第三夜 彷徨う白骨
てん、てん、と何かが弾む音がする。
……誰かが、
霧の向こうで、幾つもの小さな人影が、
近づいては遠ざかる、
——
——
くすくす、くすくす。
子供特有の甲高い笑い声は、決して和やかなそれではない。
こちらを
くすくす、くすくす。
笑い声の奥で、ひそめられた声がいつしか
やがて大きくなっていく罵声の数々は、かつて確かに、彼女に向かって投げ掛けられていたもの。
「……
第三夜 彷徨う白骨
目が覚めたら、不老不死になっていた。
いつも僕より早く起きては意気揚々と朝食の準備をしていたはずの
ふたりとも、僕が暴れ狂うとでも思っていたのだろうか。
だとしたら、期待を裏切ってしまって申し訳ない。
事の顛末を聞いた僕の返答は、「そうなんだ」の一言に尽きた。
「な、何か、欲しいものとか……ないか……?」
「ほ、ほら、エンゼルフィッシュだ! おまえ、こういうヒラヒラしたサカナ好きだっただろ……?」
「そ、そうだ、宿題! 俺が代わりにやってやるよ!」
……なんて言い出す有り様だ。
起こってしまったことは仕方がないし、むしろ助けてもらって感謝している。とはいえ思い返してみれば、彼は毎日のように、僕に謎の肉を食べさせようとしていたような。
これまで平然と差し出されてきた、ステーキだの串焼きだのハンバーグだのといった肉料理が、鶏でも牛でも豚でもなかったことを知ったときの方が血の気が引いた。
うっかり僕が食べてしまっていたらどうするつもりだったのかと尋ねると、「だっておまえ、面白いくらい俺の肉に手を付けないし」と返される。
美味しそうだっただろ? なんてのたまう彼に、「もし食べてたらどうしたんだよ」と僕は青ざめながらも繰り返した。
「そうしたら、もっと早くおまえを不老不死にできたのにな」
そう言って、少しも悪びれることなく笑う彼は、やはり本物の怪異なのだろう。
彼にとっては僕に怒られるかどうかが重要なのであって、僕が不老不死になってしまったことについてはむしろ好ましく思っているようだった。
✤
僕が
彼の時間感覚では一瞬の出来事だったのだろうが、彼が
十五になっていた僕が、姿も形も違う彼をさすがに一目見ただけで思い出せなかったのは許して欲しい。
「とにかく、わかっただろ。俺はおまえより大きくて強いんだから、もう絶対に俺を
先程までしおらしく僕の機嫌を取ろうとしていた彼だったが、この点においてだけは
僕も彼さえ無事なら、無意味に自己犠牲精神を披露したいわけではないので、おとなしく頷く。
最近、学校でも寮でもやたらアレルギーが出るなと思っていたが、蓋を開けてみれば彼が隣にいたからなのだった。
人に
彼の肉を食べたせいか、今はそれもおさまって、彼に対してはアレルギーも反応しなくなっていた。
「不老不死でも怪異アレルギーは治らないのか……」
「どんなにやばい奴に遭遇しても、アレルギーで死ぬことはなくなったけどな」
肩を落とす僕に、「おまえって、特殊な生まれだったりするのか?」と
「
僕のリクエストで卵焼きとトーストになった朝食を目の前に置かれながら、彼の質問を
……特殊な生まれ。
特殊とは、なんだろうか。
普通の生まれとは、どのようなものなのだろうか。
「……人間同士が交配して、母体の腹に宿った命は、君が言う『特殊な生まれ』に入るだろうか」
「入らないな」
「じゃあ、僕は普通なのかも」
トーストに齧り付く
普通。なんだか素敵な響きだ。
まるで、自分がみんなと変わらない存在になったみたいで。
少し気分が良くなった僕の皿は、すっかり空になっていた。
✤
小綺麗な
整然と並ぶ敷石に、人の足跡はない。
正面の本殿は白い木材で建てられていて、
境内は本殿をはじめ、社務所も敷石も軒並み白っぽく、朝の日差しを
……僕の生家は黒一色の
