第六夜┊四「役割分担」

 日が落ち始めてから、山道が宵闇に呑み込まれるまでに、そう時間はかからなかった。

 街灯のない山林は、三寸先どころか自分の足元すらも覚束おぼつかない有り様だ。若宮さんと星蓮せいれんは先に行ってしまったようで、僕はすっかり遭難してしまっていた。

 

 こんな町の裏手の小さな山で迷子はちょっと恥ずかしい。スマートフォンの頼りない光でなんとか前に進むが、とうに小道を外れてしまって、自分が来た方角もわからなくなっていた。


「困ったな……。二人も迷ってないと良いけど」


 言いながら、あの二人がこんな小山で遭難する事はまずないだろうと思い直す。日が落ちたくらいで迷ってしまうのは僕だけだろう。

 下手に動かず、二人が探しに来てくれるのを待った方が良いのかもしれない。そう思った矢先、視界の端でぽっと何かがともった。


 若宮さんか星蓮せいれんだろうか。淡い期待と安心感に胸を躍らせながら振り返った先で、ぽっ、ぽっ、と青白い炎が上がる。進路を防ぐように不定の間隔で並び、ゆらゆらと空中で妖しく揺らめく鮮やかなブルーの炎は、間違いなくこの世のものではなかった。


「うわっ……」


 逃げ出そうとして、もう一歩足を踏み出す。

 そんな僕の目と鼻の先で、警告するように「ぼっ」と一際大きな炎が噴き上がり、僕はその場でたたらを踏んだ。

 

 ぱら、と足元で小石が落ちる音がして、恐る恐る視線を下にやる。

 気付けば僕は、崖の淵に立っていた。

 

 遥か下方に、若宮神社の白い屋根が見える。

 目の前の狐火がなければ、僕は今頃、あの屋根を赤黒く汚す染みになっていただろう。

 自分が今、何もないところに足を踏み出そうとしていたことを思い知って、ぶわっと全身に鳥肌が立った。


「あ、危ないって教えてくれたのか……?」


 その場にへなへなとへたりこみながら、狐火に語り掛ける。宙に浮いていた青い炎が、呼応するように激しく燃え上がって、形を成していった。

 前足から徐々に姿を現していく九尾の狐は、狼よりもかなり大きく、暗闇の中できらきらと発光している。

 艶々と輝く毛並みは、白に近い金色だ。

 名を示す九本の尾も、先程化けていた猫又とは打って変わって、ふかふかとなだらかな円錐形を描いている。


 その豊かな首元の毛を、僕が先ほど貼った折り紙の花が小さく彩っていた。

 姿は全く違うけれど、菱形の瞳孔だけが先程と同じように僕を真っ直ぐに見つめている。

 

「……っ、だ、駄目だ、君は隠れないと」


 光り輝く毛並みを少しでも覆い隠そうと、そのふかふかした体に抱き付く。誓ってモフモフに惹かれたわけではない。

 暗闇の中で白金に輝く九尾の狐は、あまりにも目立ちすぎていた。

 どれだけ離れていたとしても、若宮さんが見逃すはずがないだろう。


 僕が言い終わる前に、九尾の狐が高らかにえて、その前足で僕の肩を上から踏み付けた。

 ぎゅっと地面に押し付けられる僕のすぐ上で、どすりと鈍い音がする。

 踏みつけられたまま首だけをよじって見上げると、見覚えのある破魔矢はまやが、僕を押さえつけている九尾の狐の前足に突き刺さっていた。


 膨らんだ風船に針を刺したように、矢の刺さった足からは、ぶわりと薄青い空気のようなものが漏れ出していく。苦しげに喘鳴ぜんめいする九尾の狐の様子から、こぼれていくその薄青いものが、この狐にとっての生命力のようなものなのだと直感で悟った。


「や……っ、やめてください、若宮さん!」

い。顔を上げるな、矢に当たる」


 姿の見えない射手に制止の叫びを上げていると、狐が僕に顔を寄せて、囁くようにそう告げる。噛み殺した息は依然いぜんとして苦しげだったが、耳の奥に響く、落ち着いた静かな声だった。


「贈り物の礼だ。貴様の望む通りにしてやろう。祓いたいのならば祓われてやる」

「えっ……」


 思ってもみない申し出に、何と答えていいかわからず思考が止まる。

 若宮さんからは、村を燃やした悪い怪異のように聞いていたけれど、僕が転落しないように狐火をともし、そのせいで矢に打たれているこの狐が悪い怪異とは到底思えない。


 それに、自分から「祓ってもいい」だなんて言ってくる怪異は初めてだ。

 それは人間にしてみれば、殺してもいいと言っているのと同じことで……。

 

「悩むか。構わぬ、心を決めたら名を呼ぶが良い」


 肩を押さえつけていた重みがするりと消えて、辺りを薄白く照らしていた狐の姿が、再び闇に溶けていく。


 九尾の狐が消え去るのとほぼ同時に、「おい、こいつに当たってたらどうしてくれるんだ! このノーコン!」「失礼ですね、私が外すわけがないでしょう。その悪口は撤回してください」と耳慣れた口論が草葉を掻き分けながら近寄ってきた。


 星蓮せいれんは地面に転がってる僕に気付くと、僕を助け起こしながら「よかった、どこも怪我してないな」と心の底から安心した顔を見せてくれる。優しいいつものルームメイトの姿にほっとしたのも束の間、キッと若宮さんを睨みあげると「おまえのせいでこいつに泥がついたじゃないか」と難癖をつけ始めた。

 

「離れないようにと言ったでしょう……。しかし、さすがですね。この短時間で二度も九尾を見つけるとは」

「待ってください。あの狐は僕を助けるために、見つかることも覚悟の上で狐火をともしてくれたんです。村を燃やすようなやつではありません!」


 へたりこんだまま必死で訴える僕に、「まあ、そうでしょうね」と若宮さんが軽く返す。特に驚いた様子もない。


「知っていたんですか?」

「あれは頭の回る怪異です。小さな村を燃やすことに何のメリットもない。それどころか居場所が割れて、こうして我々に追われる羽目になった。村を燃やしたのは、不慮の事故か、も言われぬ事情があったのだと思ってはいましたが——」


 言葉を切って、若宮さんが顔を上げる。

 矢をつがえた弦が引き伸ばされて、きりきりと高らかな音を立てた。

 

「これはさすがに予想外でしたね」


 あかい視線の先を辿ると、上空で何かが激しく燃え盛っている。真っ赤な炎は、先程の九尾が出していたような狐火とは似ても似つかなかった。


 牛車のような荷車に、火の付いた大きな車輪が二つ。

 平安貴族が乗るような屋形やがたは、立派な軒格子の中央で、光沢のある前簾まえすだれをバタバタとはためかせている。

 どうやら、その荷車も九尾の狐を見失ってしまったようだった。荷車は忌々しそうに「裏切り者め」「なぜ喰わぬ」としきりに繰り返しながら、空中を駆け回っている。

  

火車かしゃ。悪事を働いた者の死体を燃え上がる荷車に乗せ、運び届ける地獄の遣いです。——九尾の狐はあれにかれていたのでしょう。君の折り紙のお陰で引き剥がせたようですね」

 

 茶トラの猫にずっしりと伸し掛かっていたあの黒いモヤモヤは、火車かしゃの邪気だったのか。

 確かにあの折り紙を九尾の狐に譲ってから、山林全体が清らかな空気に満ち溢れている。

 

「ふん、さっきの狐があんな雑魚にかれるものか。格が違いすぎる」

「確かに、火車かしゃも決して弱い怪異ではありませんが、九尾の狐には比べるべくもない。けれど言ったでしょう。どんなに強大な怪異でも、心が弱っていれば付け込まれると」


 だとするなら、九尾の狐には心が弱ってしまうほどの、辛く悲しい出来事があったのだろうか。

 茶トラの猫が、まるで人懐っこい本物の猫のように、 僕に体を預けてくれていたことを思い出す。

 あれだけ人に慣れた怪異が、あれだけ人に心を許した怪異が、——村に火を放った。

 

「九尾の狐は、僕が望んだ通りにすると言っていました。祓いたいなら祓われてやると……。でも、僕は九尾の狐を祓ってほしくないです」


 火車かしゃに弓を向けたままの若宮さんに、縋るようにう。

 そもそも僕がここにいるのは、若宮さんが九尾の狐を祓う仕事を手伝うためだ。藤の怪異の時とは状況が違う。

 さすがに今回は聞き入れてはもらえないだろうと思ってはいたけれど、訴えずにはいられなかった。

 しかし若宮さんは、そんな僕をいつも通りの笑顔で迎えて、「言うと思っていましたよ」と目尻を下げた。

 

「普段なら聞き入れませんが、今回の君は正式な協力者だ。火車かしゃも引き剥がせたことですし、尊重しましょう」

「尊重って、どうする気だ。あの狐を祓わないと、うちのキッチンが灰のままなんだが」

「おや、私は祓う必要があるとは一度も言っていませんよ。懸賞金をもらう条件は、『対象の怪異の無力化』です。そして無力化というのは、必ずしも祓うだけではありません」


 柘榴石ざくろいしのような瞳が、僕のポケットを流し見る。

 そこには僕のスマートフォンがしまわれていた。

 

「どんな者にも得手不得手えてふえてがあります。残念ながら、私では祓うしか——、殺してしまうしか方法がないですが、私以外ならば他の手段も選択できる。……そろそろ来るはずですよ、封印のエキスパートが」


 しとやかな笑顔の背後で、山道を駆け上がる軽快な足音が響く。

 段々と近付いてくる足音と、乱れた呼吸。微かな月明かりに照らされて、僕によく似た髪の色がきらりと光を映した。

 

綾取あやとりさん!」

「若宮です」

 

 姿を現すや否や投げ付けられた怒号に、若宮さんが即座に訂正を入れる。

 夜闇の奥から顔を覗かせた雛遊ひなあそび先生の手の中で、握り込められたスマホにピシリとヒビが入った。

 

「他人を伝達係に使うの、やめてもらえませんかね……! こういうことが続くと、本当に何かあった時に取り返しがつかなくなります」

「ならば毎回こうやってせ参じてあげればいい。何も問題はないでしょう」

 

 自宅からここまで駆け登ってきたのだろうか。

 肩で息をしている雛遊ひなあそび先生は、若宮さんの顔を見て、誰が僕のスマートフォンからあのショートメッセージを送ったのかを悟ったらしい。

 休日だというのに、僕を心配してここまで来てくれたのだろうか。だとするなら、ちょっと申し訳ない。

 

「なにが『助けてください、こわい怪異に襲われています』だ! 位置情報まで付けておいて……。七番籤ななばんくじの件といい、今度という今度は許しませんよ。私とやり取りをしたいなら、いい加減、式神の一つでも用意したらどうですか!」

「どうどう、はじめさん。教え子さんの前ですよ」

 

 額に青筋を立てて詰め寄る雛遊ひなあそび先生に、若宮さんが両手を胸の位置まで上げて、なだめるようなジェスチャーを取る。

 巫山戯ふざけた様子に、雛遊ひなあそび先生のこめかみが更にぴきりと音を立てたが、横目で僕らの姿を確認すると、額を押さえて長い息を吐いた。

 

「それで? 今度は何の用ですか。言っておきますが、もう頼まれても御籤みくじは書きませんよ」

「今回はもっと有意義な頼み事ですよ。九尾の狐を見つけましたから、適当な場所に封印してください」


 軽く投げ掛けられた無茶振りに、「はあ?」と聞いたことのないほど低い声が雛遊ひなあそび先生の喉の奥からこぼれ出る。失礼、聞き間違えたようなのでもう一度言ってもらえますか、と尋ねる雛遊ひなあそび先生に、若宮さんは一言一句違わず同じ言葉を繰り返した。


 九尾の狐と言えば名だたる神獣。

 懸賞首の並べられた怪異目録の中でも、一般人は手出し無用、最上級の一角だ。

 力で押さえつけることは叶わず、新たな棲家すみかを用意しても、ご満足いただけなければたたられる。神の座にまで上り詰めた怪異というのは、おいそれと人間が手を出していい領域ではない。


「何を馬鹿なことを、寝言は寝て言……」と普段の丁寧な口調からは信じられないような暴言が飛び出しかけていたが、僕達がいることを思い出してか、慌てて口元を押さえると「あっはは、まさか、冗談ですよね?」と繕うようにへらりとした笑顔を貼り付け直した。


「九尾の狐本人が協力的なようですから、そちらはうまくいくでしょう。他でもない、そこの彼からのおねだりですよ、精一杯励んでください」


 二人して僕を見やって、雛遊ひなあそび先生が「ああ……」と諦めたような声を出す。僕がまた「祓ってほしくない」と駄々をねていることを察したのだろう。


「ええ、まあ、事情は理解しました。私としても神獣を力技で祓うよりは、せめて仮初かりそめの住まいにご案内する方が精神衛生上マシではあります。しかし、それで? 仕事を放り投げて、あなたは一体何をするつもりです?」

「役割分担ですよ。私はこちらを担当しますので」


 若宮さんが、空に浮いたまま轟々と燃え続けている火車かしゃを矢の先で示す。

 それが何の怪異であるのか気付いた雛遊ひなあそび先生は、貼り付けていた他所よそ行きの笑顔も忘れて、微かに目を細めた。

 

「……交代しましょう。火車かしゃは私が」

「二度も言わせないでください。私では九尾を殺してしまう。わかりますね?」


 雛遊ひなあそび先生は何度か口を開閉していたが、物言いたげな顔をやがて諦念で彩って、「あなたがそう言うのなら」ときびすを返した。


「行きましょう、小手鞠こでまり君、星蓮せいれん君。私たちは九尾の狐を追います」

「おい、神獣ってなんだ。そいつ、九尾の狐のことは『怪異』としか言ってなかったぞ」

「その話はぜひはじめさんから聞いてください。教職の方ですからご説明も上手でしょう」


 それまで僕たちの前ではぎりぎり取り繕っていたのに、「お前、本当にあとで覚えてろよ」と今度こそ汚い言葉を吐き捨てて、雛遊ひなあそび先生が僕たちの手を引く。


 すっかり月が上った夜の空では、どんよりと月明かりを遮っていた厚い雲が過ぎ去って、足元を薄明るく照らし出していった。地面に散らばる濡れた落ち葉からは、腐葉土の匂いが立ち込めている。時折聞こえる夏の虫たちの声が、この険しい下り坂の静寂を破っていた。




 ✤




「……今朝、ちゃんと説明したのですけれどね。『伝承のある怪異というのは、まつられている神格と同じ』だと。私は、あくまでそれらを怪異と呼びますが」


 開けた崖のそばは、それだけ上空からも見えやすい。

 眩いほどの月明かりを受けて、燃え盛る牛車の怪異と目が合った。


 火車かしゃは顔を持たない怪異だが、それが「猫」の怪異であることは、祓い屋なら誰でも知っている。

 交代しましょう。そう提案したはじめさんの言葉を切り捨てたのは、他でもない自分自身だ。


 息を吸って、吐く。

 胸を占めていた黒々とした想いは全て消えて、弓を引く指に迷いはない。




 夜の山の中に、矢が風を切るささやかな音が木霊こだましていった。


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