲みながら夕焼けを見ようと思ったのだ。

 そして、まだそこにあった黒の筆箱が目に入った。そういえば、あの子どもが来ていない。


 忘れ物は、おれも子どもの頃、したことがある。学校から帰宅すると、今はもういない、父に勉強を見てもらい、時間割に合わせてランドセルの中身を整えておくのだが、夜、教科書や鉛筆なんかが見たくて、出してしまう。子どもだから、それっきりうまく戻せずに、翌日、学校で少し気恥ずかしい思いをする。

 あの子は、明日、学校で、筆箱がないことに困るだろうか。


 そこへあの少年が、ぐねぐねと右に左に折れながら、下を向いて歩いて来る。おれは合図して、筆箱を差し出した。南の島は、おれの性格を少しだけ、人好きな方へ寄せていた。

 少年は筆箱を受け取りながら、はにかんだと思いきや、ぱっと笑った。

「ありがとう。名前、なに?」

「ふ、ふるた」

 おれが名乗ってしまったのは、上前歯が二本とも抜けた、底抜けに明るい笑顔のせいだったか。

「古田さん?おれ、阿波根です。宿題やろっかなあ」

 阿波根は、するっとランドセルを置いて、開けかけて、やめた。思い付きやその動作が早いのが、子どもらしかった。

「ダメだった。宿題できないんだった」

 人懐っこい笑顔を浮かべて、阿波根は筆箱をチラリと見やり、それをしまおうと思ったのか、今度はランドセルを開けた。

 そして筆箱を手にとったが、この数秒のうちに気が変わったのか、筆箱の中身をおれに見せた。

「ほら、みて」

 阿波根が筆箱を開けると、不揃いな長さの鉛筆は、全ての芯が折れていた。

「鉛筆削りがないから。なんも書けない」

 少年は、ほらね、というように、差し出した筆箱を閉じて置いたまま、おれの顔を見ている。

 おれは、閉じられた筆箱を、そろりと指先で開けて、「卍」だとか、「夜露死苦」だとか、均整が悪いものをしっかり見てとった。

「見るなよお」

 阿波根が嬉しそうに言い、もちろん、筆箱を閉じはしない。

「鉛筆、全部ダメでしょ? だから、宿題したくても、できないわけ」

 鉛筆の芯が折れているから宿題が出来ないというのだ。

「ナイフがあったら、鉛筆、削れるけどな」

「ナイフ持ってる!」

 おれがつぶやくと、阿波根はランドセルの中に手を突っ込んで、折りたたみナイフを出してみせた。

「どうやるの? どうやって鉛筆削るわけ」

 おれがパチンとナイフの刃を出すと、ところどころに傷がついているが、錆びてはいなかった。阿波根は、おれが鉛筆に刃を当てるのを見ると、子どもらしい調子で言った。

「もうやり方わかった、かして、やりたい!」

 それで、おれは鉛筆を少しも削ってやらないまま、阿波根に明け渡すことになった。阿波根は刃が危ないと分かっているらしく、おれから差し出されるまでナイフをとろうとはしなかった。

おれは、阿波根が刃で鉛筆を削る手つきを時々直してやりながら、おれも鉛筆が欲しいと思う。

 鉛筆が欲しいというその衝動は強いもので、おれは見ず知らずの人懐っこい小学生に、頼むことになった。

「鉛筆くれよ」

「いやだよ」

「一本だけ」

 阿波根は鉛筆とナイフから目を上げた。

「大人なんだから、自分で買って。変な人なの?」

 そしてまた、続きに取り組み始めた。

すげなく断られて、おれはスマホのメモ帳に、「鉛筆」と加えた。ついでに、「消しゴム」「なんか紙」も入れた。よく考えれば、鉛筆があっても、紙がなければ描けないのだ。物入りだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る