第5話
民宿のおじさんは、いつもは空港への送迎をやっていないが、「今日は暇だったから」、車で迎えに来てくれたという。夜になるとバスの本数も少なくなるし、と続けながら、シートベルトをパチンといわせた。
その小さな軽自動車は後部座席も簡略化されているほど小さい。単純な板のベンチみたいなその後部座席に、塗装がところどころ剥がれた、赤い釣り竿が一本乗っていた。
「あんた、荷物ないんだね」
「はい」
「たくさん持ってくる人もいるよ。人間が入るんじゃないかってくらい大きな荷物の人も」
気をつけていないとあやうく聞き逃すような、耳慣れないはこびの音でおじさんは喋った。
夕食をとっていないと話すと、おじさんはコンビニに寄ってくれた。
おれはおかかのおにぎりを買おうとして、どこに行っても画一的なはずの商品棚に、「ポークたまごおにぎり」を見つけた。ポークとたまごが、おにぎりになっているのだろうか。気になったが、努力して視線を外して、おれにとっては新奇性のないおにぎりと、お茶を買った。
おれは買う物に悩み始めると何時間も夢中になって過ごしかねないから、はじめに決めたものだけを選ぶのが、誰かと過ごしているときには大切なことなのだ。
連れがあるときに選ぶのは、おにぎりだとすればおかか、おかかがなければ梅、それもなければ明太子と、順番が決まっている。
「まあ、ここで買わなくても、うちの近くに大きい店があるから。そこでカップラーメンとか買ったらいいよ」
おじさんはコンビニの中で何度かそう断り、おれはレジ横の、見たことのない名前のてんぷらを見ながら、その話、何回か聞いたなとうすぼんやり知覚しつつ適当な相槌を打ち、両目はやっぱりてんぷらを見ていた。
おじさんは車に戻ると、袖なしのダウンジャケットを脱いで、後部座席の赤い釣り竿の上に放り投げた。それからグレーの薄手の長袖の裾を折り、車の窓を半分開けた。
「今日は暑いねえ」
「暑いです」
車が走ると風が入ってきて、おれの髪は容赦なくぐちゃぐちゃにされたけれど、汗をかいてきたぶん、涼しい。良い気分だ。
夜で見通しが利かないにしても、車から外の景色を眺めるぶんには、何の問題もない。夜の景色が続くだけだ。草が生い茂った暗い歩道か、がっしりした造りの家々が並ぶかといったところだった。蛇が出そうだ。
木造の家は、見たところ一軒もない。民宿は、白い二階建ての家だった。
二階部分には外階段で上がることが出来て、六畳一間の畳部屋が横並びに三部屋ある。
真ん中が、おれの四泊の住まいだった。部屋には湯沸かしポッド、ふとん一式があった。
食事はついていないけれど、おじさんが熱心に勧めるのは、近くの二十四時間営業スーパーだ。
二階の住人の共用としては、三部屋の向かいにシャワー室とトイレ、洗面台がついていた。それから、洗濯機もあった。
「スーパーの方が、コンビニより安いよ」
おじさんは出会ったばかりのおれに、何度もスーパーの存在を推す。実はそのスーパーの経営者なのだと言われても、驚かないくらいの宣伝だった。
「はあ、いってみます」
おれが答えると、満足というか、安心という顔をして、一階へ引っ込んでいった。
「うちから出て、右に行ったら、あるから」
一階へ続く階段にグレイヘアの毛の先端が消えるその間際まで、おじさんは、スーパーの存在を強調するのを忘れなかった。おれは、まずは部屋の様子を確かめたかった。
おれの他、宿泊者はいない。真ん中のおれの部屋は、奥に窓があって、その反対側に出入り口がある。おれはその両方を開けて、ようやくセーターを脱いだ。眠る布団があり、カップラーメンのお湯はポットで用意できる。水道があるから飲むものもある。不足はない。
汗は涼しく吹く風に冷えて、気持ちが良かった。畳にごろりと横になったまま目を瞑り、その瞑ったまぶた、ほうった腕、上になった手の平、やわらかく折れた指から、力という力が抜けていった。
どこかの犬の吠え声で目を開けた時も、外の暗さはちっとも変わっていなかった。
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