第五夜 愛色の狐

 寮室の中には、常軌を逸した光景が広がっていた。


 壁という壁は無数の写真で覆い尽くされ、もはや本来の色すら窺い知れない。一面に貼られた写真には、一様に同じ少女の姿が映り込んでいる。

 特徴的な私立校の制服に身を包んだ少女は、こちらに向かって、恋色に染まった笑顔を向けていた。

 その笑顔の海の中で、背景に映り込んでいる別の生徒の姿がやけに目に付く。写真の中で微かな横顔しか見えない蜂蜜色ハニーブロンドの少年は、こちらに全く気付いていない様子だった。


「ふふ、可愛い」


 少女はうっとりと写真を撫でて、その隣に現像したばかりの新しい写真を丁寧に貼り付けていく。

 少女が指先で撫でている写真には、満面の笑顔の少女のすぐうしろで、友人と語り合う小手鞠こでまりカルタの後ろ姿が写っていた。

 その少年の後頭部付近には、対象を振り向かせようと奮闘する、彼女の小さな手下も映り込んでいる。

 さらにその隣に貼られた写真は、先程の写真の直後だろうか。驚いた顔で振り向いた少年と、笑顔の少女の顔が、丁度ツーショットのように並んでいる。ただ残念なことに、少年の顔には逃げ遅れたらしき彼女の手下——管狐くだぎつねの姿が、ばっちり被ってしまっていた。

 

「申し訳ありません、あるじさま……」

「いいんだよ、とっても素敵な写真」


 少女は朗らかに笑って、管狐の姿で九割は隠れてしまっている少年の顔にキスをする。

 出席番号三番、愛色いとしき恋依こよりは満足そうに微笑むと、次はどんな写真を撮ろうかと想いを馳せながら、羽毛の布団に身を包んだ。






 第五夜 愛色の狐






 やけに目覚めのいい朝だった。

 陽光が優しく差し込む窓からは、新しい一日の始まりを感じる。寮の廊下から聞こえてくる靴音が徐々にその数を増やし、活気を帯びていった。

 机の上では、昨夜書き終えた日記が開いたまま放置されている。ベッドから身を起こして、僕はカーテンを開けた。


「おはよう、星蓮せいれん


 カウンターキッチンの向こうでさばをくわえているルームメイトに声を掛けると、片手を上げて応じてくれる。

 今日の朝食は和食御膳らしい。ところで、クジラもさばを食べるんだろうか。


「口の中に入ってくるものは大体食べる。魚もイカもオキアミも」

「へえ、意外と肉食なんだな」


 ご飯、お味噌汁、焼き魚と大根おろし。付け合わせに胡瓜きゅうりの浅漬け。

 目の前に並べられていく食事は、いつの間にやらすっかり僕の好みに調整されていた。

 胃袋を掴まれるってこういうことなのかな、と思いながらこんがり焼かれたさばの切り身に箸を入れる。箸の先からほっこりと白い湯気が立ち昇った。


「おいしい。いつもありがとう」

「どういたしまして。それにしても、おまえはあんまり肉を食わないんだな」

 

 たくさん食べないと大きくなれないぞ、と二匹目のさばに手を付けながら星蓮せいれんが僕を見る。

 言っていることはもっともなのだが、元の姿では一日に10t以上もの食事量を誇る彼の基準の「たくさん」は、僕にはついていけそうにない。

「善処するよ」と答えて、しじみのお味噌汁に口をつける。出汁だしが効いた優しい味わいだ。

 ダイニングの棚には、付箋だらけの料理本が山積みになっている。星屑を呑み込んで生きてきた彼は、僕の味覚に合わせるために日々勉強してくれているのだろう。


「……明日は僕が作るよ」

「なんだ、鯖は好きじゃなかったか?」

「いや、そういえば君に任せきりだったなって思って。気付くのが遅くなってごめん」

「俺が好きでやってるだけだよ。でもおまえが気にするなら、明日だけおまえに作ってもらおうかな」


 何が出てくるのか楽しみだ、と悪戯っぽく笑う彼に、「あんまりハードルを上げないでくれよ」と念を押す。

 料理の経験はないが、星蓮の本を借りつつ、食材を切って焼いて煮ればなんとかなるだろう。

 僕は楽観的に考えて、食べ終えた食事に手を合わせた。


 翌朝、僕の『目玉焼き』によってキッチンが再起不能なまでに破壊されるなんて、この時の僕らは少しも想像していなかった。



 

 ✤




 学生寮の入り口には、多くのマンションと変わらず郵便受けが付属している。

 部屋番号でラベリングされた集合ポストは、毎朝の習慣で覗くことにしているものの、僕も彼も私的な郵便物が届くような続柄の相手はいないので、そこにあるのは大抵ただのチラシだった。

 

「あれ、開かない……?」

「ん? ああ、詰め込まれ過ぎるとたまに開かなくなるよな」

「おかしいな。昨日の朝は空だったはずだけど……」


 カタカタと安っぽい作りのダイヤルを回す。ややあって、郵便受けが重々しく口を開けた。

 途端、雪崩のように色とりどりの手紙がバサバサと溢れ出してくる。この集合ポストにそんな積載能力があったのかと驚くほどの量だ。

 僕が雪崩に飲み込まれている間に、星蓮せいれんがそのうちの一つを手に取る。「小手鞠こでまりカルタ様」と宛てられた文字に星空を模した瞳を細めると、容赦なく封を切った。


