第四夜 花房の揺り籠

 遠くの騒音が、風に乗せられて耳に届く。

 コンクリートを削るドリルの音、何かを打ち付ける金属質な音。

 そこに芽吹いたものたちが、そこに根付いていた思い出が、音を立てて壊されていく。

 

「……旧校舎の改修工事ですね。少しの間騒がしくなりますが、ご容赦いただけますか」


 雛遊ひなあそび先生は旧校舎を一瞥すると、それだけを告げて授業を再開した。






 第四夜 花房の揺り籠






「ねえねえ聞いた? 《七段目の北階段》」

「どんなに急いでいたとしても」

「北階段は使っちゃだめよ」

「七段目を踏んでしまったら」

「長い髪の幽霊が」

「あなたの足首を掴んでしまう」

「もし掴まれてしまったら」

「ひどい不幸が訪れるかも」


「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」


 

 聞こえてくる新たな噂話に、「いつにもましてライトな怪異だな。足くらい掴ませてやればいいのに」と星蓮せいれんが肩をすくめる。

 むしろ、こっちから探し回る手間が省けて丁度いい。

 そう言って自分の口元を撫でる彼は、怪異におびやかされる側ではなく、完全に捕食者の目線だった。

 

 一日の授業を終え、放課後というフィーバータイムに突入した僕らは、これからどこで何をしようかと心躍らせながら帰り支度を進める。

 無事に補習から解放された星蓮せいれんは、そんな僕のうしろの席で「あいつ、何度同じことを書かせるつもりだ。一度書いたら覚えるだろう」と数多の生徒から顰蹙ひんしゅくを買いそうな恨み言を吐いていた。

 

「憂さ晴らしに階段の怪異でも食いに行くか」

「そんな『クレープでも食べようか』みたいなテンションで怪異の見学に誘わないでくれ……」


 げんなりする僕に、「おまえ、割と好き嫌いがはっきりしてるよな」と星蓮が苦笑する。


「階段の幽霊には興味ナシか。折角危険のなさそうな噂話なのに」

「うーん。足首を掴まれるだけならまだしも、ひどい不幸が訪れるのは嫌だな」

「ひどい不幸って、例えばどんな?」

「さあ……。苦労して終わらせた課題を寮に置いてきちゃったとか、アラームをかけ忘れて一限に間に合わなかったとか……?」


 僕の想像する「ひどい不幸」は大した威力がなかったようで、星蓮せいれんは孫を見るような生暖かい視線を向けてくる。

 十分に落ち込む出来事だと思うのだが、これ以上のひどい不幸ってどんなものがあるだろうか。

 幸いにして、僕はこれまでさほど大変な不幸に見舞われたことはない。強いて挙げるならば……。


「住んでいるところに、火をつけられるとか……」


 今度は星蓮は笑わなかった。

「火事は怖いな」と答えて、重たい鞄を背負い直す。


「今回の噂話はスキップだな。代わりに何か買って帰ろうぜ」

「だから、噂話の代わりが買い食いはおかしいだろう……」


 言いながら、僕の気分はすっかりこのあと食べるものに移ろってしまっていたが、「えー! もったいなーい!」と背後で声を上げるクラスメイトに、僕らはつられて振り返った。


「旧校舎のその階段の近く、藤の花が満開ですごく綺麗なんだって!」

「見に行ってみたかったけど、お化けがいるなら仕方ないねー」

「その幽霊、お花見の特等席を独り占めしたかったのかもね」


 きゃらきゃらと笑って、女学生たちは微笑ましい推測を立てながら連れ立って行く。

 あとに残された星蓮は、満面の笑顔を浮かべる僕とは対照的に、渋い顔をしていた。


「……おまえ、幽霊は興味なさそうだけど、藤の花は」

「見たい!」

「だよな……」

 