この若宮神社は、僕が物心ついた頃とさほど変わらない時期に建てられたものだ。
近所の小宮にしてはなんだかとても居心地がよくて、僕はたびたび朝に寄っては、ここでお参りをしてから登校することにしている。
「ここで待ってるから、行ってこいよ。この中なら危ない目に遭うこともないだろう」
「ここってそんなに凄い神社なのか?」
「まあ、そこらの妖なら、鳥居の中に放り込んだ瞬間に蒸発するだろうな」
というわけで、立派な怪異である友人からのお墨付きも得られたことだし、今朝の僕は自信を持ってお参りにきていた。
ぱん、ぱん、と二回手を合わせて、深々と一礼する。
「今日こそ、怪異アレルギーが治りますように」
そしてあわよくば、不老不死も治りますように。
しっかりお願いしてから、さて帰ろうかと振り返ると、拝殿の階段の下から男の人がこちらを見上げていて、思わず足が止まった。
「精が出ますね」
にこ、と微笑まれて、つられて僕もへらりと愛想笑いを浮かべる。十年近く通っているが、この神社で他人と会ったのは今日が初めてだった。
魔除けの一種だろうか。男の目元には、朱色の
控えめに彩られた目元は、女性だったならメイクと勘違いしただろう。
じっと目元を凝視する僕に気付くと、男は「おや」と自分の目元に手をやった。
「これが
「あ、すみません。ついジロジロと……」
「ああ、気にしないでください。この若宮神社は名の通り、歴史の浅い宮でして。熱心な参拝者はあなたくらいのものなのです」
ですからいつも感謝しているのですよと男は続けて、はたと何かに気付いたように、今度は男がこちらをじっと見つめてきた。
自分もさっきやってしまったばかりなので、数秒は見つめられるがままじっとしていたが、だんだん沈黙が苦しくなってきて、男に声を掛ける。
「あの、穴が開きそうなんですが……」
「これは失礼。知人の若い頃にそっくりだったもので。——私は
「襲う、と書いて『
思ったより物騒な名前だった。
笑顔で語られて、僕も愛想笑いのまま固まる。「へえ、かっこいい名前ですね」となんとか感想をひねり出した。
今度は僕の紹介を促すように視線を向けられるが、黙っている僕にしびれを切らしたのか、「失礼ですが、お名前は?」と男がストレートに尋ねる。
「名乗るほどのものでは……」
神社と同じ姓を名乗る男に、僕は言い淀んで口を閉ざした。
ほいほい怪異に絡まれる僕は信用がないようで、『知らない人に簡単に名前や住所を教えてはいけない』と、
神社で出会った初対面の男に名前を教えたなんて知られたら、あとで怒られてしまうだろう。
僕のなけなしの防犯意識に、男は「そうですか」と特に気にした様子もなく頷いて、右手の
「日頃のお礼に、
占いに興味があるわけではないが、くれるというなら貰っておいても損はない。
「ありがとうございます」と言って
「え?」
「今日の君は七十二番ですから」
引いていいと言われたそばから止められるとは思わなくて、
その棒の先には「七十二」と刻まれていた。
「……この箱って七十二番しか入ってないんですか?」
「はは、だとしたら数人連れのお客様には
「……つぎは何番が出るんですか?」
「おや、意地悪ですね。また当ててしまったら、君は今度こそ
「一応、言うだけ言ってみてもらえませんか」
「そうですねえ」
男は
からだの中にあるものを射抜くような鋭い視線に、背筋をぞわりとしたものが駆け下りた。
「今日の君は、七という数字に縁があるようだ」
男の言葉を聞いてから、再度
出てきた棒は、七番だった。
「……あなたが凄腕の詐欺師か、凄腕の宮司さんのどちらかであることはわかりました」
「五分五分で信用していただけたようでなによりです」
「これ、どちらの
七十二番と七番の
「どちらも君に縁があったのでしょう。うちの
