第三夜 彷徨う白骨

 てん、てん、と何かが弾む音がする。

 

 ……誰かが、まりをついている。

 霧の向こうで、幾つもの小さな人影が、手鞠てまりをついて遊んでいる。

 近づいては遠ざかる、小波さざなみのような子供たちの歌声が、やけに耳についた。

 

 ——綾取あやとりの糸は切れ、檻紙おりがみは既に燃え尽きた。

 ——雛遊ひなあそびはいつもひとりぼっち。


 くすくす、くすくす。

 

 子供特有の甲高い笑い声は、決して和やかなそれではない。

 こちらをあざけるような含み笑いは、輪唱のように響き渡って、だんだんと声量を増していく。

 

 くすくす、くすくす。

 

 笑い声の奥で、ひそめられた声がいつしか悪辣あくらつな本性を垣間かいま見せ始める。

 やがて大きくなっていく罵声の数々は、かつて確かに、彼女に向かって投げ掛けられていたもの。


「……五月蝿うるせぇな」

 

 雛遊ひなあそびはじめは、目を覚ました。






 第三夜 彷徨う白骨






 目が覚めたら、不老不死になっていた。


 いつも僕より早く起きては意気揚々と朝食の準備をしていたはずの星蓮せいれんは、なぜかクローゼットに閉じこもってそっと隙間からこちらを伺っており、向日葵ひまわりさんも普段腰掛けている椅子の陰に身を潜ませている。

 ふたりとも、僕が暴れ狂うとでも思っていたのだろうか。

 だとしたら、期待を裏切ってしまって申し訳ない。

 事の顛末を聞いた僕の返答は、「そうなんだ」の一言に尽きた。


 星蓮せいれんは、僕を勝手に不老不死にしてしまったことを随分と気にしているようで、今朝から僕の背後をうろついては、

「な、何か、欲しいものとか……ないか……?」

「ほ、ほら、エンゼルフィッシュだ! おまえ、こういうヒラヒラしたサカナ好きだっただろ……?」

「そ、そうだ、宿題! 俺が代わりにやってやるよ!」

 ……なんて言い出す有り様だ。

 起こってしまったことは仕方がないし、むしろ助けてもらって感謝している。とはいえ思い返してみれば、彼は毎日のように、僕に謎の肉を食べさせようとしていたような。

 これまで平然と差し出されてきた、ステーキだの串焼きだのハンバーグだのといった肉料理が、鶏でも牛でも豚でもなかったことを知ったときの方が血の気が引いた。

 うっかり僕が食べてしまっていたらどうするつもりだったのかと尋ねると、「だっておまえ、面白いくらい俺の肉に手を付けないし」と返される。

 美味しそうだっただろ? なんてのたまう彼に、「もし食べてたらどうしたんだよ」と僕は青ざめながらも繰り返した。

 

「そうしたら、もっと早くおまえを不老不死にできたのにな」


 そう言って、少しも悪びれることなく笑う彼は、やはり本物の怪異なのだろう。

 彼にとっては僕に怒られるかどうかが重要なのであって、僕が不老不死になってしまったことについてはむしろ好ましく思っているようだった。

 



