第8話

 おじさんが開けっ放しにしたままの二階のおれの部屋の出入り口から、周囲の住宅や、ところどころに生えた、幹のしっかりした木なんかが見えた。

 昨日は夜の帳の中で、よく見えなかった景色だ。畑らしい場所もあった。それはおれの興味を惹いたけれども、もっと惹かれるものがあった。

そう遠くない場所に、青いものが見えたからだ。

 たぶんあれが、海だ。

 おれは、昨晩買って着たばかりの白い半袖のシャツ、グレーの半ズボンで、寒暖の不快さから完全に逃れた場所にいる。

 おにぎりも食べたし、だるさもない。どこにでも行ける気がした。靴を履いて、海の方向を目指して歩き始めた。


 すると、暑い。海岸がじりじりと近付く興奮は、日射しで焼かれた肌のつらさと相殺された。直に露出している腕や頬が、ヒリヒリと痛い。いくらも歩いていないのに、南の島の太陽は、観光客に向かってかえって張り切っているのかと思われるほどだ。

 それでも海の青さの理由を目で確かめなければと、おれは自分の予定を覆したくなくて、任務を遂行する騎士のつもりになって、なおも海岸をさして進んだ。騎士は、肌の痛みなどなんでもないように歩くはずだ。

 白い浜が眼前に広がるようになると、騎士だったおれは、突然に犬になった。靴をうっちゃらかして、足を波打ち際につけてみたり、手で白い砂をいじるだけでは飽き足らず、足で砂を深く掘ってみたりと、好き放題やりはじめた。

 肌の痛みは忘れた。

 白浜の白は、クリームシチューの白ではなくて、仏壇に供える蝋燭のような白だ。従姉妹の姉さんがお嫁に行ったとき、着ていた白無垢の白だ。カブを切った、その中身の白だ。

 遠くの方まで見渡してみると、粗いのと細かいので色は分かれているが、明るい白には変わりないようだ。

 浜に右手の指を立て、砂をその右手に掬いとり、左の指でならして見てみると、白い砂の、一粒は小さく、それが無数にある。もちろん大小や形の差異はあるが、どれも手の相に食い込むほどの細かさだ。手を砂だらけにして調べていると、海風に乾いて、落ちるものもあれば、かえって手にしがみつくものもある。

 砂だらけの手の平を海水に浸すと、粒がやわやわと流れて、海に帰っていく。水が透明だから、その様子がよく見える。沖は青い。手前になるほど透けている。

 これを海水ではなくて、綺麗な水なんだと言い張る人がいても、きっとおかしくはない。


 ここの海は、おれの知っている「海」とは大きく違っていた。近付く者を許さない、海水は黒くて荒く、飛沫を派手に飛ばしながら打ち付ける。波は白く泡立つ。足元の丸い岩々を、おもちゃみたいに転がす。

 岩々は波の手の内でぶつかり、転げながら、ゴロゴロ、ゴロゴロと、低く唸る雷様の声を出して、歳月をかけて小さく擦れていく。

 それがおれにとっての「海」だ。

 そこで耐えて育ったカニは、マグロは、「海」に負けないように懸命に、体をつくっているらしい。その身は旨い。あぶらがじわりと溶けて、口内にぱっと分解するが、さらりと流れて、残らない。


 こんなに透明で温い海に、あの魚たちがいるとは思えない。


 海水をたたえているだけで、全く性格の違うものが、同じ固有名詞を付けられている。「海」という同じ名前なのに、全く違うということが許されるのか。

 まあ、学校のクラスにも、同じ名前なのに全然違うやつだっているし、と、小学校の頃の同級生二人の顔を、ほわほわと思い浮かべた。一人は首都に仕事を見つけて飛び立ったまま帰らず、もう一人は、親から受け継いだ山に小さな小屋を建てて、ほとんど下りてこない。


 おれは白の砂粒を踏みつけて、これが海でもあると、声はなくとも驚嘆していた。砂浜は、掘っても、掘っても、いくらでも砂が出てきた。

 「海」には恐ろしくてこんなことはとてもできやしない。近寄るだけで攫われて、流れに頭を沈められ、撫でくりまわされてしまうだろう。

 反面、こちらの海はどんなに感触を楽しんでも、叱られる心配はしなくて良さそうだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る