それでは、良い一日を。
男はそう言って、結果を見ることなく立ち去っていく。
あとに残された僕は言われるがまま、七十二番と七番の
「七十二番:凶。西に困難
印刷されたような精巧な文字は、しかしよく見ると墨の反射具合で手書きの筆文字だと分かった。これを書いた人はすさまじく神経質か、写経の達人に違いない。
というか、もしかして一番から百番まで、すべて手書きなのだろうか。だとしたらとんでもない労力だ。
もう一枚には何が書いてあるのだろう、と好奇心に負けて七番の
まるで、手紙のような文面だ。
「うーん……?」
書かれている内容が読み解けず、首を傾げる。
僕がこのあと最初に会うのは、鳥居の外で待つ
とりあえず元の通りに
若宮神社の入口は三十段ほどある石造りの階段になっていて、参拝客の少なさはこれも一つの要因なのではないかと思う。少なくとも、お年寄りには厳しい道のりだろう。
階段を
「いたた……」
「ああ、大丈夫ですか。すみません、私の不注意です」
こちらを覗き込んでいた顔とバッチリ目があって、僕らはお互いに息を呑んだ。
——僕みたいだ。
思わず声に出そうになるほど、そっくりの顔がこちらを見下ろしていた。
僕と同じ
僕がもし女の人で、大人になったらきっとこんな感じなんだろうな、としか形容できない容姿をしていた。
しかし、先程の声は……。
「怪我はないでしょうか。生徒さんにぶつかるなんて……。申し訳ありません。どこか痛むところはないですか」
「えっと、大丈夫です」
再度掛けられた声に確信する。やはり男の人の声だ。
先程の若宮さんは、口調や物腰こそ柔らかいものの、男性であることを疑う余地はなかったが、この人はそれ以上にどこか女性らしい所作が垣間見えた。
声さえ聞かなければ、女性だと思い込んでいただろう。
それに、僕を『生徒さん』と呼んだ。
訝しげな僕の視線に気づいてか、男は僕の手を取って立ち上がらせると、流れるように名を名乗った。
「選択授業は今日からだから、一足早い『はじめまして』ですね。——私は、
✤
古典の授業は、七限目だった。
放課後まであと一限となったクラスは、もうじき始まる初めての選択授業に浮き足立っている。
そんなテンションの教室だが、名簿に名前を書き加えたからだろうか。クラスでも半ば空気だった僕が、とたんに世界に認められたように名前を呼ばれるようになっていた。
「
「あ、だよねだよね! 私も思ってた」
女子のそんなささやかな一言を皮切りに、僕の席のまわりできゃあきゃあと人だかりが出来る。
……これがモテ期か。
正直、「ひとりぼっちでかわいそう」と声をかけられることは多々あっても、こんな風に「僕」という存在を認知されて話し掛けられるのは初めてで、ちょっとドギマギした。
「その辺りにしとけよ。急に話し掛けられて
そう言って人だかりを散開させてくれたのは、出席番号七番、
彼は特別親しいわけではないが、六人一列で机を並べられる僕らの教室では、出席番号七番の
机が隣という以上の交流はないけれど、辞書や教科書の貸し借りをしてくれる程度には仲良しである。
……それを仲良しと言えてしまうくらい、僕は
『今日のあなたは、七という数字に縁があるようだ』
あの宮司に言われた言葉が、ふと脳裏に蘇る。
数学では七問目を当てられ、体育では僕が七点目の得点を入れた。
やはりあの男は詐欺師ではなく、凄腕の
即ち、
担当科目は現国と古典。
年若い上に、甘いマスクと柔和な態度で、特に女子からの人気は非常に高い。メイン担当である古典は、選択クラスでありながら、人気のあまり人数制限が設けられるほどだ。
ちなみに僕は「採点が甘いらしい」という噂の方に惹かれて古典を選択している。
「はじめまして、
若さと顔が取り柄の教師だと思っていたが、意外にも
