第10話
夜、おれは日焼けした肌がチクチク痛かった。民宿のおじさんが、おれに冷たいローションをくれた。爽快なにおいのする、緑色のネバネバした液体で、スライムのようだ。
「熱が出る人もいるんだよ」
おれの日焼けに諦め顔のおじさんを立てるため、おれは全身にスライムを塗った。
おじさんが今日もくれた、ビニール袋に作ったおにぎりは少し臭い米で、粒も小さく元気がない。ふりかけは均等に混ざっていない。
「ごめんねぇ、一人暮らしの男だから、何にもかまってあげられんくて」
丸い目をパチ、パチと瞬いて、おじさんが言った。
「奥さん、島に帰っちゃったんだよ。それまでは、民宿で食事も出したりしてたんだけど」
食事付きのプランがあっても、おれはわざわざ食事の付かない素泊まりのプランを選んだだろう。
「最初から、素泊まりのつもりだったんで」
おれは臭い米のおにぎりを平らげて、汚れたビニール袋をゴミ箱に捨てた。
「あっ、奥さんはね。一緒に育った従姉妹の体調が悪くて、お見舞いに行ってるわけ。ケンカしたとかじゃ、ないよ」
尊厳を守るように、おじさんは付け足した。それから奥さんの従姉妹の健康状態について、本名とその個人情報を一通り喋った。宮平祥子さんとやらにどこかで会うことがあったら、おれはお見舞いを言うべきだろうかと考えた。体調が悪いというか、体育館でバドミントンをしているときに転んで、右足の腱を切って不自由しているという。
「祥子さんはね、結婚もしてないわけさ」
きわめて気の毒でデリケートなことを扱うような口ぶりで、おじさんは言った。
「でも、最近は結婚しないのも普通だからね」
そして次に発したこの一言で、雰囲気を覆したのだった。
「古田さんは、結婚してないの。独身?」
話題はおれに降りかかった。
当のおじさんはというと、結婚して三十八年になるという。息子が三人いて、全員が県外に働きに出ている。それでその三人の名前を挙げ、おれに聞くのだった。
「会ったことある? ないか。知り合いが来ないかなと思っていつも聞くんだけど、会ったことないんだよなあ」
おじさんの三人の息子は、てんでばらばらの地域に住んでいるし、おれの地元ともそれぞれが遠い。
「絶対に会ったことはないとは、言い切れないんですが」
おれはなんだか深刻になってしまって、三人の名前を記憶から探し続けていた。
「思い出したらでいいよ。ま、むこうは広いからね。会ったことがなくても、不思議じゃないよ」
元気づけるようにおじさんが言った。
おじさんが一階へ降りていってから、おれは、自分の肌の熱が下がっていることに気が付いた。時間が経過したために通常の温度を取り戻したのか、もしくは、とスライムに目をやった。これはスライムではなくて、本当に効果のあるジェルなのかもしれない。
さしあたって、おれの方から民宿のおじさんへ何かを要求したり、尋ねたりすることはなかったのだが、ただひとつだけ、小さくて明るい茶色のアリが、おれをかじることだけは相談した。
「あのアリ、噛まれたら痛いよね」
おじさんは同情するように充電式の掃除機をくれて、おれは一日に二度は、それに頼った。ホテル並みのホスピタリティを期待してはいけないと、一泊の値段をスマホで見た時から分かっていた。
そのアリどもが、ビニールの内側についたおにぎりのでんぷんめがけてやってくることに気が付くやいなや、おれは部屋のゴミ箱ごと外に出した。民宿の物だから投げなかっただけだ。うっとおしかった。
掃除機をかけて、おにぎりと飲み物を持つ。ゴミ袋は、アリがたからないように袋の口をぎゅうぎゅうに締める。それでもゴミ箱を部屋に置いておく勇気は出ないまま、おれは部屋を出る。今日は買い物リストを携えてスーパーに寄り、それから海へ行くつもりだ。
その日は、先客がいた。
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