 ✤




 僕が星蓮せいれん、もとい「大きなさかな」と初めて出会ったのは、「僕」が六歳になる年だった。

 彼の時間感覚では一瞬の出来事だったのだろうが、彼がひれを失い、足を手に入れるまでに、ゆうに十年の歳月が経過していた。

 十五になっていた僕が、姿も形も違う彼をさすがに一目見ただけで思い出せなかったのは許して欲しい。


「とにかく、わかっただろ。俺はおまえより大きくて強いんだから、もう絶対に俺をかばうようなことはするなよ」


 先程までしおらしく僕の機嫌を取ろうとしていた彼だったが、この点においてだけは毅然きぜんとした態度で僕に念を押した。

 僕も彼さえ無事なら、無意味に自己犠牲精神を披露したいわけではないので、おとなしく頷く。

 最近、学校でも寮でもやたらアレルギーが出るなと思っていたが、蓋を開けてみれば彼が隣にいたからなのだった。

 人にふんしていてもアレルギーが出るあたり、彼は本当に強い怪異なのだろう。

 彼の肉を食べたせいか、今はそれもおさまって、彼に対してはアレルギーも反応しなくなっていた。


「不老不死でも怪異アレルギーは治らないのか……」

「どんなにやばい奴に遭遇しても、アレルギーで死ぬことはなくなったけどな」


 肩を落とす僕に、「おまえって、特殊な生まれだったりするのか?」と星蓮せいれんが尋ねる。


ながく生きてる方だけど、怪異アレルギーなんて見たことも聞いたこともないぞ。由来がわかれば治してやりようもあるけど……」


 僕のリクエストで卵焼きとトーストになった朝食を目の前に置かれながら、彼の質問を反芻はんすうする。

 ……特殊な生まれ。

 特殊とは、なんだろうか。

 普通の生まれとは、どのようなものなのだろうか。


「……人間同士が交配して、母体の腹に宿った命は、君が言う『特殊な生まれ』に入るだろうか」

「入らないな」

「じゃあ、僕は普通なのかも」


 トーストに齧り付く星蓮せいれんならって、僕も両手でトーストを持ち上げる。

 普通。なんだか素敵な響きだ。

 まるで、自分がみんなと変わらない存在になったみたいで。


 少し気分が良くなった僕の皿は、すっかり空になっていた。




 ✤




 小綺麗な境内けいだいは、澄み渡る早朝の空気に満たされていた。

 整然と並ぶ敷石に、人の足跡はない。手水舎ちょうずやでは新鮮な水が絶えず湧き溢れ、静まり返った境内に爽やかな水音を響かせている。

 正面の本殿は白い木材で建てられていて、境内けいだいの緑の中にその存在を淡く示していた。

 境内は本殿をはじめ、社務所も敷石も軒並み白っぽく、朝の日差しをまばゆく反射している。

 ……僕の生家は黒一色の漆塗うるしぬりだったそうだから、こことはまるで正反対なのに。白い本殿を眺めていると、どこかノスタルジックな気持ちが芽生えてきた。

 

 この若宮神社は、僕が物心ついた頃とさほど変わらない時期に建てられたものだ。

 近所の小宮にしてはなんだかとても居心地がよくて、僕はたびたび朝に寄っては、ここでお参りをしてから登校することにしている。

 星蓮せいれんは参道の手前まではついてきたものの、白い鳥居を見上げると「すごいなここ。俺は入らない方が良さそうだ」と珍しく同行を辞退した。

 

「ここで待ってるから、行ってこいよ。この中なら危ない目に遭うこともないだろう」

「ここってそんなに凄い神社なのか?」

「まあ、そこらの妖なら、鳥居の中に放り込んだ瞬間に蒸発するだろうな」


 というわけで、立派な怪異である友人からのお墨付きも得られたことだし、今朝の僕は自信を持ってお参りにきていた。

 ぱん、ぱん、と二回手を合わせて、深々と一礼する。


「今日こそ、怪異アレルギーが治りますように」

 

 そしてあわよくば、不老不死も治りますように。

 しっかりお願いしてから、さて帰ろうかと振り返ると、拝殿の階段の下から男の人がこちらを見上げていて、思わず足が止まった。

 

「精が出ますね」


 にこ、と微笑まれて、つられて僕もへらりと愛想笑いを浮かべる。十年近く通っているが、この神社で他人と会ったのは今日が初めてだった。

 

 魔除けの一種だろうか。男の目元には、朱色の隅取くまどりが施されている。

 控えめに彩られた目元は、女性だったならメイクと勘違いしただろう。

 じっと目元を凝視する僕に気付くと、男は「おや」と自分の目元に手をやった。


「これがえますか」

「あ、すみません。ついジロジロと……」

「ああ、気にしないでください。この若宮神社は名の通り、歴史の浅い宮でして。熱心な参拝者はあなたくらいのものなのです」

 