「ラブレターだな」

「えっ……」


 星蓮せいれんは中身をいくつかあらためると、元のように封筒の中へと折りたたんで「ほら」と僕に渡してくる。

 親愛なる小手鞠こでまり様。大好きな小手鞠こでまり様。愛しの小手鞠こでまり様——。

 微妙にニュアンスは異なるものの、開封された全ての手紙は、等しく僕への愛を訴えるものだった。そして結びの文字の後には、同じ名前が記されている。

 ——愛色こより。

 その名前には覚えがあった。

 名簿に羅列されていた文字。出席番号三番、クラスメイトの愛色いとしき恋依こよりだ。


 なんで? という疑問と同時に、これはもしかしてまずいのでは? と慌てて隣の執念深い友人に目を向ける。

 が、星蓮は意外にも「愛色いとしき恋依こより、クラスメイトだな。良かったじゃないか」と残りの手紙を拾い集めながら祝福してくれた。

 

「その、怒らないのか?」

「ん? どうして俺が?」

「いや、いつも怒るじゃないか……。向日葵ひまわりさんとか、藤の木とか……」

「それは相手が怪異だからだろ。俺は、おまえが人間と仲良くするのを邪魔するつもりはない」


 呆れたように嘆息しながら、集めたラブレターの束を僕が抱える手紙の山に乗せていく。前が見えなくなりそうな量だった。


「おまえだって、いつか恋人を作ったり、婚姻を結んだりするだろう。おまえが幸せになれるなら、俺は何も言わないよ」

「何も、言ってくれないのか?」

 

 やけに殊勝なことを言う星蓮に、僕はなんだか不安になって、訳のわからない食い下がり方をする。

 星蓮が手紙の山の向こうで「じゃあ」と苦笑する音がした。


「おめでとうって、祝福するよ」


 まるで、泡になって消えてしまいそうな儚い声で、彼が答える。


 その時の星蓮が、どんな顔をしていたのか。

 目の前の手紙の山が邪魔で、僕には見えなかった。


 

  

 ✤



 

愛色いとしき


 最左列、前から三番目の席に座る女の子は、一見おとなしそうな少女だった。

 もっとも、限界まで脱色を繰り返したシルバーアッシュの髪に、ピンクのメッシュカラーを入れるような女が、本当におとなしければの話だが。

 名前を呼ばれた少女は、同じクラスとはいえ今日まで話すこともなかった面子メンツに、不思議そうに小首を傾げる。

 

「おはよー。星蓮せいれん君と小手鞠こでまり君、だよね」

「おはよう。急にごめんね、あの……」

「悪いけど、こいつは今は誰とも付き合う気がないってさ」


 ポストに詰め込まれていたラブレターの一つを彼女の机の上に出して、星蓮が詰め寄る。その隣で僕は声にならない悲鳴を上げた。

 確かに、返事をどうするのか聞いてきた星蓮に、一言一句違わず僕がそう言ったんだけれども!


 星蓮の言葉に、先程まで賑やかだったはずのクラスが一斉に静まり返って、僕らの動向を注視する。

 一方の愛色いとしきさんは、相変わらず不思議そうにその手紙を手に取って、中身を読み始めた。


「こ、こより、小手鞠こでまり君に告白したの!?」


 後ろの席から身を乗り出して、小声で耳打ちしているのは、出席番号四番、卯ノ花うのはな兎楽々うららだ。

 背が低く、ツインテールに髪を結んだ姿は名前と印象が合致している。

 卯ノ花うのはなさんに肩を叩かれて、愛色さんは「まだ読んでる途中ー」と返していたが、やがて最後まで目を通し終えたらしい。


「覚えがないけど、確かに私の字に似てる……。誰かの悪戯いたずらかなー」


 ごめんねー、と間延びした声音で軽い謝罪を述べると、読み終えた手紙を僕に返してきた。


「おまえじゃないのか?」

「うーん、多分? 夢遊病とかだったりするかもしれないから、その辺りの可能性も含めて、ごめんねーって」


 愛色いとしきさんのゆるいリアクションに、固唾を呑んで見守っていたクラスメイトたちも呼吸を思い出したようで、散り散りにざわめきを取り戻していく。

 起立していた卯ノ花うのはなさんも、「なぁーんだ」とつまらなさそうに着席した。

 残された星蓮は納得行かないといった顔でしばらく愛色いとしきさんを見下ろしていたが、鳴り響いた予鈴に、仕方なく自分の席へと戻っていった。


 

「あいつ、気を付けた方がいい」

「あいつって、愛色いとしきさん?」


 六限の体育に向かうため、更衣室で指定のジャージに着替えている僕に、星蓮が声を潜めて話し掛ける。

 遅めの体力測定が開始され、今日は持久力項目の長距離走だった。心なしか、みんなの口数はいつもより少なく、着替えの手も鈍い。僕らが隅っこで駄弁だべっていても、男子生徒諸君に気にする元気はないようだった。

  

「俺はおまえが人間と仲良くする分には邪魔しないけど、相手が人間じゃなければ話は別だ」

「え、愛色いとしきさんって人間じゃないの?」


 ぎょっとする僕に、「いや」と星蓮が言葉を濁す。

 

