絵描き、南の島へゆく。
谷 亜里砂
第1話
それは十月のことだった。過ごしやすくなったと、よく聞くようになった。
「やあ、やあ。やっと涼しくなりましたなあ」
「ええ、やっとですね」
職場でも、こんなやりとりが挨拶のひとつになった。
おれは、これから冬がやってきて、寒くなるんだと思った。
余計な金は子どもにかけない家に育ったおかげか、靴や服を貫く大気の冷たさには、おれは人一倍、強いはずだった。職場にコーヒーを飲みに来る客が、よく持っている使い捨てカイロ、あれをうらやましいと思ったこともないほどだ。
真冬、冷え切ると指先の運動が理想通りにいかなくなるから、温める。爪の先まで感覚で満たされていないと、思ったような線が引けない。
「すみません。まだ手があったまってなくて」
そうしてへなちょこな字の伝票を差し出す。申し訳ないし、恥ずかしい。
「大丈夫だよ。全然、読めるよ」
周りは読めても、おれとしては不服な気分だ。
職場には暖房がきいているが、出勤したばかりだとおれの手先がまだ冷たいときもあって、こんな風な事故が起きるのだ。
毎年、おれはカイロを握って出勤すべきか考える日がある。思い通りの字を書くためには、必要な装備かもしれないと思う。でも、結局、買ったことはない。
「ちょっと。薄着すぎるんじゃないの」
だいたいは母が、こんな一言をおれにかける。それが冬物を出すタイミングだ。
冬について言うと、あれは目に見えるものでもある。寒気は遠くの山からやってくる。もちろんそれ自体は見えやしないが、自然物の色が呼応する。夏は青味がかった頂が薄い色合いになり、やがて白いものを被り、そして一進一退を繰り返しながらも確実にこちらに降りてくる。
呑み込まれた町の空気は凛と冷えて、ついに路上や家々に雪が降り積もるようになる。家と職場を往復するだけの、おれの傘の上にも、例外なく降る。排水溝にも平等に降って、雪を捨てるところもないくらいに降って、どこかの子どもの宝物や、誰が冷やしていたのか、ビール缶なんかも抱いたまま、数カ月、抱え続ける。
諸々を埋め込んだ雪の上で、雪合戦とか、かまくらとか、おれが一通りやりつくした遊びを、今の子どもたちも一応、今でも、なぞっている。
「雪を食べてはいけません!」
このセリフも、毎年、どこかで聞いている気がする。声の主は子どもだったり、大人だったり、色々だが、誰かがいつもたしなめられている。
「ギャー!」
と笑い叫ぶ声もする。雪を食べたかどうかは分からない。
家のそばの畑は今年も公園代わりにされて、たまには、よくできた雪像が作られるだろう。
地元の同級生と数人で集まると、みんなの髪色が変わったり、服が変わったりするのを見て、ああ、おれも。そして、おれは、と思う。身に付けている防寒具を新調したくもなる。
結婚したり、進学したり、色々の理由で、ここから人はいなくなり、と思えば、帰ってくるやつもいる。
正月は情報飛び交う季節で、実家がある地元に顔を出す同級生も多い。誰がどこでどんな風になったとか、毎年、酒の一杯を目の前に座っているだけでも、噂話の一端くらいは耳に入る。
「遠藤、ケンカ強すぎてスカウトされたって」
「え、なにそれ。なんのスカウトだよ」
「まだ、短気なの直ってないの」
「今日、遠藤来ないの?」
交わされる消息を聞いては、学校の運動場に、教室に、体育館に居た同級生たちが浮かぶ。子どものときの印象そのままに育ったやつ、路線が変わったやつ、逮捕されるのを待っているような、とち狂ったやつ。
みんな同じ型の椅子に座って、みんなが同じ黒板を向いていたあの頃を思っては、「あのときは、こんな風になるとは思わなかったなあ」と、かなしさやら、懐かしさやらに浸りながら壁にもたれる時間が、おれの正月らしい。それは、好きだ。
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