 僕が胸に飾っている藤の花に視線をやって、星蓮が嘆息する。

 食い気味な僕の返答によって、放課後の買い食いはまた今度に持ち越されることとなった。




 ✤




「へえ、想像以上に圧巻だな」


 噂の階段は、旧校舎の北側に設けられていた。

 旧校舎へ向かう途中、遠目からでも既に壁面の一部が紫に染まっているのが見えて、星蓮が声を上げる。

 写真などでよく見るような藤棚は無く、自由に伸びたつるが校舎の一面を覆いつくさんばかりに這い回り、鮮やかな花を咲かせていた。

 紫の花々が夕暮れの陽光を受けて輝き、校舎全体が紫の霞に包まれているようにも見える。風が吹くたびに、辺りに甘い香りが漂った。その光景は、現実離れした幻想的な世界のようで、僕たちは思わず足を止めて見入ってしまった。


「なんかもう、階段とかどうでもよくないか? ここで花見して帰ろうぜ」

「君はクレープの代わりに階段の幽霊も味見してきていいよ。僕はここで花を眺めて待ってるから」

「本当に、興味のない怪異には容赦ないなおまえ!」


 やいのやいのと言い合いしながらも、僕らは結局なんとなく北階段を目指して、旧校舎の中に入ることにした。何度か見た廊下を進んでいると、階段の前に先客の姿が見えて僕らは足を止める。


「若宮さん?」

「おや、奇遇ですね。ここは立ち入り禁止のはずですが」


 挨拶がてら、流れるように問い詰められて返事に窮する。

 噂話に踊らされて、とは言いたくなかった。

 前に見た時と同じく、若宮さんは白練しろねりの着物に濡羽ぬればの羽織り姿だ。重ね襟や飾り紐などには、所々に瞳と同じ柘榴色ざくろいろがあしらわれている。

 ただ今日は、その腰に仰々しい二本の刀を帯刀していた。


「おまえこそ、なんでここにいる。不審者が侵入してるって通報するぞ」

「残念ながら私はきちんと許可証をいただいていますので、通報した場合に不利なのは君たちの方ですよ。見たところ、君たちは立ち入りの許可を得ていないようですから」


 笑みを深める若宮さんに、星蓮がたじろく。

 元大怪異も、規則やルールの前では形無かたなしだった。


「若宮さんはお仕事ですか?」

「ええ、まあそんなところです。経営陣は以前からこの校舎を改築しようと試みていたようなのですが、何度か不幸な事故が重なったようで。ごく最近工事を再開することにしたものの、作業員が怯えるので、一度見て回って欲しいと……」


 そういえば、日中にここを取り壊すような騒音が聞こえていたことを思い出す。

 工事が入るなら、来年にはもうあの藤は見られないのかもしれない。やはり今日来ておいて正解だった。

 納得もできたことだし、そそくさとその場から逃げ出そうとする僕らの背に、「それで、君たちの目当ては階段の怪異ですか?」と若宮さんが声で追い掛ける。


「知りません、わかりません、なんのことですか」

「はは、面白いとぼけ方をするんですね。はじめさんとは夜の餓者髑髏がしゃどくろツアーをされたのでしょう? 私とは遊んでいただけないのですか?」


 はじめさんというのは、雛遊ひなあそび先生のことだろうか。

「なんで知っているんですか」と固い声音で返すと、「はじめさんとは古くからお付き合いがあるんです」と返される。

 ……僕はこういう、「付き合いがあるとは言ったが、友人とも知人とも言ってない」みたいな回りくどい予防線を張る人間を、あんまり信用していない。


「おまえとは嫌だってさ。大人しく一人で見回りしてろよ」

「初対面だというのに、なかなか酷いことを言いますね」


 若宮さんの言葉に、そういえば彼らは初対面だったのかと思い出す。

 星蓮は若宮神社に足を踏み入れなかったから、面識がないのだ。


「おまえのことくらい、俺だって知っている。『若宮サン』については知らないが」

「困りましたね、その話は少々都合が悪そうだ。……そう邪険にしないでください。噂話を確かめにきたのでしょう? 今なら私が絶対安全を保証しますから、存分に鑑賞していただいて結構ですよ」

