第三首

 新緑に 響き渡る 碁を打つ音 辺り引き締め 時が止まる


 短歌擬き☺️-令和5(2023)年2~月分

 お題19「丁丁」(トウトウ) より



            

              『盤上の鬩ぎ合い』


 桜の花が散り、その後に芽吹く淡く柔らかな新緑の葉が目立つ様になった初夏の事だった。

 霞の薄く掛かった夜空に浮かぶ月の光が、人里離れ孤立する様に建つ、崩れ掛けた小さな家屋を照らし出していた。


 所々破れたひさしの隙間から射す月の光が、縁側に据え置かれた碁盤をまだらに照らし出すと、反射した光が対面に坐する人物の姿をも薄らと浮かび上がらせる。

 

 ぴしり、


 碁石が盤を打つ音が辺りに響き渡った。


 彼の人物の向いに坐する者は居ない。棋譜をなぞらえているのか、それとも己の眼前に架空の対戦者を幻視しているのか。その顔は未だ若く、あどけなさすら残した、世間の風に慣れ切っていない、何処かぼんやりした所のある青年のそれであった。


 唇を真一文字に引き締め、必死に集中を途切れさせまいとするその様は、鋭くもあるが、同時に一寸した拍子に脆くも崩れ去ってしまう危うさすらも併せ持っていた。


 ぴしり、


 と、そうする間も再び盤を打つ音一つ。


 折しも初夏の夜に忍び込むかの様に立ち込めた霞が、その音にまるで打ち払われるかの様に、スッと引いて行く。

 それも束の間。再び湧いて出た霞は嵩を増し、家屋を取り囲んだかと見ると、青年の座る碁盤の前に収束して行き、やがて一つの形を取る。

 それは青年より一回りも二回りも巨大な図体を持つ入道の姿。土塊つちくれを不器用に固めたと云った態の鈍重な頭。その真ん中に一つだけある大きな目が、ギョロリ、と青年を睨め付けた。


「一局お相手願う。」


一言掛けられた言葉を合図に、人ならざる物と一介の人に過ぎない青年との対局が静かに始まる。


 ぴしり、ぴしり、


 暫し無言の対局が続く。大入道の、袈裟をだらりと着崩して、胸元開けて片膝の、顎を頻りに撫で付けながら、顔を顰めて熟考の。対する青年の、折り目正しい正座から、凛と伸びた背筋の上で、盤上を見詰める眼差しは、あくまで静かで涼やかで。


 青年の打ち筋は、的確に一つ目入道の泣き所を衝いて行く。


「むう。」


 やがて入道が一声呻ると、その身体は徐々に溶けて行き、霞となって庭に流れ、再び結ばれるその姿。土に膝付き深々と、首を垂れてただ一言、


「参りまして御座います。」


 対局が終わって青年が、ふう、と一息吐く間も無く、今一度、面前に結ばれる新たな姿。こうして始まった、人と妖との百番勝負。


 様々な棋譜、定石、奇策が盤上に飛び交う。時に劫火に包まれる中で激しく切り結ばれる合戦場、またある時には吹き荒ぶ風の中、空に舞い飛ぶ千切れ雲に時折姿を隠しながら地表を照らす月の下、互いの隙を伺ってまんじりともしない二人の剣士と云った、刹那の油断も許されぬ勝負の行方。


 それら全てに打ち勝って、尚も涼やかな佇まいを崩さない青年の姿。敗れた妖達の、縁側に齧り付く様にして見守る目、目、また目。

 或る者は一つ目、又は人と変わらぬ二つ目で、その間から額に据えられた三つ目が覗き、果ては全身に隈なく並ぶ百の目が、青年の打つ手に瞠目し、カッと一斉に見開いて、続いて起こるオオ、と云うどよめき。これで98戦目。これはもしかすると、もしかするぞ、と。


 そんな期待混じりの中で、不意に、リン、と響く鈴の音。その音に皆一様に押し黙り、続いて現われたその姿に、或る物は慌てて目を逸らし、又或る者は魅入られた様に視線を切る事が出来ず、その口はポカンと開いたままで。


 妖艶と云う言葉が、そっくり其の儘当て嵌まるその姿。

 見る者の心を蕩かせて、誠に甘露と啜ろうと、薄く笑ったその口元が、僅かに開き告げる言葉。


「さあ、次は私でしてよ。一手ご指南頂きとう御座いますわ。」


 悪戯気に細められた眼差しが、青年に注がれた。

 

 妖達の固唾を飲んで注がれる目線の中、それを意にも介さず、さもそれ等が無いかの様に、まるで見守るのは空に浮かぶ月ただ一つと云った様子で、対する二人の少しの間を置いて響く対局の音が、空蝉の空に響いて消えて行く。

 果たしてどちらが有利なのか、見ている妖達の、ただの一人も検討が付かぬ。対する二人の打つ手の、綾なす複雑怪奇な唐草模様。果たしてどこに向かって伸びて行くのか、終わりがまるで見えて来ない。今となってはその始まりも。


 何時果てるとも言えない、時の堂々巡りと云ったその中で、不意にポツリと妖の、その艶やかな唇から、洩れた言葉が、月の光に交じって青年の、心の襞を搔き乱さんと、そっと忍んで伸びて行く。


「つれない人。先程から一言だって仰って下さらないのね。私はこうして再びお会い出来る日の事をずっと心待ちにしていたと云うのに。」


「覚えがありませんね。」


 青年に向けておずおずと、言葉となって伸びた細腕を、ぴしゃりと払い除けるが如く素っ気なく返す青年の、更に打つ音魔を払わんと、辺りに響く冷たくも玲瓏な音。


「覚えが無い、覚えが無い、覚えが無い……。」


 うわ言の様に繰り返す妖の、その目は徐々に険しさを増し、


「そう、その様に仰るの。なら、私も変に手心を加える必要は無い、と云う事ですのね。ならばその身にしかと思い知るが良いですわ、好いた男に袖にされて、全てをかなぐり捨てて破れかぶれになった女の恐ろしさを。」


 辺りの空気が俄かに冷たさを増し、ピリピリと緊張の増して行く中、固唾を飲んで見守る、居並ぶ妖達の、果たして次に繰り出される一手は如何なるものぞ、と囁き見交わして。対面に座る青年も、此処が勝負の決め所、と居住いを正し、来たる一手に備える構え。


 しかして、繰り出された一手は、その場にいた誰しもが予想もしなかった所から。


「貴方が幾ら覚えが無い、などと仰った所で、私の此の両の耳は、あの日あの時私に貴方が囁いた言葉の、一つ一つ余さず覚えていましてよ。そう、あれは今宵の様に月の綺麗な夜の事……、」


 と、其れ迄口元に当てていた、扇を閉じて指し示す、月のかんばせ


 思わずつられ見上げる月の、しかして皆一様に困惑した顔。一体自分等は何を聞かされているのだろうか、と。不意に話を向けられた月までも、戸惑う様にくすんで見える。


「あんなにも綺麗な月を目にしながらも、あの時貴方はこう仰ったでしょう? 忘れる筈もありませんわ。今宵はあんなにも綺麗な月で、でも、その光に照らされた貴女の何と綺麗な事(や……)、空の月は誰しもがその姿を眺めていられる誰の物でもない物で。でも、今僕の前にいる貴女の美しさは、誰の物でもない、僕の、僕だけのたった一つのお月さまだって(止め……)。そう仰った貴方様と来たら、それはもう、幼子みたいに可愛らしいお顔で……。」


「ブフゥッ!」


 堪りかねて噴き出した青年に、出来た一瞬の隙を見逃す筈も無く、刹那の内にその背に回り込んだ、青年のたった一つの月の女が笑い掛ける。しかし、其の笑った顔は其れ迄の、妖しさ恐ろしさを微塵も見せず、寧ろ童女の様に悪戯っぽくて。


「これ! これ! 離せ! 離しなさい! 皆が見ているじゃありませんか! そんなはしたない真似をするひとだとは思わなかった!」


「皆?」


 そう言って投げ掛けられる視線に、雁首揃えて其れ迄ポカン、と呆気に取られていた妖達は、泡を喰った様に、或る者はその手で目を塞ぎ、又或る者は両の手で耳を覆い、残った物は一様に口元を隠す。

 言わずと知れた、日光は東照宮の、「見ざる聞かざる言わざる」の構え。


 その仕草を保ったまま、潮が引くかの如くその場を足早に去って行く。例え此の世の説明の付かぬ妖しさを、その身に宿す者達であっても、馬に蹴られて死にとうない。すわ、退散退散! とばかりにバタバタと、慌ただしく走り去って行ったその後は、端から其処には誰も居りませんでしたとばかりに開けた庭が、白々しくもあるばかり。


「あら、嫌ですわ、誰も居らっしゃらないではありませんか。」


「其れは、貴女が……。」

「私がどうか致しまして?」


 と言いながら身を寄せて来るのを、必死になって逃れようと身を捩る青年の、しどろもどろに繰り出す言葉も、最早力無く、


「駄目です、駄目ですよ、所詮僕と貴女は人と妖。決して結ばれる事の許されない間柄なのです。だからこそ僕は……。」


「この魔を払う百番勝負に打って出たと? そう仰るのね。あらあら、でも、それは余りに遅きに過ぎた事ではありません事? こうして一人の女をその気にさせておいて、その後で冷たく袖にしようだなんて、それが一体人のする事ですの? 最早妖に片足踏み込んだ所業と云う物。ねえ、この、ひ と で な し。」


「アババババ……。」


 最早勝負は此処に着いた。あどけなく笑い縋り付く、その手を払う術を青年は最早持たず、腹の底から大きく一つ溜息一つ吐いて、諦めた様に憑き物のすっかり落ちた年相応の表情で、


「貴女には適いませんね。」


と一言呟いた。



 月にまで掛かった夢の懸け橋を、共に手を携え歩み行く二人の男女の姿を、ほんのり浮かび上がらせる月の柔らかな光が、何処までも遠く照らし出す。密かに交わされる睦言、その内容を他に覚らせる事の無い様、すっぽりと優しく包み込む様に、その光は仄かに明るくて。やがて消え行く二人の姿を、橋が折り畳まれて行く様にゆっくりと月に掛かる横雲が。



 すっかり人気も絶えて、寂しさを増した家屋の庭に、不意に現れた直垂姿の人物が、眠たげな眼を擦り現われる。


「やれやれ、すっかり遅れてしまった。今宵の勝負は此処で良かったのかな?」


 しかしながら、幾ら見渡してみても誰の気配も無し。見ると縁側近くに据えられた碁盤がポツリとあるばかり。寄って覗いたその顔が顰められる。


「何だこれは、打ち筋が滅茶苦茶ではないか。こんな動揺した手では最初から勝ち筋など無かったと云う事か。どうやら自分が来るまでに勝負はついてしまったと云う事らしい。とんだ無駄足になってしまったな。当世稀に見る神気の持ち主という事で、あわよくば、と思っていたが、どうやら先に横から掻っ攫われた跡と云う事か。いや、詰まらん詰まらん、久方振りに良い勝負が出来ると思ったのだがなあ。」


 言って、碁盤の前に座ったその人物は、戯れに石を手に取り盤に打ち付ける。嘗て本因坊と讃えられ、その後変じて妖となったその人物の放つ音は、此の世ならざる身でありながら神気を放ち、辺りに籠った邪気を払い、それは月に掛かった横雲の、夢の名残をも打ち払って、残る月の面をさらけ出し、その光はいや増しに増し、この世を煌々と明るく照らし出したのだった。





                              終



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