著者や登場人物たちの心情を深く掘り下げて、一読するだけでは判らなかった情報を丁寧に教えてくれる。
彼が語った平家物語は、教科書に載せられた文字の羅列ではなく、あまりの物悲しさに胸を
✤
「ねえねえ聞いた? 旧校舎の《這い寄る
「
「夜中にガシャガシャ音がして」
「骸骨が這い寄ってくるんだって」
「もし捕まってしまったら」
「骸骨に魂を奪われて」
「あなたも這い寄る仲間入り」
「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」
迎えた放課後。
聞こえてくる新しい噂話に、僕が口を開くより早く「ダメだからな」と
「まだ何も言ってない」
「旧校舎に行くって言い出すだろ。ダメ。骸骨なんて見たって面白くないし」
「だけど君は行くんだろう?」
う、と
彼が僕のために、とにかく多くの怪異を食べたがっていることを、僕は昨日の一件で知ってしまった。
「腹の足しになればいいけどな。骨なんて飲み込んでも喉に
「骸骨を食べても大きくなれるのか?」
「人間みたいに血肉を栄養にしてるわけじゃないからな。もちろん、
馬とか、牛とか、もっと肉っぽいやつが。
そう答える彼に、「栄養価の高さなら、クジラである彼もなかなか負けていなさそうだな」と思いながら目線をやると、「お? 食べたいのか?」と何故か嬉しそうに立ち上がった。
……いくら栄養価が高くても、僕は友達を食糧としては見られそうにない。
「……とにかく、旧校舎には僕もついていくから、」
「いけませんね。旧校舎は老朽化していて危ないですから、敷地内は立入禁止ですよ」
背後から声を掛けられて、僕はそのままの姿勢で固まる。
授業を終えて出て行ったはずの
相変わらずそっくりな顔と視線が合った僕は「あ」と思い出して、ポケットに入れたまま渡しそびれていた、七番の
「これは?」
「えっと、深い意味はないので受け取ってもらえませんか」
怪しがられるかと思いきや、
「ありがとうございます。君からいただけるものは、何でも嬉しいです!」
心の底から嬉しそうに、
なんだか
ぴしり、と笑顔にヒビが入る音がこちらまで聞こえてくるようだ。
「……
「若宮神社のお
「なるほど……。読んだんですね、これを……」
「用があるのなら同行しますよ。生徒だけでは危ないので許可できませんが」
「えっ……と、そんな、先生についてきてもらうほどの用じゃないんです。おばけの噂を確かめたくて」
「構いませんよ。好奇心は知識向上に役立つ重要な資産です。門限までなら特別に許可しましょう」
気が変わったのだろうか。突然舞い降りた許可に「まあいいか」と僕は頷く。
どうせ先生にも見えないし、
そう考えれば、人目を気にしてこそこそ旧校舎に行くよりも、先生の引率付きで堂々としていられる方が精神衛生上もいい。
僕らはこうして、陽の落ちた旧校舎に連れ立つことになった。
✤
夜の旧校舎は、薄明かりの月光に包まれ、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。
一切の遊具が撤去された校庭は物寂しく、旧校舎を挟んで反対側に位置する昨日の庭園とは雲泥の差だ。
かすかに霧の立ち込める校庭を、懐中電灯を持った僕と星蓮が慎重に見て回る。そのうしろを
「そういえば、今回の『噂』だと、旧校舎のどこにいけばいいのかわからないな」
前回は「中庭の池」とわかりやすい指定だったが、今回はヒントがないので
と、「どこに行くんです?」と
「建物の中にはいませんよ。
「がしゃどくろ?」
尋ね返す僕に、
そんな、アルバイトの面接みたいなことを急に聞かれても、追い回されたご経験しかない。知識に至っては皆無と言ってもいいほどだ。
嘘をついても仕方ないので、「さっぱりです」と一言に集約する。