 ですからいつも感謝しているのですよと男は続けて、はたと何かに気付いたように、今度は男がこちらをじっと見つめてきた。

 自分もさっきやってしまったばかりなので、数秒は見つめられるがままじっとしていたが、だんだん沈黙が苦しくなってきて、男に声を掛ける。


「あの、穴が開きそうなんですが……」

「これは失礼。知人の若い頃にそっくりだったもので。——私は若宮わかみやかさね。この神社の宮司ぐうじを務めています」


 人好ひとずきのする微笑みを浮かべて自己紹介する男に、「きれいな名前ですね」と答える。随分と女性的な響きのする名前だ。風に音と書いて風音かさねさんだろうか。

 

「襲う、と書いて『かさね』と読みます」


 思ったより物騒な名前だった。

 笑顔で語られて、僕も愛想笑いのまま固まる。「へえ、かっこいい名前ですね」となんとか感想をひねり出した。

 今度は僕の紹介を促すように視線を向けられるが、黙っている僕にしびれを切らしたのか、「失礼ですが、お名前は?」と男がストレートに尋ねる。

 

「名乗るほどのものでは……」


 神社と同じ姓を名乗る男に、僕は言い淀んで口を閉ざした。

 ほいほい怪異に絡まれる僕は信用がないようで、『知らない人に簡単に名前や住所を教えてはいけない』と、星蓮せいれん向日葵ひまわりさんに口が酸っぱくなるほど教え込まれている。

 神社で出会った初対面の男に名前を教えたなんて知られたら、あとで怒られてしまうだろう。

 僕のなけなしの防犯意識に、男は「そうですか」と特に気にした様子もなく頷いて、右手の社務所しゃむしょを指し示した。

 

「日頃のお礼に、御神籤おみくじでも引いていきませんか。サービスしますよ」

 

 占いに興味があるわけではないが、くれるというなら貰っておいても損はない。

「ありがとうございます」と言って御籤箱みくじばこを振ろうと手に取ると、「振る必要はありません」と制止の声がかかった。

 

「え?」

「今日の君は七十二番ですから」


 引いていいと言われたそばから止められるとは思わなくて、御籤箱みくじばこから棒が転がり落ちる。

 その棒の先には「七十二」と刻まれていた。


「……この箱って七十二番しか入ってないんですか?」

「はは、だとしたら数人連れのお客様にはぐにバレてしまうでしょうね。全員が七十二番を引くわけですから」


 宮司ぐうじはからからと乾いた笑い声を上げて、「疑わしければもう一度引いてみても構いませんよ」と箱を指す。

 

「……つぎは何番が出るんですか?」

「おや、意地悪ですね。また当ててしまったら、君は今度こそ御籤みくじを信用してくれなくなりそうだ。参拝者は少ないですが、ここの御籤みくじはそこそこ評判なんですよ」

「一応、言うだけ言ってみてもらえませんか」

「そうですねえ」

 

 男は柘榴石ざくろいしのように爛々と輝く瞳で僕を見る。

 からだの中にあるものを射抜くような鋭い視線に、背筋をぞわりとしたものが駆け下りた。

 

「今日の君は、七という数字に縁があるようだ」


 男の言葉を聞いてから、再度御籤箱みくじばこを振る。

 出てきた棒は、七番だった。


「……あなたが凄腕の詐欺師か、凄腕の宮司さんのどちらかであることはわかりました」

「五分五分で信用していただけたようでなによりです」

「これ、どちらの御神籤おみくじを引くべきでしょうか?」

 

 七十二番と七番の御籤棒みくじぼうを宮司に渡すと、男はそれらを見下ろして「両方を」と答えた。

 

「どちらも君に縁があったのでしょう。うちの御籤みくじは一問一答式ですから、両方引いても問題ありませんよ。ですが、そうですね……。君は七十二番ですから、七番の方は、君がこのあと最初に出会った人にでも渡すと良いでしょう」