「よほど隠れるのが巧いやつでない限り、あいつ自身は人間に見える。ただなんとなく、あいつの周りは妙に騒がしい。……誤解してほしくないから言うけど、俺には怪異と人間の見分けなんて雑感でしか掴めないからな。おまえのアレルギーの方がよほど役に立つ」

「今朝、愛色いとしきさんの席に寄ったときは、なんともなかったけど……」

「なら、野良じゃないのかもしれないな」

「ノラ?」


 外にいる怪異のことだろうか。

 だとしたら、野良じゃない怪異も存在するのか。

 クエスチョンマークを浮かべる僕に、「雛遊ひなあそびの兎を見ただろ。あれは使役された怪異。飼い怪異だよ」と星蓮が補足してくれる。しかし僕は『飼い怪異』の語感の悪さが気になって、それどころじゃなかった。

 

愛色いとしきは怪異を飼っているのかもしれない。封印や使役された怪異には、おまえのアレルギーも反応しなかっただろ」

 

 確かに、絵の中に閉じ込められている向日葵ひまわりさんとは毎晩のように深夜トークをする仲だが、特に問題が起きたことはない。

 何とはなしに答えた僕の言葉を受けて、星蓮の眉間に皺が寄った。


「待て、深夜トークがなんだって?」

「え」


 ラブレターはセーフだったのに、妙なところで地雷を踏んでしまった。

 星蓮は早く寝て早く起きる、規則正しい朝型タイプだったから、同じ寮室内でも夜型の僕が向日葵ひまわりさんと毎晩語り明かしていることなど知る由もない。

 

「なんでおまえは寝てないんだよ……。一体何の話をしてるんだ。あの女じゃなきゃダメな話なのか?」

「星蓮は興味がない話だと思うよ」

「おまえの話ならなんでも興味がある」

「ありがとう。でも、僕の話じゃないから……」


 間髪入れずに詰め寄る星蓮に、両手を挙げて丁寧に固辞する。向日葵さんが語る話題といえば、もっぱら雛遊ひなあそびさんの話だ。

 彼女がどれだけ素晴らしい人だったか、どれだけ努力家でストイックだったか、彼女の描く絵がいかに素晴らしいか、エトセトラ、エトセトラ……。

 僕に詰め寄っていた星蓮の目が段々細められていって、「確かに、興味ないな」と返した。

 

「おまえはそれ、面白いのか?」

「面白いっていうか……」


 ……僕と話す向日葵ひまわりさんは、とても楽しそうで。

 僕が雛遊ひなあそびさんにとても似ているのもあってか、向日葵ひまわりさんは「こうしていると、あの夕日の時間に戻ったようです」と幸せそうに話してくれる。

 ああも喜んでくれると、僕としても悪い気はしない。


「俺だって、おまえと話したら喜ぶぞ!」

「星蓮は寝るのが早いから」

「……だって、たくさん食べてたくさん寝ないと、大きくなれない」


 バツが悪そうに星蓮が口ごもる。

 ……気にしなくていいのに。彼が大きくなろうとするのは僕のためだということを、僕もよく知っている。


『おまえだって、いつか恋人を作ったり、婚姻を結んだりするだろう』と星蓮は言うけれど。


 婚姻なんて、するはずもない。

 ——だって僕は、十八になったら土地神様のものになるのだから。

 星蓮だって知っているはずなのに、彼は当たり前のように僕の未来を口にする。

 本気で、土地神様に抗うつもりでいる。


 たくさん食べてたくさん寝て、とても大きくなったとしても、土地神様には敵わないのに。


 僕の願いは、「大きなさかなと友達になること」だ。

 彼が土地神様に食べられてしまったら、僕の願いは叶わなくなってしまう。


「……星蓮が起きている間は、君と一番話をするよ」


 僕は悩んだ末にそう答えて、星蓮とともにロッカールームを後にした。


 


 ✤

 

 


 快晴、もとい炎天下の長距離走は、なかなか地獄だった。

 みんながどうしてそんなに嫌がるのか、僕はいまいち分かっていなかったけれど、グラウンドに立ってようやく思い知った。熱されたタータントラックの上に立つだけで汗が吹き出る。こんなところで走り回っていたら、授業が終わる頃にはミディアム・レアだ。

 そして、どうやら「僕」は長距離走が苦手らしい、ということを理解したのは、一周四百メートルのトラックの三周目に差し掛かった時だった。

 

「せ、星蓮……、先、行って、いいよ」


 僕に合わせてゆるゆると走りながら「大丈夫か?」と声を掛けてくる彼に、息も絶え絶えそう返す。喋る気力もなかった。

 体力測定は千五百メートルだ。まだ半分近く残っていると思うと気が遠くなる。


「行かないよ。おまえ、目を離したら倒れそうだし」

「気に、しないで……。正しく、測らないと、体力テストの意味、ないし」

「正しく測ったら体重の時点で測定不能だろうな」


 もう折り返したからあともうちょい頑張れ、と励まされ、半ば意地でなんとかゴールを迎える。僕の足はもうガタガタだった。


「おつかれー。タイム記入するからゴールで伝えられた時間を申告してねー」


 早めに終わった女子の一部が記録係を兼ねているらしく、愛色いとしきさんがこっちを向いて手を振っている。急かされはしなかったが、僕らが男子の最後尾であったことは間違いない。彼女たちは僕らの記録待ちなのだろう。