「でも君、
「えっと……」
突然怪異の話に言及されて、肯定すべきか否定すべきかわからず口ごもる。そんな僕を庇うように、星蓮が一歩前にでた。
「おい、カルタが困ってる」
「ああすみません。困らせるつもりは……。はあ、参ったな。じゃあ本当に、ただの見学のつもりだったのですか?」
一瞬口調が崩れた気がしたが、すぐに立て直すと、
困らせるつもりどころか困っているのは
「あの七番
縋るようにこちらを見られて、僕は悩んだ末に小さく頷く。
どうやら先生も
「
「私はてっきり……、君が、絵を描きたいのかと思って……」
何か声をかけようとしたところで、遠くの方から何かが這いずるような物音が聞こえてくる。
身構える僕とは対照的に、
「
先程まで遠くで聞こえていた新校舎からの談笑は、いつの間にか隔絶されてしまっていた。
白い霧が足元を覆い、木々や旧校舎の輪郭もぼんやりとしか映さない。風は冷たく、肌を刺すような寒気が漂っている。
撤去されたはずのブランコが、ひとりでに揺らめき、錆びた鎖が不気味な金切り声を上げた。
不吉な気配が、少しずつ近付いてくるのを感じる。共鳴するように、左腕がじくじくと熱を持ち始めていた。
薄暗い霧の中で、青白い
霧の向こうから「ガシャン、ガシャン」と骨を打ち鳴らして這いずり寄ってきたものが、月明かりにうっそりと照らし出された。
昨日のナマズと同じような大きさをした頭蓋骨。そこから伸びる脊椎と、特徴的な肋骨。
骨の結合部には腐敗した肉がこびり付き、ぽっかりと空いた眼窩には、黒く深い闇が覗いている。
地獄から這い出してきたかのように、上半身だけを地面に横たわらせたその白骨は、胸元に僕らの姿を認めると、薙ぎ払うようにこちらに腕を伸ばしてきた。
「うわ……っ」
すかさず、
「あれくらい俺なら一口だけど、食べたらおまえ、怒るよな?」
顔色をうかがうように
中には僕の知っている人がいるかもしれないし、誰かの大切な人が混じっているかもしれない。
——そう。例えば、美術室で絵を描いていた彼女とかが。
「
先程手元で書いていたらしき
七十二番の
「っぎゃ——————!」
「全く、危ないなぁ。もうこれは喰っていいよな?」
月明かりの下で、
辺り一帯を暗闇にするほどの大きな影は、どこまでも広い口を開くと、降り注ぐ両腕の骨の影をぱっくりと呑み込んだ。
頭上に自由落下していた骨は霧の中に溶けるように消え去って、両腕を失った
「先生、あれって成仏させたりできるんですか?」
「難しいことを言いますね……。あれの核だけを射抜けるような人ならそれも可能でしょうが、私には厳しいでしょう」
「なんだ、
星蓮の
かくいう
「君は……、怪異を祓ったりはしないんですか?」
思い掛けず話を振られて、「え、僕ですか?」と間抜けにも自分を指してしまった。
やたら怪異に詳しい大人と、元大型怪異に挟まれてはいるが、僕はただのアレルギー持ちの一般人だ。一緒にしないで欲しい。
ぶんぶんと首を振って無理を示すと、
「これらはごく最近集まったにしては大きすぎます。何か元凶となったものがあるでしょう。彼らをまとめて祀っていたもの……、
「じゃ、
「えっ、そんな勝手に……」
「骸骨の両腕もなくなったし、放っておいても平気だろう。腐っても『
——筆を扱う、
怪異を封じ、従え、意のままに操る人形使い。
「あんなの、俺どころかあいつにだって大した事ない相手だから、そんなに心配する必要はない。あれを祓いも封じもせず、死霊だけ成仏させたいだなんて無茶振りするから、ちょっと時間がかかってるだけで」
「僕、もしかしてワガママなお願いしてる?」
「まあ、それなりに……」
僕をかなり
「しかし
「西に……。西校舎の裏に行こう。きっとそこに何かあるはずだ」
七十二番:凶。西に困難
