第14話 イスバートの過去
冬という白銀の季節の中でも、特に冷える日だった。もうじき暖かな日が昇るという時に生まれた獣人の子ども――イヴェール。彼は後にこの国の王弟、ソワールに第二の書庫の番人としてイスバートと名づけられ、仕える男である。
獣人の歴史を遡ることは難しい。なぜなら、獣人は過去を残さないからだ。彼らは常に今を、そして明日を生きている。
人間のように記録を残す習慣のなかった彼らの先祖については、彼ら自身も知らなかった。動物が人型へ進化したのか、密かに人間と結ばれた獣がいたのか、はたまた人間との間に生まれた突然変異であるのか。事実を知る者は誰ひとりとしていない。
獣人たちは人間の住む都から離れた森の奥深くで暮らしていた。時々山の恵みを収穫しにやって来た人間と出くわすことはあったが、人間に危害を加えるような危険な存在ではなかった。
獣人はみな心穏やかで、争いを好まない性格であった。森へ迷い込んで頭を抱えている人間を見かければ、密かに道案内をしてやるほど優しい心を持った生き物だった。
そんなある日、長く伸ばした黒髪を結ったイヴェールは木苺を摘みに川辺に足を運んでいた。そこには先客がおり、その人物は肩を震わせて泣いていた。木苺の植わっている場所からその人物へ近づき、茂みに身を隠す。
「お母さん…」
泣いているのは人間の子どもだった。
時々見かけるが、あれも森で迷ってしまった人間なのだろうか。
彼の両親なら姿を現すことなく人間たちを物音などで誘導し森から出してやれるが、イヴェールにはその自信がなかった。けれど泣いている人間を放っておくことができず、イヴェールは茂みを出て少年に思い切って声をかけた。
「迷子なの?」
勢いよく振り返った少年は大きく目を見開いて、微動だにせずイヴェールをじっと見つめた。丸く曲がった大きな角に、夜をそのまま閉じ込めたような髪と肌。深みのある青い目は、人間よりも迫力のあるものだった。彼の姿を見た人間は誰もが、悪魔と見紛うだろう。
恐ろしさのあまり身動きが出来ない…のとはまた違う反応のように思えた。人間とは異なる鋭い爪や人間にはない角に興味でも持ったのだろうか。変わった人間だ。
「人間も木苺って食べられるのか?」
少年にイヴェールはゆっくりと近づき、彼のてのひらに木苺をのせると元の位置まで後退った。人間が獣や獣人を怖がることを知っていたので、一応怖がらせないようイヴェールも慎重に行動した。
少年は微笑んで、もらった木苺を早速口にすると「酸っぱいッ」と叫んで川の水で口を
「ごめん、酸っぱかった?。甘いと思ったのに…熟してないやつだったのかもしれない」
戸惑うイヴェールを見て、少年は大笑い。
「ふふ、大丈夫。初めて食べたから、少し驚いただけ」
その少年はリアンといった。森の傍に住んでいて、この森へ母親と山菜を獲りにやって来たらしい。
「ままにここで待っててって言われたんだ。でもなかなか戻って来なくて…」
イヴェールはすぐに彼の母親の意図したことがわかった。
「ここから先は獣人の子どもでも危ない道があるんだ。だから君のお母さんは子どもの君を置いて、一人で向かったのかもしれない」
「そっか。………ねえ、獣人ってどんな生き物なの?」
躊躇いがちにそう尋ねる彼に、イヴェールは自分たち獣人の存在について話し聞かせた。
リアンの母親が戻って来るのを待ちながら、いつの間にか二人は打ち解け合ってお互いの世界の話をしていた。
「じゃあリアンはいつかその兵士っていうのになりたいんだね?」
「本当は作家になりたいけど、沢山稼げる兵士になってままに楽をさせてあげたいんだ」
「そっか。なら俺も応援するよ」
「ありがとう」
きらきらと陽光を反射させる川の流れに沿って小魚が泳いでいることをリアンが知らせると、イヴェールは大胆にも川の中へ足をつけ「警戒心が全くないな」と魚たちを心配した。どれどれ、とリアンが川へ入るとその途端小魚たちは素早く泳いで逃げて行ってしまう。
「お魚さんは獣人の君に心を許していたってことだね」
少し寂しそうに岸へと戻るリアンの背中に問う。
「なあ、ちなみに作家になるなら、どんなお話を書こうと思っていたんだ?」
「恋愛小説さ」
「ふーん、読んでみたかったけどな。兵士が嫌になったら目指せばいいんじゃないか?」
「そうだね…。イヴェールは将来何になりたい?」
「大切な人たちが幸せに暮すために何でもする獣人、かな」
「それじゃあ君が目指すのも獣人の兵士だね」
「そうなのか?」
「そうだよ。だとしたら僕たち似た者同士だね。ねえ、僕たち友達になろうよ」
友人になった人間の少年リアンと獣人の少年イヴェールは、じっと座って話をするのに飽きると小魚の逃げた川辺で綺麗な小石を探して遊んだ。
日が暮れ辺りが段々と暗くなり始めると、リアンの母親の声が聞こえイヴェールは森の奥へと足早に向かった。
「また会える?」
リアンは母親の声が聞こえる方へと向かいながら、暗い森の奥へ問いかけた。すると遠く向こうの方から「またねリアン」と声が聞こえた。
しかし、こうして二人が穏やかな時間を過ごすことは二度となかった。
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