第4話
不安になった気持ちが、この島の人は時間を守ることに頓着しないという噂を掻き起こし始めた。そうすると、おれの迎えにも遅れているんじゃないかと、そう的外れとも思えない悪い予感がもやりと沸いてきた。
もしそうなら、この不快なセーターを脱げるのはもっと後になりそうだ。
着替えを持っていないことに考えの手が及んだとたん、おれは地団駄を踏む子の気持ちになった。自制の力がなかったら、小さな子のようにそうしただろう。
今、身に着けている下着と、薄手のセーター、靴下、チノパン、手にもっている厚いカーディガンが、手持ちの衣類の全てだった。
あまりに頼りないことだが、おれが持ってきたものは、おれが纏ってきたものだけだ。
時々だが、おれの故郷の山に、軽装備で入って酷い目に遭う人がいる。だいたいは、よその土地から来た人だ。もうおれはその人たちのことを、嘲笑わないだろう。準備不足が事前に分かるものかと思った。
あつい。おれは、何を考えていたんだろうかと、一日前の自分をそう責めたところで、代わりに身に着ける布地が出てくるわけでもない。飛行機を降りたときには汗ばみだったものが、大汗になろうとしている。
たしかに、寒いのが嫌で南に逃げようと思ったに違いないんだが、だからといって、無難な服装のはずのセーターに、こんなに苦しめられるとは。蒸れた毛糸が首回りにチクチクする。下着が、脇や背中の上部からねっとりと張り付いてきている。
気持ちが悪い。内臓のそれではなく、肌の上の話であり、この湿った曇り空の気持ちのことだ。髪の生え際の汗は玉になり、他のものと交じって大きくなり、自らの重みで落ちる。
セーターなんか嫌いだ、と脱ぎ投げたくなる。
迎えの車は、どこに来ているんだろう。
気持ちは鬱屈していた。
民宿に直通の電話番号があったはずだ。そこへ連絡しようと思ってスマホを取り出し、航空機の中で電源を落としたままだったと気付いた。気持ちはこれ以上ないほど下がりきっていたから、しゅんと落胆しきった感情の波は、収束したグラフみたいに地を這っていた。起動から始めなければならない現実である。
手の中で何度か震えてあくびをし数時間ぶりに起き出したスマホは、危機に瀕する主人などおかまいなしに、すっかり目が覚めるまでもう少し時間がかかりそうだった。
ああ、泣きたい、と声にしたいほどに思う。足元に空港のタイルが並んでいた。このタイルは、おれよりも困った旅行客を何人も見てきたのか。その人たちがどうやって急場を乗り切ったのか、こいつらは覚えているだろうか。
この空港で死んだ人の話はこれまで聞いたことがないから、バッド・デイを過ごした先輩たちは、おそらく、たぶん、誰も、ここでは死んではいない。どうにかうまくやったんだろう。だったらおれも、なんとかなるのだろうか。おれはもう、脱げないセーターに絞め殺されるような気持ちでいた。
最悪だった出来事を数えないおれのことだから、喉元過ぎればこの状況だって、きっといつかは、そうだ、いつかはきっと、と楽観が意識を掠めた。
ふと、タイルから顔を上げると、あたりを見回している男性がいた。頭頂からこめかみに向かって短くなるグレイヘア、背がしゃんとしていて、袖なしのダウンジャケットを着ている。寒がりに違いない。おれはもう防寒具なんて見るのも嫌だったが、その男性は目がぱちんと合った上、おれが探していた車の脇に立っていた。
「古田さん?」
丸い目を強調するように少し顎を引いて、男性が言った。六十代くらいだろうか、おじさんの幅の広い二重、濃い眉毛、それに不思議なイントネーションが、おれの苗字を南国風にしていた。おれは急に元気付けられて、気持ちが人懐っこくなった。
ええ、ええ、とうなづくと、おじさんはふっと笑って、車の方へ誘うように半歩下がった。
「暑い?」
そう聞かれて、おれは手でさっと鼻の頭の汗をぬぐって、愛想よくした。
「暑いです。服、間違えました」
「みんなそう言うよ」
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