ポケットの
「ああ、本当だ。なんだか
そういえば、旧校舎を改築しようと最近工事が始まったらしい。どうやら工事の際に、封印の石碑が壊されてしまったようだ。
「これって、直せるものなのか?」
「あー、役割分担を間違えたな。こういうのは俺よりあいつの方が得意だろう……」
言い掛ける
きょろきょろと辺りを見渡しているそれらは、青い目をした三匹の兎だった。人魂を背負っているので、彼らも怪異なのだろう。
兎たちは散らばっていた石をせっせか積み上げ始め、不恰好ながら石碑が元の姿を取り戻していく。
「うわ、かわいい……」
「おまえ、こういうのも好きなのか……?」
人類はモフモフの魅力には抗えないんだよ、と前置きしてから「でも僕はクジラ派かな」と付け足すと、
「さて、俺たちの役目は終わったな」
あっちはどうかなーと
石碑は微かに鳴動すると、ひび割れた部分が埋め立てられるように整っていく。
「ほら、見なさい。君たちの死はきちんと
僕達が石碑をもとに戻したことを確認すると、
骨を構成していた無数の霊は、指し示された先に自分たちの慰霊碑を確認すると、組み紐が解けるようにまばらに輝きながら散っていった。
解放された霊たちが煌めきながら空へと還っていく中に、見知った顔がないか、求める顔がないかと僕は懸命に目を凝らす。
しかし結局、何も見つけられないまま、
「君は……、絵を描かないんですね」
花火のような煌めきに照らされながら、どこか寂しそうに
✤
夜の若宮神社は、朝とは異なる表情を見せていた。
早朝の清々しい空気は消え、静寂が
本殿へと続く参道では、わずかな月明かりが石畳を照らし出し、石のひび割れが陰影を帯びる。参道脇に並ぶ灯籠は、長年ここを守り続けてきた存在のような貫禄を醸し出していた。
静まり返った境内の空気に溶け込むように、かすかな鈴の音が聞こえる。どこからともなく響くその音は、神秘的でありながら、どこか不安を掻き立てるものがあった。影が深まるごとに、境内全体が微かに息づいているような錯覚を覚える。
白く
夜更けにじゃりじゃりと玉石を踏む耳慣れた足音に、宮司の男は顔を上げる。
「
「
間髪入れずに訂正されて、
「お疲れ様でした。さっさと封じてしまえばよかったのに、あなたも妙なところで律儀ですね」
「見ていたんですか」
不愉快をそのまま顔に出すと、そいつは何がおかしいのかくすくすと笑う。
「隣人を頼られよ。……七十二番にもそう書いてあったはずなんですけどね。どうして皆さん、無茶を通したがるのでしょう。蛇の道は蛇に、餅は餅屋に。世の中には適材適所というものがあるというのに」
非効率ですよね、と微笑みかけるこいつは、あの
こいつがいれば、有るかも判らない石碑を探すなどという非効率な手順を踏まずとも、あの死霊たちを解放できただろう。
そう思うと腹立たしくて、ついつい被っていた猫もどこかへ逃げ去り、口調が荒くなる。
「出来ないことは出来ないと言ってくださればいいのに」
「お前がそういう奴だから、頼られないんだろう」
「
昔馴染みの縁からか、普段よりいくらか砕けた言葉で不服をこぼす男に、「死んでもお前には頼らない」と返して背を向ける。
「それはよくない。死んでしまったら元も子もありませんよ」
「お前に助けて貰う必要はないと言っているんだ」
「人は一人では生きていけないのです。あなたもよくご存知でしょう」
ギリ、と噛み締められた歯が叫ぶ。平然と正論を吐く目の前の男が憎たらしくて、羨ましくてたまらない。
——そういうお前は、一人で生きているじゃないか。
「そんなに顔をしかめてないで、空でも見上げたらどうです? ほら、今夜は月が綺麗ですよ」
「結構。本題に入る気がないのであれば、『私』はもう帰ります」
「本題とは?」
はて、と小首を傾げるそいつの眼前に、『
