第2話

 でも、その時はなんだか、寒くなるということが、一月どころか、もう十月ということが、とても耐えられないように感じた。


 今冬の雪像の出来、同級生の最新情報、めでたい正月の話なんて遠くて、十月と一月の間には」、心理的に大きな隔たりがあった。線を引いたのは、おれだろう。いつからそれが始まったのかは分からない。


 向こう側の、さむい方へ行きたくない。楽しみなこともあるはずなのに、行きたくない。


 雪が傘の上に着地する、しゃらしゃらした音がする。吐いた息が白く広がり、いっぺんに無散する。


 あの冬には出会いたくない。それが避けられないとしても、せめてもう少し、待ってほしい。


 それで、南の島に逃げてしまえ、と考えつくに任せて、手の中のスマホで航空券を買った。

 南の島、そこは冬の手の及ばないところ、一月か二月になっても、地面が凍ることもない場所だという。

 その話は知識として知ってはいたが、実感を伴って心底信じ切っていたわけではない。訪れたこともなければ、雑誌なんかを買って予習したこともない。

 情報に受け身でいても、南の土産のクッキーは貰えたから、存在を疑ったこともない。

「ちょっと。あんた、お土産の、チョコのかかったやつ全部食べた?」

「食べた」

 父は十年前に亡くなって、母とは二人暮らしだから、食べたのはおれしかいない。それでも母は聞いてくる。


 もう三十回の冬を越したというのに、三十一回目のそれから離れてしまいたくて、そうは言っても、自分にしては、ずいぶん思い切ったことを考えた。一人旅は、したことがなかった。家長任せな家族旅行でも、遠い南の地が候補にあがったことは、あっただろうか。なかっただろうか。

 暖かい場所に行けるなら、少しばかり旅することなんてちっとも苦にならない、そんな気分だった。鳥が南へ向かうのは、そこが暖かいからだ。何日もかけて移動するのは、その価値があるからだ。おれに翼はないが飛行機には乗れるし、同伴はいないがクレジットカードがある。


 ともかく、エメラルドとも、コバルトとも呼ばれる青い海に囲まれた南国行のチケットは、十月というシーズンオフのおかげで、思ったよりもずっと安く買えた。

 航空会社が、南の島のイメージ画像なのか、明るい青と白で構成された絵を表示していた。主張する色彩に目が眩みそうで、本当にこんな景色だったら、おれは目を開けていられるだろうか。光量が高すぎるんじゃないだろうか、だが、南に行ったせいで網膜が焼けついたという話は聞いたことがない。


 おれは「旅行に行ってくる」と言って、散歩でも行くような軽い感じで、母が在宅した、玄関を出ることにしていた。実際、そうした。

 閉まる戸が起こした涼しい風は、おれの額に、ふう、と息をかけたようだった。

 途端にバタバタと、フローリングを転げるような足音が近づいてきて、おれは玄関から半歩下がった。母が向こう側からドアを押し開け、眉根を寄せた顔を出した。口角が平等に下がって、山の形になっていた。

「ちょっと。旅行ってどこに行くの」

「四泊五日だから」

「四泊なんて。連絡とれるの」

「とれるよ」

「どこなの」

 南の島だよ、とおれは下を向いて、母の、厚手の靴下のままの足を見た。

「かあさん、靴下のまま」

「あんたがいきなり旅行とか言うからじゃないの。ちょっと来なさい」

「飛行機の時間あるから、もう行く」

 母は繰り返した。おれは靴下の花模様を見ながら返事をした。

「連絡とれるの」

「とれるよ」

 おれは玄関の外ノブを握って、ドアの向こうに母を封印した。母はそれ以上、後追いしてこなかった。扉を閉めるとき、中に消えていく母の顔を見た。瞬々、あきらめの色が足されながら、ドアの向こうに封じられていった。


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