 正直ゴールした瞬間のタイムなんて全く耳に入っていなかったけれど、頼もしいルームメイトがその聡明な頭に刻んでくれているはずだ。

 星蓮に丸投げするつもりで、僕は子鹿のような両足を叱咤すると、記録係の愛色いとしきさんに歩み寄った。


「え」

「わっ……、小手鞠こでまり君!?」


 途中、足が何かに引っかかって、僕はバランスを崩す。つんのめった先には、愛色いとしきさんのピンク色の髪が見えた。

 全てがスローモーションのように見え始めたが、もつれた足と疲弊しきった体では、踏ん張ることも避けることもできない。


「……大丈夫か?」


 あわや愛色いとしきさんを巻き込む形で転倒しかけた僕の襟首を、星蓮が片手で掴んでうしろに引き戻す。かろうじて愛色いとしきさんには接触することなく踏みとどまった。


「あ、ありがとう。助かった。愛色いとしきさんもごめんね」

「いいよー、なんともなかったし。男子は千五百だもんね、疲れるよねー」


 愛色いとしきさんは間延びした声で緩やかに頷いて同情すると、「はい、頑張ったで賞のタオルー」と僕らにタオルを渡してくれた。


「星蓮君って、意外と力強いんだねー」

「こいつよりはな」

「そうなんだー、じゃあ、握力測定が楽しみだねー」


 二人は歓談しつつ、僕の分のタイムも記録してくれている。

 ところでさっき、僕は何につまずいたんだろうか。

 二人の後ろで振り返ってみたが、地面には何も落ちていなかった。


 


 ✤




「疲れた……。もう一歩も動けない」

「お疲れ、ほら」


 その後の僕は自販機にすら辿り着けず、情けなくも星蓮に頼んで買ってきてもらったスポーツドリンクをありがたく受け取る。

 体育が六限で本当に良かった。今日は七限がないので、あとは帰って休むだけだ。


「でも俺ら、今週は掃除当番なんだよな」

「うわあぁぁ……」


 地獄の宣告に頭を抱える。すっかり忘れていた。僕らの通う高校は、高めの授業費を徴収することで金銭的にも潤っており、教室以外の箇所は基本的に清掃会社を入れていた。だが、教室の清掃だけは教育の一環ということで、未だに当番制になっている。

 今週は出席番号十三、十四。僕らが掃除の担当だった。


「休んでていいぞ、俺がやっておく」

「そういうわけには……」

「いや、歩くのもままならないやつに机なんて運ばせられないだろ」


 ごもっとも過ぎて、ぐうの音も出ない。

 粗方教室から人がはけ、机を運ぼうと星蓮が椅子を机に乗せ始めたあたりで、扉を開く音と同時に「あれー?」と本日何度目かの声が響いた。


愛色いとしきか。今からここ掃除するから、長居は禁止な」

「星蓮君。小手鞠こでまり君の代理?」

「代理っていうか、俺も掃除当番だし」


 星蓮の言葉に、愛色いとしきさんはもう一度「あれー」と呟きながら、黒板を指差す。


「掃除当番、私と小手鞠こでまり君のはずだけど」


 愛色いとしきさんに促されて、黒板に視線をやる。桃色のネイルに指差された先には、確かに「掃除当番:愛色・小手鞠」の文字があった。


「出席番号順だろ? おまえとこいつがペアになることはないはずだ」

「うーん、でも書いてあったし」

「誰かが書き換えたんじゃないのか。俺が直しとくから帰っていいぞ」


 愛色いとしきさんは、「えー」と少し悩む素振りを見せたが、「うん、じゃあそうする。ありがとー」と頷くと、自分のスクールバッグを背負い直した。


「……悪戯いたずらかなあ」


 愛色いとしきさんが出て行ったのを確認して、僕は星蓮に向き直る。「確信犯だろうな」と黒板の名前を直しながら星蓮が返した。

 

「ラブレターと掃除当番は許すけど、トラックでおまえの足を引っ掛けたのは許せない」

「えっ、あれもそうだったのか」


 どうりで、地面には何も落ちてなかったわけだ。

 星蓮は「確証はないが十中八九そうだろうな」と肩をすくめた。


「ただ、愛色いとしきも巻き込まれてる側なのか、あいつが主犯なのかわからないんだよな。問い詰めるには決め手に欠ける。……追ってみるか」

「ええ、今から?」

愛色いとしきは少なくとも俺らが掃除を終えるまで外に出ないと思ってる。万に一つでもあいつが主犯だったら、次の手を打つ絶好の機会だろう」


 掃除はまた明日な、と星蓮が自分の鞄を引っ掴んで、俊敏に教室から駆け出していく。

 さっきあんなに走ったあとなのにすごいな、と感心しながら、僕もよたよたと力無くその後を追った。 




 ✤

  


 

「もう。何やってるの?」

「うう、すみません、あるじさま……」

 