「お前が『日時を尋ねろ』って送って
「おや、これは失礼しました。日時は私も知らされていないので、誰かに
サラリと返されて、顔に血が昇る。
確かに。主要な出席者とはいえ、嫌われ者のこいつが
俺の勘違いではあったのだが、しかし口元を押さえて肩を震わせているこいつを見ると、八つ当たりも致し方ない気がしてくる。
「……
「いえ。——少し見ない間に、一人称まで変わってしまったのですね。本当に主体性のない人だ」
くすくす。
呆れたようなこいつの笑い声が、今朝の夢の中の嘲笑と被って、苛々とはらわたが煮え繰り返る。
俺の怒りを知ってか知らずか、こいつは轟々と燃え盛る俺の怒りに、ひたすら油を撒いて、薪を
「あなたがそんな風に縛られて生きることを、カルタさんも望んではいないでしょうに」
一線を軽々と飛び越えられて、思わず
——
描いた絵の中に怪異を閉じ込める、
生きていれば優秀な祓い屋になれただろうに。彼女は十八になった年に、噂話だけを遺してこの世を去った。
若宮かさねは俺に首元を掴まれながらも、「髪、随分伸びましたね」と明後日の感想を向けてくる。
「なんだ。『まるで女みたい』か?」
聞き慣れた陰口に
「じゃあなんだ」
「いえ、まるで——。
思ってもみなかった言葉の衝撃に、一瞬思考が停止する。
言われてみれば、伸ばしかけた髪も、柔らかな口調も、笑顔の奥に本心を包み隠す姿も……。言い逃れできないほど、全て目の前のこいつに似通っていた。
俺達の間柄を知る者が見れば、まるで俺がこいつに憧れているようにも映るだろう。
——違う。ふざけるな、誰がおまえなんかに。
言ってやりたい文句が一気に溢れすぎて言葉に詰まる俺に、若宮は「勿論、わかっていますよ」といつも通りの笑顔で歩み寄った。
「あなたが本当は
「
努めて冷静になろうと息を吐き、掴んでいた手を離す。
しかし若宮かさねは臆することも、その口を閉ざすこともしなかった。
「ええ、余計な世話でしょう。しかし誰も言ってくれる人がいないようなので私が言ってさしあげます。その鬱陶しい髪をさっさと切って、自分の人生を生きなさい。——あなたが本当に、カルタさんのことを想うのならば」
冷たい指が伸ばされて、俺は思わず目をつむる。
その手が俺自身を害したことこそないが、俺の式神の首を
肩を強張らせる俺を小さく笑うと、そいつは俺の髪から葉を払った。
「勇気が出ないのならば、私が切ってさしあげますよ」
「触るな!」
思わず払いのけてしまって、乾いた音が夜中の
見れば彼の日に焼けない手の甲が赤く染まっていて、意図せず暴力を振るってしまったことに気付いた俺も我に返る。
しかし慌てて続けようとした謝罪は、変わらず向けられる微笑みに圧倒されて言葉にならなかった。
若宮かさねは、笑っていた。
払いのけられ、叩かれた手を赤く染めて、いつもと変わらず悠然と微笑んでいた。
心から世界を笑い、他人を笑い、自分を笑う。
反発されることに慣れ、拒絶されることに慣れ。
嫌悪され、忌避され、侮蔑されることに慣れてしまっている。
……本当は、誰よりも賞賛されるべき立場にありながら。
そこまで身を落としても、彼女の心を知るには、きっと全然足りないのだろう。
俺が未だ、姉の死に囚われているように。
「次の
そいつの言葉に呼応するように、本堂の中でガタリと何かが動く音がした。
——それを外に連れ出せば、彼の立場はますます悪くなるだろう。
けれど、彼はどうせ自分の忠告になど耳を貸さない。
それに俺も、その扉の先で眠るものを、早く外に出してやりたいと願っているから。
「……考えておく」
それだけを答えて、俺は若宮神社を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます