第6話

 夜の長さに感謝した。眠くはない。時計を見ようとも思わなかった。誰とも約束などない、おれひとり。スマホは電源が入っていたが、画面を下にして部屋の隅だ。

もう四泊分の宿泊料は支払いが済んでいるし、とにかく今は、「おれの時間、おれの感覚」で過ごせる。いつ寝たっていいし、何を食べてもいい。死んだように寝てもいいはずだ。

 丁寧に三食摂り、決まった時間に起床する義務からでさえも、おれは航空券をとって逃げてきたのだ。

 好きなことしかしないつもりでいた。風呂だって、入りたいと思うまでは入ってやるもんか。


 十月の故郷で、おれの家の風呂は冷たいと思うようになった。そんな中で服を脱ぐのも嫌になり、脱衣所のヒーターのスイッチを入れにいくことも、なんだか今年は苦痛になっていた。

「お風呂どうしたの」

 母は優しく、おれが風呂に入らない理由を聞いてきたが、おれにだって分からなくて、答えようがなかった。突然、面倒になったのだ。それがどうしてかは知らない。

週に三回、コーヒーショップの仕事に出る前には風呂に入っていたから、かろうじて、社会に迷惑はかけていなかったはずだ。


 ふと、思い当たった。おれが風呂に入っていないことは、特にとりたてて母に言ったわけでもない。それなのにむこうにそれが分かっていたのは、なんだったのだろうか。

 少しはっとして、恥ずかしいような気持ちになった。やっぱり臭かったのか。週三の風呂では、足りなかったのか。

 おれももう、髪があるだけの三十代だ。体が汚れていても、一般的には、少年みたいに可愛がってはもらえない。例外的に、母はおれが少年だった頃のなごりなのか、世話を焼こうとする。おれは、母の前で少年ぶっている自分を、胸中で𠮟りつけて黙らせる。習慣になっている距離感は、年月が経つともう、こそばゆい。


 民宿の、おれの部屋の外にある洗面台には、工事現場でしかお目にかかれないような、パワーのある電灯がついていた。

 明るすぎるくらいのその電灯は、おれがこの民宿に来た頃から光っていたはずだ。この二階に上がってきた時、階段がよく見えていたこと、二階全体が見渡せたことを思い出した。

 おまえのおかげだったんだな、と、太くて黒いコードが、二階の柵を乗り越えて消えているのを、目で追った。

 電灯でそこら一帯が明るい。洗面所に近付き、水を手にためて飲むのも難なく出来た。蛇口の、金属の接続部分を中心にはびこる錆びまでもが、照らされていた。

 水と、食事を買いに行こうと思った。よくよく考えれば、体を洗う石鹸も、歯ブラシもない。

 清潔にしなくてもいいつもりだったが、布団や部屋を借りているのだし、虫歯になっても困る。


 さあ、買い物となると大変だ。忘れのないように、部屋の隅からスマホを呼び寄せて、メモ帳にリストを作った。

 商品棚というものはうるさくて、何の商品を探していたか、棚を目の前にすると、すっかりわからなくなってしまう。さっきじっくり眺めた棚のはずなのに、まるではじめましてのように新鮮で珍しいものに感じられて、おれは同じコーナーをぐるぐる回ることになる。

 くたくたになる前に立ち返って、目的を思い出すための記録場が、メモの役割だ。ここに戻れば、目線は必ず、目標物へ定め直せる。


 外を歩こうと思うと、脱いで放り投げたままのセーターを着る必要があった。ぐしゃりと力の抜けたセーターに清潔の要素はなかったが、汗のひいたおれにとっては、もう怖いものではない。不潔さに耐えて、着た。やはり、暑い。べとべとする。

 おれはメモ帳に、「半袖シャツ」と追記した。何枚あればいいんだっけ、と自問し、「三枚ずつ」と打ち込んだ。


 スーパーの看板は、白にほんの少しの青味を入れながら、煌々としていた。

 古い建物だが、商品棚の間隔は広く、掲示は大きくて見やすく、安い価格が有難かった。


 メモを見ては、まずは歯ブラシ、といった具合に狙いを定める。面倒でも、何度でも往復して、メモの一番上から確実に、商品をカゴに入れる。メモ帳に載っていないものは、必要だ、便利だと思っても、今は買わない。買うものは民宿で決めたはずだと言い聞かせて、努力して、商品から目線を外す。

 そうしなければ、おれは商品棚の迷路から抜け出せないだろう。物を買いにきたのか、物を見に来たのか分からなくなるとややこしい。そうなって疲労するより、気になるものから目を背ける努力の方が、うんと楽だ。

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