 新校舎の校庭は、旧校舎の日本庭園とは打って変わって洋風な作りだ。

 春と秋には数々のバラが咲き誇る薔薇園でもあるが、夏が近付いてきたせいで、ほとんどの株は花を切り落とされてしまっている。

 中央に大きな噴水広場が設置された庭園は、もう少し過ごしやすい季節であれば昼休みも放課後も人の絶えない人気のスポットだが、今は暑さのせいで人影もまばらだった。

 愛色いとしき恋依こよりは木陰に辿り着くと、日傘を畳みながら傍らの黄金色をたしなめる。

 叱られた管狐くだぎつねはしゅんと項垂うなだれて、いつもよりさらに小さく見えた。

 

「ラブレターってなに? あなたが書いたの?」

「はい。三百通ほどしたためました」

「三百!? す、すごいねー……、まさか全部手書きで?」

「ここ数日、あるじさまがお休みになられておられる間に、わたくしめが夜鍋を……」


 三百通の手書きと聞いて、愛色いとしき恋依こよりは額に手をやる。想像するだけで目眩めまいがしそうだ。そんなところに労力を割かないで、夜は一緒に寝て欲しかった。


「申し訳ありません。喜んでいただけるかと思ったのですが」

「はあ……。事情はわかったけど、今朝の話を聞いたでしょ? 小手鞠こでまり君、特に恋人とか求めてないって言ってたし。私はもうフラれちゃったんだから、これ以上、小手鞠こでまり君に迷惑をかけるのはダメだよ」


 それまでしおれていた管狐が、「なんという不遜! こんなにお優しく美しいあるじさまを振るだなんて! 節穴にもほどがある!」と怒りでみるみる真っ赤になっていく。

 対する愛色いとしき恋依こよりは、「はいはい、そうだね。コンちゃんがそう思ってくれるならそれで十分だよー」と慰めとも同情ともつかない言葉で雑になだめていた。

 

「はあ、やっぱりか」


 これ以上の盗み聞きは不要と判断したのだろう。

 星蓮が薔薇の生け垣から姿を見せると、黄金色のモフモフが飛び上がって逃げようとする。

 その首を容赦なく引っ掴むと、星蓮の手に吊し上げられたモフモフが「キュウ……」と哀れな鳴き声を上げた。


「その子は……、狐?」

 

 星蓮が掴んでいるモフモフを指して尋ねる。見た目は狐っぽいが、それにしてはやや小さく細長い。胴体の長いチワワのようだ。 

 

管狐くだぎつね。昔から人間に使役されている怪異だ。式神に近い。主人の願いを叶えたら隷属から解放されると言われている」

「じゃあ、愛色いとしきさんから離れたくて、願いを叶えようとしてたの?」

「たわけ! なんてことを言うんだ! 私はあるじさまに喜んで欲しいだけだ!」


 それまで呆然と僕らを見守っていた愛色いとしきさんが、驚いたように「ふたりとも、コンちゃんが見えるの……?」と声を上げた。

 これまで何を問われてものらりくらりだった愛色いとしきさんが、口元を両手で覆って、殺人現場でも見たような表情でこちらを見ている。

 最近は星蓮や雛遊ひなあそび先生、若宮さんと、える人たちにばかり囲まれて生活していたせいで、そういえばそもそも怪異は普通の人にはえないものだということを失念していた。

 

「まあ諸事情で。秘密にしてくれると助かる」

「そう、なんだ……。コンちゃんと会話まで出来るなんて、驚いちゃった」


 愛色いとしきさんはよろめきながらも、「うん、わかった、秘密にするね」と殊勝に頷く。さすがにその姿を見かねたのか、星蓮が管狐を離してやると、コンちゃんと呼ばれた怪異はすぐさま主に向かって飛んでいって、その腕にしがみつくように巻きついた。


「あるじさま、こいつらは野蛮でいけません」

「コンちゃんが迷惑をかけたから怒られてるんだよー、ちゃんとごめんなさいしないと。……ところで、どうしてコンちゃんのことがわかったの? 私の単独犯だとは思わなかった?」


 そういえば星蓮は「愛色いとしきが巻き込まれているだけなのか、主犯なのかが判らない」とは言っていたが、最初から単独犯であることは疑っていないようだった。

 

「寮生とはいえ、異性の寮の部屋番号なんて知ってるはずがないんだよな。ましてやあの量の手紙を抱えて人間がポストに押し込んでたら、警備員がすっ飛んでくるだろ」


 星蓮に解説されて、「確かに」と頷く。

 ラブレターは集合ポストに入れられていたが、集合ポストには部屋番号しか掲載されていない。

 どれが誰のポストかなんて、男子寮の部外者には判るはずがないのだ。


「ってことは、朝にポスト開けた時点で愛色いとしきさんじゃないって判ってたのか、すごいな」

ってことはな。仲の良い男子生徒がいたなら預けた可能性もあるだろうと思って今日一日見ていたけど、親しい交友関係は卯ノ花くらいだろ」

「よく見てるね。私、結構いろんな人とお話してるはずなんだけどなー」

「交流があるのと親しいのはまた別だろ。それにおまえ、どちらかと言うと人間が嫌い……」


 紡ぎかけていた星蓮の言葉は、愛色いとしきさんが立てた人差し指によって阻まれた。

 いつもの緩さからは想像できないほど圧のある微笑みに、星蓮は「……わかった」と一言返して、口をつぐむ。


「なんてことを言う! あるじさまはお前たちと違ってフトコロが深く、愛情深いお方なのだぞ!」

「俺達のことはさておいて、おまえはなんでこいつが見えるんだ? 他の怪異は見えてないだろ」

「無視するな! そしてあるじさまに向かって『おまえ』とは何事だ!」


 視界の端で駆けて行った三尾のネズミを無意識に目で追う僕に対して、微動だにしない愛色いとしきさんに星蓮が尋ねる。

 愛色いとしきさんは「うん、私はコンちゃんしか見えないよ」と答えて、腕に巻き付いている管狐を抱き上げた。


「こいつに迷惑を掛けられるのは、今日が初めてでもないだろう。困ってるなら、おまえからそいつを引き剥がしてやるけど」

「あはは、ありがとう。優しいんだねー星蓮君。でもコンちゃんとは仲良しだから大丈夫だよ」


 腕の中の管狐くだぎつねに頬擦りしながら愛色いとしきさんが答えて、管狐が感激したように「あるじさまー!」としがみつく。

 そんな二人の様子を、星蓮は冷めた瞳で見つめていた。

 

「怪異は、おまえが思っているほどいいものじゃない。管狐くだぎつねは狡猾で陰湿だ。自分の望みを叶えるためなら手段を選ばない傾向もある。おまえがを可愛いと思っていたとしても、ぬいぐるみやペットとは本質的に異なる存在だ」


 冷え切った言葉は、彼の厚意の裏返しであることを知っているだけに、胃がキリキリと痛んだ。

 星蓮はただ愛色いとしきさんを心配しているだけだろう。けれど、怪異にたぶらかされている人間に、生易しい説得は通じない。

 ましてや、「コンちゃん」以外の怪異を知らない彼女では、その恐ろしさを体感する機会もなかっただろう。

 いきなり現れた僕らが「その怪異は危ないかも」と伝えても、きっと理解は示されない。

 ……そう思っていたのだが、愛色いとしきさんの表情は驚くほどいでいた。

 

「ちょっとびっくり。星蓮君って本当に優しいんだね。ちゃんと会話したの、今日が初めてなのに。そんなに真剣に私の心配してくれるんだ」

「……おまえが俺の言葉を正しく受け取ってくれて、俺も驚いてるよ」


 困ったように星蓮が笑う。

 嫌われ役を買ってでたつもりが、その真意をあっさり汲み取られてしまって、照れくさいようだった。

 

「校内でもたくさんの人とお話するけど、こんな風に真剣に私の身を案じて叱ってくれるのは、兎楽々うららちゃんと星蓮君くらいかも。……うん、嬉しい」


 愛色いとしきさんは胸に手を当てる。そこに染み込む言葉を触って確かめるように。

 彼女はもしかしたら、人の言葉が本心から来るものなのかどうかが判る人なのかも知れない。

 日々、数多くの人間と接し、にこやかに応対しておきながら、人間が嫌いだと称された彼女は、嘘や建前で粉飾された言葉に飽き飽きしているのではないだろうか。

 僕も、星蓮の真っ直ぐな言葉に何度も救われてきたから、判る。彼の言葉はいつも疑いようのない真っ直ぐさで、だから信じるのも怖くない。

 

「コンちゃんの他にも怪異が見える二人なら、きっと私の知らない色んな危険を知ってるんだろうね。忠告はありがたく受け取っておくよ。……でもごめんね、コンちゃんは大切なお友達なの。誰に何を言われても、絶対に離れる気はないよ」


 毅然とした口調に、いつもの間延びした気配は微塵も感じられない。普段の姿が、人間嫌いな愛色さんの処世術だとするならば、これが彼女の本来の姿なのだろう。

 星蓮は「そうか」と頷いて、下ろしていた鞄を再び背負い直した。


「けど、それなら気を付けた方が良いぞ。人間と怪異の交流なんて、一ミリも認めないっていう怖い大人たちが其処彼処そこかしこにいる。その管狐くだぎつねを取り上げられたくないのなら、今日みたいに迂闊に外で話し掛けたりするのは控えた方が良い」

「わかった。気を付けるね」


 愛色いとしきさんは素直に頷いて、僕らに手を振った。




 ✤



 

「今日はびっくりすることが沢山あったねー」


 寮に帰り着いてから、頭上にくっついているコンちゃんに語り掛ける。

 コンちゃんはちょっとうっかりさんだけれど、長く一緒にいる私の機微にはよく気付いてくれるから、家についても私にくっついたままだった。

 そんなに心配しなくても、私はもうどこかに行ったりしないのに。


 星蓮君に掛けられた言葉の味が、まだ舌に残っている。

 甘い甘い、金平糖のような言葉だった。


「あんな人がクラスにいるのなら、高等部も楽しくなるかもね」


 舌先を撫でる私に、コンちゃんは力なく「キュウ」と鳴いた。





 ——私がその感覚に目覚めたのは、五つの時だった。


 きっかけがなんだったのかなんて、私は知らない。離婚を決めた両親が、ある日突然そう打ち明けて、どちらに付いていきたいのかをわるわる私に尋ねた。

 私はどちらも大好きだったから、離婚もして欲しくなかったし、どちらとも決めきれずにいた。

 二人はそれぞれ、根気強く私と話した。


恋依こよりはとってもしっかりしているから、お父さんと一緒にいても大丈夫よね。これからもあの人を支えてあげてね』

『お母さんは寂しがり屋だから、恋依こよりがいなくなったらきっと寂しくて毎日泣いてしまうぞ。お母さんのそばにいてあげてくれるな』


 彼らの言葉が鼓膜を揺さぶるたびに、苦い、苦い味がした。

 私は、それが彼らの嘘であることを、その強烈な苦味で思い知った。


 彼らは、私を愛してなどいなかった。


 引き取るのが面倒で、相手に押し付けたい一心を、甘い言葉にくるんでは私に投げ付ける。

 彼らが大事なのは自分たちだけで、私のことなど少しも見ていなかった。


 私は結局、どちらも選ばなかった。

 二ヶ月もすれば、私は小学生になる。エスカレーター式のこの学校では高等部から全寮制になるが、一部希望者ややむを得ない事情がある者は、小学部からでも寮に入ることができる。

 私は両親の前で、「一人暮らしに憧れるワガママな子供」を演じた。

 二人は安心しきった様子で、喜んで寮費を払ってくれた。


 だが、苦味は彼らから離れても、尽きることはなかった。

 どちらにも引き取られなかった私を「可哀想に」と憐れむ親戚たち。

 身寄りのない女児を獲物と見て、「困ったらいつでも相談してね」と擦り寄ってくる男たち。

 優しげな言葉とは裏腹に、彼らの目は冷たく光り、その瞳に映る私は、ただの利用価値のある道具でしかなかった。

 偽りの温もりに包まれた言葉の数々が、鋭い刃となって私の心を深く抉っていく。口から発せられる慈愛の言葉と、心の奥底から漏れ出る醜い本音との落差に、私は激しい吐き気を覚えた。



 十になる頃には、私の心はすっかり擦り切れてしまっていた。

 信じられる人間などいない。頼る相手のいない女児の、なんと立場の弱いことか。

 どれだけ強がったところで、社会は子供一人で生きていけるようには出来ていない。

 学費の振り込みが滞り始める頃には、もう両親のどちらとも連絡がつかなくなっていた。

 小学生ではまだバイトもできない。ここを追い出されたら行く当てもない。

 私は必死に謝り、学校の手伝いをなんでも引き受け、かろうじて寮にしがみついていた。

 一日一食。支払いは滞っているものの、昼に与えられる給食だけが私の命綱だった。

 給食費を支払っていない私が啜るスープは、ひどい罪悪感の味がした。


 まともな手段でお金を稼ぐことができない私にとって、金に換えられる自分の価値など、その身一つしかなかった。

 初めて自分の性を売ったのは、小学五年生になった秋だった。

 二次性徴期にさしかかり、ほんの少しだけ女性らしい特徴の見え始めた私を買いたがる人間は、掃いて捨てるほどいた。

 最初に私に手を付けたのは、昔近所に住んでいたおじさんだった。

 彼が私に大人ぶった口ぶりで「いつでも頼って」だの「心配している」だのと説きながら、彼の視線が私を値踏みしていたことに気付いていて、私から声をかけた。


 私の処女は、しわくちゃの五千円札一枚に換えられた。

 給食費用にして一ヶ月分。それを安いと取るか高いと取るかは、環境によって変わるだろう。

 私にとっては、屈辱の沼に身を投じてても、喉から手が出るほど欲しかった五千円だった。



 一年が経ち、私は小学六年生になった。

 積み立てに参加できず、一度も行ったことがない修学旅行に、「最後の思い出だから」と担任が誘ってくれた。

 行き先は山梨県だった。紅葉の綺麗な時期に、富士のふもとに宿泊した。


 その頃には身売りにも慣れ、寮費とまではいかなくとも、給食費用をはじめとする雑多な請求には応じられるようになっていた。

 以前よりもずっと暮らしやすくなって、給食も罪悪感の味はしなくなったはずなのに、私の心は相変わらず壊れたままだった。

 日中は笑顔でみんなとはしゃぎまわり、連れ出してくれた先生を心底安心させるように大喜びで何度もお礼を言って、夜みんなが寝静まった頃に一人で外に出た。


 富士山麓の青木ケ原樹海は、「一度入ったら出られない」と宿泊先でも評判だった。皆が恐れるその口上が、私にはこの上なく魅力的な誘い文句に聞こえた時点で、きっととっくにおかしくなっていたのだろう。


 私は、調べるという行為が得意だった。入念な準備と事前知識がなくては、交渉のテーブルにもつけない。

 図書館では無料でインターネットが使える。私が小学生の時分には、今ほど規制も厳しくなかったから、首を括って死ぬための準備というものも、簡単に調べることができた。

 縄は細過ぎれば気道に食い込んで苦しく、太過ぎれば上手く動脈を圧迫できない。

 けれど首に合ったほどよい太さの縄であれば、苦しさで窒息する前に血流阻害で意識を失えるらしい。

 適切な長さと縄の径をメモし、その通りのものを購入した私は、修学旅行の鞄にそれを入れていた。


 ——そう、あの時の私は、死ぬために樹海に入ったのだ。

 けれど、どうしてこんなことになったのか。

 気付けば私は、大きなトラバサミに掛かった狐を助けていた。


 青白い狐火を灯して私を呼び込もうとするその狐が、この世のものでないことはわかっていた。

 今から死のうというのに、樹海の狐が一匹罠に掛かったことなんて、取るに足らない些事のはずだった。

 けれど、その子を見た瞬間に、私はどうしてもその子に近寄り、触れたくなったのだ。

 

 トラバサミの仕組みと開閉について、幸いにして私は過去に調べて知っていた。

「苦しくない死に方」を選ぶためには、「苦しい死に方」も知る必要がある。

 過去の判例や世界史にまで遡り、あらゆる拷問器具などまで調査していた中に、トラバサミの派生もあった。

 そもそも現代日本では禁止されているはずだが、樹海は治外法権ということだろうか。


「あなたも、どうしてこんなところで、こんなものに掛かってしまうかな……」


 トラバサミはサイドにつけられている棒状のペダルを踏めば開口するが、ペダルは硬く、標準体重をはるかに下回る私では相当に苦戦した。狐を助け出す頃にはすっかり空も白み始めていて、「今日の自殺は無理だな」と頭の片隅で思う。

 助け出された狐は、私を見て「本当にありがとう、あなたは命の恩人だ!」と喋った。


 狐が、喋っていた。


 そのうっかりさんな狐は、元はとある神社の神使しんしだったそうで、「縁結びで有名なのだ!」と胸を張った。助けたお礼に好きな人との縁を結んでくれると豪語されたが、結んで欲しい縁などない。

 そもそも現世そのものから縁を断ち切ろうとしていたのだから、願うべくもなかった。

 けれど狐は、「あるじさまの願いを叶えるまで、おそばでお仕えします!」と私に取り憑いてしまった。

「ほどよい径と長さの縄」は狐の止血と包帯がわりに使ってしまったし、一泊二日の修学旅行では次の夜はない。樹海での自殺は諦めるしかなくて、私はあっさりと自殺の予定を頭から捨てた。


 朝帰りした私を、先生はひどく心配していたけれど、「朝焼けがきれいだったのでー」と子供っぽく誤魔化すとようやく安堵してくれた。私はこういう時に、上手に嘘をつくことに慣れた人間だった。

 人間はみんな嘘つきだ。管狐よりもよほど醜悪で、陰湿で、狡猾な生き物。

 苦い言葉を吐き散らしながら生きている彼らと、結びたい縁なんてない。

 けれど狐は私に願い事をせがむので、仕方なくクラスで一番人気のある男子の名前を挙げた。

 狐はとっても喜んで、全身全霊でくっつけて見せると息巻いた。


 狐は、本当に鈍臭かった。

 他人には見えないらしいその狐が、何か私の知らない特別な能力を使って、例の男子を心変わりさせてしまったらどうしようと不安に思っていたが、そんなことは起きなかった。

 最終日、周囲から浮かない程度に風景にカメラを向けていた私に、狐が「あるじさま、あるじさま!」と切羽詰まった呼び声を出す。振り返ると、狐が例の男子にまとわりついていた。


「今です! シャッターチャンスです!」


 狐がやたら迫真めいてそんなことを言うものだから、私は思わず彼に向けてシャッターを切った。

 驚いた男子たちに、私は慌てて「ごめんね、格好良かったから、つい」と誤魔化すはめになったけれど。

 そうして修学旅行を終えて現像した写真には、ドアップの管狐が写っていた。


「……」

「……」

「あなたって、写真には映るんだ……」


 他人には見えない彼だから、写真にも映らないかと思っていたのに。

 これからは、うっかり他人に写真を撮られないようにしないとな、と思う横で「申し訳ありません、あるじさま……」とバツが悪そうに管狐が謝る。


 何を言っているのだろう。

 こんなにも、素敵な写真が撮れたのに。




 ✤ 



 

「あるじさまは、あの男のどこが好きなのです?」

小手鞠こでまり君? んー……、髪が金色なところかな」


 適当なことを答えると、「あるじさまは金色が好きなのですか?」と尋ねてくる。


「そうだよー、コンちゃん。私は金色が大好き」


 黄金色の管狐くだぎつねを自分の腕に招き入れると、みんなが好いてくれる顔でゆったりと微笑んだ。

 部屋中に貼られた写真には、いずれも自分と——、愛する管狐が写っている。背景の有象無象など知る由もない。

 学校の至る所で撮られたツーショットは、どれも大切な思い出だ。

 

「あるじさま。今度こそあるじさまの願いが叶うように頑張ります!」

「そうだねー、頑張ろうね」


 大好きな管狐は、私の愛が自分自身に向けられていることなど露知らず、見当違いな私の想い人を探し出しては、縁を結ぼうと努力してくれる。

 それでいい。管狐は願いを叶えたら、いなくなってしまうから。


「ずっと一緒にいようね、コンちゃん」


 夜鍋に疲れ、隣で眠りに就くコンちゃんを慈しむように撫でて、明かりを消す。

 闇の中で、寝ぼけた管狐の尻尾がくすぐるように私の手に触れた。私に寄り添って眠るその温もりが、私に這い寄る不安も、気色の悪い過去も、苦い言葉の味も、全てを優しく溶かしていく。

 明日も、明後日も、きっと素敵な日々が私たちを待っているはずだ。


 この幸せな時間が永遠に続くことを願いながら、私は静かに目を閉じた。

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