第六夜┊三「捜索と潜伏」
「概ね、この辺りに潜伏しているはずなのですが」と言って連れて来られたのは、神社の裏手にある小高い山林だった。
自由に伸びた木々が空を覆い、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。足元には朽ちた枯れ葉の絨毯が広がり、歩くたびにカサカサと音を立てた。
こんな山道じゃ、狐を見つけても動物か怪異かわからないよな、と心の奥底で思いながら辺りを見渡す。引き受けたからには狐を見つける努力はしようと、手近な木の
他の野生動物と喧嘩でもしたのだろうか。傷だらけの茶トラは、体を丸めてじっと息を潜めている。
何か塗り薬でも持っていなかったかなとポケットを漁っていると、若宮さんが「ご体調はいかがです?」と僕を振り返った。気遣うようなセリフだが、要はアレルギーに引っかかるものがないかという確認だろう。
「いまのところは、特に」と返すと、「そう簡単にはいきませんね」と地面を調べていた若宮さんが腰を上げた。
「君も《彼女》に似て、妙に怪異を惹き付けるものがあるようですから、過度な期待をしていたのかもしれません」
「おい、俺の風上に立つな」
尖った声に振り返ると、
驚く僕を見つめ返す瞳は、いつもはきらきらと輝く星空のようだったのに、今は曇天のように濁っている。
「その血、本当に厄介だな。思考が鈍る……」
「これでもかなり薄めてあるのですけれどね。君にも効くというのなら期待できそうだ」
軽口で応じながらも、若宮さんは言われた通りに
僕の視線に気付くと、「九尾の狐は飛びますからね」と言い訳するように答えた。
「銃刀法違反だぞ」
「それが一番困るんですよねえ、怪異は法律で裁かれないというのに」
薄く笑いながら、若宮さんが小道の奥へと進んでいく。その肩が風を切るたびにパチパチと光を放つ様子を流し見て、
「飛んで火に入る夏の虫、か……。えげつない趣味だな」
また一匹、蝶のような怪異が血の匂いに誘われて、ふらふらと若宮さんに近寄っていく。線のような足を伸ばしてその肩に触れる直前に、音を立てて燃え上がった。
パチ、と線香花火が地に落ちた時のような輝きと音は、小物たちが煙を上げて命を散らしていく音だった。
以前、階段の怪異に対して「加護があるので小物では触れることもできない」と言っていたが、その意味を視覚的に理解する。
二人の間にいた僕は、「それ以上近寄らないでくださいね」と若宮さんに念を押した。
「心配せずとも、そこの彼は私に触れたくらいで消えたりしませんよ。少しばかり痛いかもしれませんが」
「……あの神社と似た結界の気配がする。同じ術師だな」
「優秀な人でね。私はこういう細工が苦手で、いつも人頼みなんです。ちなみに、この加護がどこに仕込んであるのかも察知できますか?」
「髪を結んでいる
「
首を落とすのが先か、それとも落とされるのが先か。
そう言って自分の首がくっついていることを確かめるように、若宮さんの指が首筋をたどる。そこを目掛けて飛び込んできたコウモリの怪異が、またパチリと鮮やかな火花を残して
そんな二人の会話を尻目に、僕は茶トラの猫に手を伸ばす。
元は飼い猫だったのだろうか、それとも威嚇する元気も無いだけか。猫はおとなしく僕に身を委ねて撫でられていた。
途端、びりっと猫に触れた手に電気が走るような感覚がして、指先から凍えるような寒気が襲う。日が落ちたわけでもないのに、猫を撫でている右手だけが凍りついていくようだ。
「アレルギー……?」
普段なら痒みや、もう少し強い怪異なら熱を持ち、さらに強ければ痛みが走る。こんな風に冷気を感じたのは初めてだった。
動きを止めた僕を訝しそうに猫が見上げる。丸められていた身体から、二本の尻尾がひょこりと覗いた。
「猫又だったのか……、初めて見たよ」
初めて遭遇した怪異だから、アレルギーも新しい反応なのだろうか。深く気にせず僕は手持ちを調べたが、残念ながら健康優良児のルームメイトと暮らす不老不死の僕では、絆創膏の一つすら持ち合わせがなかった。
猫又はぐったりと力無く僕の手に頭を預けている。傷はさほど深くないようだが、何か黒いものがモヤモヤと猫に纏わりついていた。このままでは危ないかもしれないが、猫又を動物病院に連れて行っても診てくれるかは怪しい。そもそも獣医には、この猫又もモヤモヤも
僕は少し悩んで、胸に飾られている藤の花に触れた。
「若宮さんのご友人って、藤の花が好きだったんですよね」
「……ええ、そうです。というより《彼女》の家紋が藤を表していましてね、トレードマークのようなものだったんですよ。それが何か?」
「その人って、どんな人でしたか?」
急な質問だったが、成果の見えないフィールドワークに早々に飽きていたらしい若宮さんは「そうですね」と顎に手を当てて考え込む。