 

 にこやかに指し示しながら、「さあ、お目当ての階段です。どうぞ登ってみてください」と告げられて僕は動揺する。

 この人、ナチュラルに僕を囮にしようとしてないか。

 ちら、と横目で確認した星蓮せいれんは、怒りを通り越してうっすら笑っている。

 一触即発の空気に、僕は「まずい」と直感で理解した。


「ええっと、専門家がいるならお任せしたいんですが……」

「大丈夫ですよ。怪我一つ負わせることはありませんから」


 暗に「なんで僕が」と伝えたつもりだったのだが、軽やかにスルーされて「さあどうぞ」と階段に案内される。


「おまえが登れよ。こいつに何かあったらどうしてくれる」

「どうもしませんよ。君と私がついていて、彼に何か起こることはありません。……そんなに睨まないでください。私には加護がありまして、小物では触れることもできないのですよ」

 

 なるほど。それでは若宮さんが階段を登っても、例の怪異は現れないだろう。

 星蓮せいれんも人間ではないので、その違いを見分けられる怪異だったら難しいかもしれない。

 僕は仕方なく覚悟を決めて階段に足を踏み出した。背後で「何かあったら只じゃおかないからな」「何もさせやしませんよ」「俺はおまえみたいな奴が慢心で身を滅ぼす姿をごまんとみてきたぞ」「おや、自己紹介ですか?」と刺々とげとげしい言葉の応酬が繰り広げられていた。

 一段目、二段目、三段目……と登りながら数えていく。星蓮せいれんではないけれど、正直足首を掴まれるくらいは良いかなと思う気持ちもあったし、僕はあんまりこの噂を信じていなかった。だから七段目を踏んだ瞬間、階段の隙間から本当に手首が現れて、僕はギョッと固まった。


 ふ、と頬に微かな風を感じて、同時に耳をつんざくような悲鳴が響き渡る。

 悲鳴の主は、僕でも、背後の二人でもなかった。


「やはり小物ですね。もう降りてきて大丈夫ですよ」


 手招きしている若宮さんの隣で、星蓮せいれんは物言いたげな視線を向けている。

 僕は自分の足元を見て、……先ほど聞いたばかりの悲鳴を、今度こそ僕が上げそうになった。


 階段には、手首が落ちていた。

 切り落とされた手首は、断末魔を体現するようにぐねぐねと薄気味悪く動き回って、やがてぱったりと力なく崩れていく。

 

「ひ……」

「大丈夫だ、怖くない。気にしなくて良い」


 星蓮せいれんがすぐさま僕と同じ段まで駆け上がって、僕の手を掴む。

 その温かさにほっとしたのも束の間、若宮さんを見下ろす星蓮から怒りの声が滲み出していた。

 

「おまえ……」

「触れさせやしないと言ったでしょう。まさかにすら同情するのですか? ただの植物ですよ」


 若宮さんの呆れたような声音に、恐る恐るもう一度足元に視線をやると、落ちていたのは木の枝だった。

 溢れていく血のように見えた箇所には、いくつか紫の花びらが散っている。

 

「外にあった藤のつるですね。外壁のヒビから中に入ってきているのでしょう。この手の者は、人を脅かしたいだけで大した実害はありませんから、不幸が降りかかるという噂の後半は嘘でしょう。——外の藤を燃やしてしまえば解決します」

「え、燃やすって……」


 あの、立派な藤を?

 それはなんというか、あまりにも勿体無い。

 口を開きかけた僕を遮って、「やめろ!」と知らない女の声が耳を突き破り、北階段にわんわんと反響した。


「ほう。ただの悪戯好きな植物かと思っていましたが、果敢なのか無謀なのか……。私の前に出る勇気があるとはなかなかですね」


 階段の上に、いつの間にか長い髪を携えた女が立っていた。

 片手で押さえている左手首から先はなく、はらはらと紫の花弁を散らしている。

 よく見れば、それ以外にも彼女はあちこち傷だらけで、少し前までの包帯だらけの星蓮を彷彿とさせた。


「火など付けてみろ、私はおまえを絶対に許さない。必ず後悔させてやる!」

「主張ばかりで具体性のない……。嫌になりますね。どう後悔させてくれるおつもりです? その前にあなたの首が飛びますよ」


 脇差わきざしの鞘に手を添えて、若宮さんが女を見上げる。

 しかし女は怯えた様子もなく、健気に若宮さんを睨み返していた。

 飛び掛かりたい気持ちを辛うじて抑えているのは、絶対に敵わないとわかっているからだろうか。

 

「彼女は……」

「あの藤の化身でしょう。自我の薄い植物と違い、長く生きて人の形を取る者は、恐怖心なども人一倍強い。一部でも切り落とされれば、二度とあのような真似は出来ないと踏んでいたのですが」

「ほら見ろ、慢心じゃないか」


 横から蔑む星蓮に、若宮さんは冷えた笑顔を貼り付けている。

 そんな二人を通り越して、僕はじっと彼女を見つめていた。


 藤の精、だからだろうか。

 あの焼け跡で出会った首輪の女性に、どこか雰囲気が似ている。

 胸に飾られた折り紙の花に手をやって、僕を庇うように片腕を広げている星蓮の影から彼女を見上げると、若宮さんだけを見ていた女が、こちらを向いて「人の子……」とわずかにたじろいだ。


「おまえたちは引っ込んでいろ、子供がこんなところに来るものではない」


 追い払うような仕草を見せる藤の女に、どこか違和感を覚える。

 だって、旧校舎といえど、ここは学校なのだ。

 その階段でこんな悪事を繰り返すものが、子供を巻き込むまいとするのは不自然ではないだろうか。


「あの、どうしてこんな悪戯をするんですか」

「悪戯なものか。おまえたちこそ、どうしてこんなところにいる。ここはもう捨てられた場所なのだろう。寄り付く必要はないはずだ」


 ここが旧校舎であることを自覚しているのか。

 藤の女は、僕たちを追い払おうとがなり立てるが、その様子は若宮さんに向けるものとは少し違って見えた。

 女は「どうしてこんなところに」、と問う。

 僕には彼女が向ける怒りの理由も、焦燥の理由もわからないけれど、その質問になら簡単に答えてやれる。

 もう人が通うことのない旧校舎に、それでも今日、僕たちが足を運んだのは……。


「ただ、藤の花がきれいだったから」


 僕の言葉に藤の女は瞠目して、狼狽するように一歩下がる。

 女が背をつけた階段の踊り場では、大きなガラス越しに見事な藤がその蕾を綻ばせていた。

 しばらくの間を空けると、聞こえるか聞こえないかわからないほどの声量で、女は「そうか……」と呟く。



 ……もう、誰の目にも留まらぬと思っていた花を。

 間に合わなかった花を。


 変わらず見てくれる人の子が、まだいたのだな。




 ✤



 ——私を植えたのは、人の子だった。


 ここが普通の校舎として成立していた頃、人の子たちが私を植えた。

 幼木であった私にせっせと水をやり、肥料をまき、陽に当て、時には傘を差し出して、彼らは私の成長を日がな一日眺めていた。

 そのように毎日私を眺めても、私の成長は人の子たちほど早くはない。

 私の花を待ち望む子供たちの卒業までに、私の開花は間に合わないであろう。

 無意味に失望されるのが嫌で、私は人の子らから顔を隠すように、小ぢんまりと育った。


 三年が経ち、私を植えた子らは巣立って行った。

 辛うじて彼らの背丈ほどには伸びたが、枝葉もまばらで花も咲かない、貧相な姿の私を、彼らは最後の日まで喜んで世話をし、ともに写真を撮って行った。

 彼らは最後まで、私に失望することはなかった。

 ……こんなことならば、もう少し堂々と枝葉を広げておけばよかった。

 彼らの写真に映る私の姿は惨めで恥ずかしく、私は再びこの校舎の裏側で一人、小さくなっていた。


 彼らが卒業し、もう私に見向く者もいないだろうと思っていたが、どうやら私の世話を託されたらしい彼らの後輩が、また同じように私を取り囲んでは世話を始めた。

 私に慣れていない後輩たちは、肥料を撒きすぎたり、水を与えすぎたりとたびたび私を苦しめたが、私はもう後悔したくなくて、意地で枝葉を伸ばし続けた。

 一年後、結局また花は咲かなかったが、巣立っていく彼らと共に撮った写真は、以前よりまともな姿になっていた。


 そうして彼らは、私を世話しては次の世代に託していくことを繰り返した。

 花も咲かぬ藤の何が面白いのか。雨の日も、風の日も、彼らは献身的に私の世話をした。

 私には、彼らの心が全く理解できなかった。

 

 明くる年、私は遂に最初の花を咲かせた。

 植えられた当初は、私がこんなにも大きくなるとは思っていなかったのだろう。階段脇の小さな花壇では藤棚を建てることはできず、私は不恰好に校舎の壁面を這い、外壁の一部を紫に彩っていた。

 その代の子供らは大層喜び、私の足元で花見を開いた。

 ……ほら、やはり花が見たかったのではないか。

 はしゃぐ子供らに対して誇らしげに思うと同時に、あれほど世話をしてくれたのに花を見せてやれなかった、昨年までの人の子たちのことを思うとやりきれない。

 項垂うなだれる私の花は、紫に枝垂しだれたままその春の花びらを散らせた。


 ——長い年月が経った。

 私はすっかり成長し、見事な花を咲かせるようになった。

 しかし、もう私の花を喜ぶ者はいない。

 いつの間にかこの校舎で人の声を聞くことはなくなり、鬱陶しいほど世話を焼いてきた人の子たちは、ぱったりと姿を見せなくなった。


 私は結局、彼らが世話をしてくれていた時期の大半を枝葉だけで過ごし、藤のくせに大して花を見せてやることも出来なかったのだ。

 今ではもう、咲き誇っても散るばかり。

 つまらぬ日々に、私は目を閉じた。

 

 独りにも慣れたある春の日、一羽の小さなメジロが私の枝に巣を作り始めた。

 ……不敬な鳥め、この私を宿代わりとは。

 どうせすぐに出て行くだろうと思っていたが、そのメジロは片足が不自由らしく、うまく飛べないようだった。


「ふん。小鳥のくせに、満足に空も飛べないでどうする」

 

 吐いた悪態は、藤のくせに花も咲かせられなかった時の自分を思い起こさせて、余計に腹立たしくなった。


 メジロは必死に私の枝に巣を張ったが、空高く飛べないメジロの巣の位置は低く、あまりに頼りない。

 そんなところに巣を作っても、すぐに狐や蛇に食われてしまうだろう。

 呆れる私に構わず、メジロは卵を産み、痩せこけた体で温め続けた。

 私はその小さな体を外敵から覆い隠してやろうと、枝を伸ばし、巣を囲った。

 小鳥や卵を狙うものが、目を光らせたことは一度や二度ではなかったが、網目のように囲う枝を前に、やがて諦めて帰って行った。

 

 私は、いつの間にか小鳥を守ることに必死になっていた。

 何をしてもつまらないと感じていた私が、こんなにも一つの生に執着したのは初めてだった。

 藤でありながら花さえ咲かせられなかった私に、「元気でいてさえくれればいいよ」と声を掛けてくれた人の子らの気持ちを、今になって理解した。


 私と違い、わずかな時間しか生きられない小さな命。それでも懸命に生きようとする姿に、私は心を動かされていった。

 ……空など飛べずともよい。ただ元気でいてさえくれれば。

 この私を揺り籠に選んだおまえたちを、私が守ってやろう。

 

 やがて卵がかえり、雛が生まれた。

 不自由な体で餌を運び、雛を育てるメジロの姿に、私は何かをしてやりたかった。

 風が強い日、私は寒気が入らぬようにと枝を敷き詰めて巣を覆い、雨の日には葉を広げて雨滴から彼らを守った。

 少しずつ、少しずつ、私は自分の役割を見出していった。


 そんなある日、私は人間たちの会話を耳にした。この階段を改築し、邪魔な枝を切り払うという。

 私は初めて恐怖を知った。

 自分の身が切り払われることへの恐怖ではない。守るべき小さな命を失うことへの恐怖だった。


「私がいなくなれば、この子らは……」


 雛はまだ小さく、巣立つには早い。

 母鳥は餌付けで精一杯。雛を連れてここを離れることなど出来ないだろう。


 私は決意した。どんなことがあろうとも、この小さな命を守り抜くと。

 かつて花も咲かせぬ私が、彼らにそうしてもらったように。

 

 人間たちが斧を持ってやってきた日、私は必死に枝を絡ませ、葉を広げた。切り払われては、また伸びる。何度も何度も。

 私の必死の抵抗に、人間たちは諦めて帰っていった。しかし、私の体から多くの枝は切り落とされ、葉は散り、幹にも深い傷がついた。

 それでも、小鳥の巣だけは無事だった。

 メジロが私の傷ついた幹に寄り添うように止まり、小さな声でさえずった時、私は温かいものが込み上げるのを感じた。


「ああ、これが幸せなのだな……」


 長い年月を経て初めて、私は生きる喜びを知った。

 花も咲かせぬ、小さな幼木であった私を、人の子らがどれだけ温かい眼差しで見守ってくれていたのかを思い知った。


 私はただ、この身に芽生えた想いを守りたかった。

 ……それだけだったのだ。


 


 ✤



 

「逃げられましたね」


 若宮さんの声で、はっと我に返る。

 いつの間にかいなくなっていた藤の女を追うこともせず、肩をすくめて見せる若宮さんに、「逃がしたの間違いだろう」と星蓮が尖った声を上げた。


「こいつを囮にまでしたくせになんてザマだ。この役立たず」

「よく回る口ですねえ……。私があれを焼き払っていたら、それこそ君たちは怒ったでしょうに」


 彼女がいなくなっていてほっとしている僕を「ほら」と若宮さんが視線だけで指すと、星蓮は不服を満面に押し出しながらも、仕方なく口を閉ざした。


「おまえ、あれを取り逃したらまずいんじゃないのか。霊障を無くすために派遣されたんだろう」

「改修工事は待つよう、今一度進言しておきます。宮司ぐうじからの忠告ともなれば、頭の固い彼らも少しは耳を貸すでしょう」


 帰路、遅くなったので寮まで送って行くと告げた若宮さんからそんな結論を聞かされて、僕は思わず聞き返した。


「え?」

「何か意外ですか? あの藤が切り捨てられることを、君はよく思わないでしょう」

「そうですね。あの藤があのままでいられるなら、とても嬉しいですが……」


 僕が意外なのは、若宮さんからそんな血の通った提案が出てきたことだ。

 てっきり、明日にでも焼き払いに行くのかと思っていたのに。


いたちごっこじゃないのか。どうせ古い校舎をあのままにはしておけない。保全のためにもいずれ工事は必要になる」

「それはそれです。人が生きるために必要な工事は推進すればよろしい。その邪魔をする者があれば、今度こそ私が『祓い屋』として呼ばれるでしょう」

「今日のは仕事じゃなかったんですか?」

「言ったでしょう、今日はただの見回りです。祓う者として呼ばれたなら、私もこんな手ぬるい判断はしません。世のため人のため、誠心誠意仕事をしますよ」


 胡散臭い言葉に、星蓮と二人で微妙な顔を見合わせる。

 しかし「今一度」ということは、若宮さんは以前から改修工事に反対していたのだろうか。

 訝しむ僕の心を読んだかのように、若宮さんは「勿論です」と返した。


「随分昔から改修の予定はあったんですよ。ただ霊障が酷く、遅々として進まなかったようですが」

「じゃあ、最近再開したのは、あの石碑を直したからですか?」

「ええ。はじめさんが直してしまったからですね。せっかく壊しておいたのに」

 

 ……あの石碑、あんたが壊したのか。

 とんでもない自白に閉口する。他人の家に火をつけたり、石碑を壊したりと、黙って聞いていればとんでもない人だった。この人は本当に宮司ぐうじなのだろうか。


「神職が聞いて呆れるな」


 星蓮せいれんが僕の言いたいことを一言にまとめて代弁してくれる。

 先程まで「世のため人のため」と言っていた人間と同一人物とは思えない所業だ。

 

「なんでそんなことを……」

「ここはやけに怪異が多い。森を切りひらけば野生動物が人里へ降りてくるように、ここの改修工事を進めれば、住処を追われた怪異たちが君たちの周囲に蔓延はびこることになる。み分けのためにも、この校舎は残しておくべきでしょう」


「それに」と若宮さんが振り返って、唇の前で人差し指を立てる。

 

「ここは、調べれば他にも色々と出てきそうですからね。私個人としても、まだこのまま残しておいていただきたい」

「調べたいことって……」

「そうですね。何者かに殺されてしまったまま遺体の行方が知れない、二人の高校生の死因について、……とか」


 どくり、と胸の中身が跳ねたような心地がした。

 二人の死因についてはまったくもって無関係な僕が知るはずもないが、しかし二人の遺体の行方は、僕が一番よく知っている。


「それらを考慮しても、今日のおまえは手緩てぬるいな」


 ぐるぐると思考が飛んでいる僕の代わりに、星蓮が言葉を返した。

 それにしても、あれで手緩てぬるいのか。人の手首に見えるものを何の迷いもなく切り落としていたように見えるが。

 星蓮せいれんの言葉に震えながら若宮さんを見上げると、「目敏めざといですね」と困ったように笑っていた。


「そうですね……。藤は昔の友人が好きだったので、少しばかり手が出しづらい。君たちがいなくとも、見逃せる理由があれば見逃したかもしれません」

「おまえに友人がいたのか」


 心底驚いたように振る舞う星蓮せいれんを無視して、若宮さんは僕を向くと「その胸の折り紙、素敵ですね」と紙で折られた藤の花を指差した。


「壊れてしまわないように気を付けるといい。……折り紙は、とても脆いものだから」


 寮の入り口まで送ってもらった去り際、若宮さんはそう言い残して帰って行った。


 いつの間にか門限ぎりぎりではあったけれど、すっかり夏も近付いたせいで、陽はまだ落ちたばかりだ。

 夕方から宵の闇に移り変わり始める景色は、僕の瞳の色に似ていて気に入っている。

 西にはまだ橙色が尾を引いているけれど、東の空では既に星々が優しく瞬いていた。

 それはまるで、藤の花が天に咲いているかのようで。僕は胸に抱いた折り紙の花に、もう一度手を重ねた。


星蓮せいれん

「ん?」

「来年もあの藤が残っていたら、僕と一緒に見に行こう」


 星蓮は少し考え込むように黙った後、柔らかな笑みを浮かべた。


「ああ、そうだな。必ず」



 ——その夜、僕は夢の中で満開の藤の花に包まれていた。

 紫の花々が優しく僕を包み込み、心地よい香りが漆塗りの家の中に漂っている。


 目覚めた時には、もうどんな夢を見たのか覚えていなかったけれど、胸に残る確かな温かさは、忘れかけていた大切な思い出のようだった。

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