第3章
第27話 花の湖で
手でひさしを作って眺めた先には、雪を積もらせた山々がまるで絵画のように聳え立っている。新鮮な空気を胸一杯に吸い込むと、森林の爽やかな土のような香りと、足元にこれでもかと咲きほこる花々の優しい香りが鼻腔を通り抜けていく。
「いい場所だろう?」
「ええ、とても」
アヴェルスがサンピティエと約束を交わしてから一ヵ月が経とうとしていた頃、ソワールは再びアヴェルスを誘い二人で出かけていた。
獣人がいると今でも恐れられている深い森を馬で抜けると、そこには見渡す限りの花畑が広がっていた。
それにしても、こちらを見上げる花々の色はどれも青や緑、白といった涼し気な色彩ばかりだ。
そよ風に柔らかな髪を揺らす肩から小さな鞄を提げたソワールは彼の考えていることを察すると、髪を耳にかけて彼を振り返った。
「土に含まれる成分や微生物といったものが奇跡的に保っている均衡のおかげで、涼し気な色の花しか咲かないのだとここに住んでいる者に昔聞いたことがあるよ」
微笑むソワールは、花々を愛でるように足元を眺めながら続けた。
「この花畑を最初に発見した人間は、好奇心旺盛なひとりの旅人だったそうだよ。あの森に獣人が潜んでいるかもしれないという逸話を、異国の人間は知らないからね。何の恐怖心もなく森を抜けられたのだと思う。あと少しで森を抜けるという時に、その旅人は遠目からこの花畑を見て湖だと勘違いしたらしい」
「勘違いするのもわかります。もの凄く綺麗な青だ」
この花畑はイスバートさんに教えてもらったのだと言っていた。その旅人がこの地を見つけるまでは、獣人たちが森以外に心安らげる場所としてよく訪れていた場所らしい。
今では変わり者だが優秀な医者が住み着いているという噂があり、重い病を抱えた者がその噂を信じて医者を訪ねに足を運んでいるそうだ。
「人気がないから、いつもの話し方が出来ます」
「僕はソワールって呼ばれるの好きだけどな」
からかっているのか、本心からなのか、口元に手をやってくすくすと笑う殿下の心中はよくわからなかった。
「ねえもっと先へ行こうよ」
そう言って先を歩く殿下。
まるで本物の湖のように風にさざめく花々を行く赤い召し物を纏うソワール、その美しいコントラストにアヴェルスは見惚れていた。
可憐な花を踏みつけないよう並んで腰を下ろした二人は、これまで読んできた本についての話をした。アヴェルスが感動した本をソワールも読んだことがあったし、ソワールが涙を流した本でアヴェルスも涙を流したことがあった。二人は好みの作風が似ていた。
「それならアヴェルス、『ルフロンの恋人』って知ってる?」
それはアヴェルスが読んだことのない本であった。
彼は首を横に振ると、ソワールは静かにその内容について語った。
「男性同士の恋を皮肉った物語なんだ。作者の生まれ育った国では、同性間の恋愛は禁忌とされていたから」
初めに読んだ時はショックだったよ、と俯きがちに嘆いた。こんなにも差別的な内容を描いた本が、この作者の国では面白いと一躍有名になったということが信じられなかったのだとソワールはこぼした。
「だけど作者は後にひとり娘が結婚相手に女性を連れて来たことで考えを改めた。そして晩年、『同じ空の
「それはどんな物語なのですか?」
「『ルフロンの恋人』の主人公が、〝当たり前〟について考える話だよ」
主人公の男は、愛は男女の間にだけ育まれるもので、それが当たり前だと思っていた。だから男を愛する男を「普通じゃない」「おかしなやつ」と笑って生きて来た。
けれどその当たり前を覆すように、彼の友人や知人、身内が次々とカミングアウトをしていく。自分の愛する人は、自分と同じ性の人間なのだと。
今まで当たり前だと思っていたものが崩れ去った彼は、もっとシンプルに物事を捉えるようになった。
「どういうことです?」
「つまり、当たり前なんてものは存在しないってことに気がついたのさ」
どんな愛のかたちがあってもいいではなく、自分の考える当たり前から除外してしまっていただけで、どんな愛のかたちも前からずっとそこにあったということに彼は気づいた。異性を好きになる人もいれば、同性を好きになる人もいる。当たり前という言葉がなければ両者はどちらも自然に存在しているもの。
「当たり前っていうのはある種の偏見だ。同じ当たり前を共有できる人たちもいれば、出来ない人もいる。出来ない人の方が少数だと、彼らは忽ち虐げられてしまう。嫌な仕組みだけど、それが人間なのだろうね」
悲哀の込められた嘆息をする彼はアヴェルスに視線をやった。
「そんな簡単なことに死ぬ前になってやっと気がついたと、そう嘆いた文章が作者のあとがきに残っていたよ」
本の話をする時、殿下は内容の感想だけではなく、必ず作者やその本の背景となる歴史についても話し聞かせてくれた。その本が生まれたきっかけや、作者について殿下は博識だった。今まで本の内容を楽しむばかりだった俺には新鮮で、興味深かった。
「僕もきっと知らぬうちに当たり前だと思っていることがあると思う。それがきっと人との間に諍いを生み、傷つけている。そう思うと、当たり前だと思っていることに気がつくことは大切だと常々思うんだ」
自分の考える当たり前が誰かにとっての当たり前と同じだと疑わずに、知らぬ間に人を傷つけている人間が世の中には沢山いるだろう。彼らが悪人かと言えば、そうではない。人を助け、人を思いやる人間であっても、自分の中に存在する当たり前に支配されているものだ。
「だからこそ、『ルフロンの恋人』を書いた作者が『同じ空の下に咲く』を書いたってことにぐっときたんだ」
「読んでみたいです、どちらの作品も」
「書庫にあるから、好きな時に読むといい」
殿下にじっと見つめられ、なぜか胸の奥が熱くなった。その柘榴のような瞳があまりに美しかったから、こんなにも胸がざわついて落ち着かないのだろうか。
「ねえアヴェルス、君は花冠を作ったことがあるかい?」
「いえ、花に触れる機会すらなかったので」
苦笑するアヴェルスに、好きな花を摘んでおいでと優しく微笑んだ。
「僕が作り方を教えてあげるよ」
まるで子どものような提案に、微笑ましくなる。王弟として生きてきた彼でも、花冠を作ろうなどと言ったりするんだな。こうして二人で出かけている間は、王弟ではなくソワールという一人の人間が少しずつわかっていくような気がした。
ソワールのことを考える度、アヴェルスは自然と笑みがこぼれていた。
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