「可愛らしい人でしたよ。外見に似合わず非常に強い力を持っていましたが、君に似て、よくわからないところで怪異に親切心を見せる人でした」
「その人は、弱ってる怪異を見たら助けると思いますか? 例えば、猫又とか」
若宮さんの眉間に微かに皺が刻まれる。だが面倒見の良い
「そこに何かいるのですか?」
「はい、猫の怪異が弱ってて。若宮さんは近寄らないでください」
嫌われたものですねえ、と軽口を残して、若宮さんが数歩遠ざかる。嫌っているわけじゃないが、触れただけでほとんどの怪異を消しとばしてしまうような結界を纏っている人に、こんな怪我だらけの猫又を近付けたくはない。
邪険にされながらも、若宮さんは投げ掛けられた質問の続きに回答してくれた。
「彼女は好き嫌いのはっきりした人でね。興味のないものは素通りしていましたが、弱っている小動物なら、それが怪異であろうとも無視することはなかったでしょう。きっとその腕に抱き上げて、精神誠意、治療してくれたはずですよ」
——その後自分が、どのような
若宮さんの言葉に、風上で瓦礫の山を調べていた
「おまえたちの界隈では、怪異を治すと罰されるのか」
「一概にそういうわけではありませんが、怪異から人々を守るのが我々の役目ですからね。怪異に心を寄せるのは、褒められた行為ではありません」
「おまえがそんな奴と友人でいられたというのも
「確かに私は、怪異と人は交わるべきではないと思っていますが、これでも丸くなった方なのですよ。でなければ、君はとっくにここにはいなかったでしょう」
「お、やるか? クジラの胃の中がどうなってるのか見せてやるよ」
立ち上がる
菱形の瞳孔が、ぐちゃぐちゃな僕の中身を見透かすように、じっとこちらを見上げていた。
✤
『愛情は借り物。いただいたら返されませ』
高らかに響く声。
振るわれる暴力の音。
固い床に倒れ込む彼女。
心配する素振りも見せない周囲。
——黒い
一度たりともこの目で見たことはないけれど、知っている光景。
それでも、《彼女》は弱った者たちに手を差し伸べ続けたのだろう。
きっとこんな風に、弱っている猫又を無視したりはしない。
僕は、胸の折り紙を外した。
丁寧に折られた、大事な大事な僕だけの藤の花。
魔除けの藤と、
少しだけ名残り惜しいけど、彼女なら迷わずこうしただろうから。
僕その折り紙を差し出すと、猫又の背にぺたりと貼った。
カッ! と雷が落ちたような閃光が瞬いて、
それまでおどろおどろしい雰囲気を漂わせていた山林の邪気を晴らしていくように、清浄な空気がその木の
すくりと立ち上がった猫又からは、それまで隠れていた尾が顔を見せる。その数は、全部で九本だった。
ばっとこちらに向けて弓を構える若宮さんから、僕が木を庇うように両手を広げる。猫又が光に溶け込むように姿を隠す寸前、背後で「キュウ」と鳴いた声は、
それらは一瞬の出来事で、すっかり空になっていた木の
「あーあ、お人好し。折角見つけたのに。狐は逃げると厄介だぞ」
「ごめん……。まさかあれが九尾の狐だとは思わなくて。でも弱ってたし、そんな悪いやつじゃなさそうだったよ」
「狐はそう思わせるのが上手なんだよ。女に化けて国のお偉いさんを
僕がまた怪異を庇おうとしているからか、平べったい目を不満げな色に染めている
その手は、まだ弓に掛けられている。
「怒らないんですか?」
「怒らないので、代わりに君のスマートフォンを少しお借りできますか?」
どこかに「狐を見つけた」と連絡でもするのだろうか。僕は言われるがまま、自分のスマホを差し出す。身内も友人もいない僕のスマホは、悲しいくらいに連絡先もすっからかんだ。そんなまっさらなスマホを渡したところで、見られて困るようなものもない。
若宮さんはそれに手早く何かを打ち込むと、用が済んだのか僕にスマホを返却してくれた。
あんまり操作に慣れていない僕には、その前後で何が変わったのかよく判らなかったが、暫くするとスマホが震えて「大丈夫ですか!?」「すぐに行きます」と書かれたショートメッセージの通知が立て続けに届いた。
送信主は知らない番号だ。こういうのは開いちゃいけないと学校で教わっている。
「……何したんだ、おまえ」
「ただの保険ですよ。——さて、地道な探索作業に戻りましょうか。とはいえ何に化けているか
先導して歩き始める若宮さんのあとを、「だから風上に立つなって」と
浄化されたばかりの山は不思議なほど
三人分の影が、獣道に長く伸びていく。
夕闇が迫る中、草葉の絨毯に落ちる僕たちの影だけが、この山の中で確かな存在感を放っていた。
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