 

 それでは、良い一日を。

 男はそう言って、結果を見ることなく立ち去っていく。

 

 あとに残された僕は言われるがまま、七十二番と七番のくじが入った箱を開いた。

 

「七十二番:凶。西に困難きたり。隣人を頼られよ。打開の道がひらかれよう」

 

 印刷されたような精巧な文字は、しかしよく見ると墨の反射具合で手書きの筆文字だと分かった。これを書いた人はすさまじく神経質か、写経の達人に違いない。

 というか、もしかして一番から百番まで、すべて手書きなのだろうか。だとしたらとんでもない労力だ。

 

 もう一枚には何が書いてあるのだろう、と好奇心に負けて七番の御籤みくじも開く。だが、なぜかそちらには運勢ではなく、七十二番より幾らか人間味のある筆文字で、「人議に来られたし。日時は尋ねられよ」とだけ書かれていた。

 まるで、手紙のような文面だ。


「うーん……?」


 書かれている内容が読み解けず、首を傾げる。

 僕がこのあと最初に会うのは、鳥居の外で待つ星蓮せいれんだろう。彼にこれを渡せばいいのだろうか。

 とりあえず元の通りに御籤みくじを折りたたんでポケットにしまうと、僕は参道へと戻った。

 若宮神社の入口は三十段ほどある石造りの階段になっていて、参拝客の少なさはこれも一つの要因なのではないかと思う。少なくとも、お年寄りには厳しい道のりだろう。

 階段をくだりきって、通学路に合流したところで、僕は走ってきた人に思い切りぶつかった。


「いたた……」

「ああ、大丈夫ですか。すみません、私の不注意です」


 星蓮せいれんじゃない声がして、慌てて顔を開ける。

 こちらを覗き込んでいた顔とバッチリ目があって、僕らはお互いに息を呑んだ。

 

 ——僕みたいだ。

 思わず声に出そうになるほど、そっくりの顔がこちらを見下ろしていた。

 僕と同じ蜂蜜色ハニーブロンドの髪に、よく似た顔つき。背は高く、僕よりはかなり大人びた輪郭で、伸ばされた髪は後ろで一つに括られている。

 僕がもし女の人で、大人になったらきっとこんな感じなんだろうな、としか形容できない容姿をしていた。

 しかし、先程の声は……。

 

「怪我はないでしょうか。生徒さんにぶつかるなんて……。申し訳ありません。どこか痛むところはないですか」

「えっと、大丈夫です」

 

 再度掛けられた声に確信する。やはり男の人の声だ。

 先程の若宮さんは、口調や物腰こそ柔らかいものの、男性であることを疑う余地はなかったが、この人はそれ以上にどこか女性らしい所作が垣間見えた。

 声さえ聞かなければ、女性だと思い込んでいただろう。

 それに、僕を『生徒さん』と呼んだ。

 訝しげな僕の視線に気づいてか、男は僕の手を取って立ち上がらせると、流れるように名を名乗った。

 

「選択授業は今日からだから、一足早い『はじめまして』ですね。——私は、雛遊ひなあそびはじめです。現国と古典の担当ですよ、小手鞠こでまりくん」 




 ✤




 古典の授業は、七限目だった。

 放課後まであと一限となったクラスは、もうじき始まる初めての選択授業に浮き足立っている。

 そんなテンションの教室だが、名簿に名前を書き加えたからだろうか。クラスでも半ば空気だった僕が、とたんに世界に認められたように名前を呼ばれるようになっていた。


小手鞠こでまりくんって、ちょっと雛遊ひなあそび先生に似てるよね」

「あ、だよねだよね! 私も思ってた」


 女子のそんなささやかな一言を皮切りに、僕の席のまわりできゃあきゃあと人だかりが出来る。

 ……これがモテ期か。

 正直、「ひとりぼっちでかわいそう」と声をかけられることは多々あっても、こんな風に「僕」という存在を認知されて話し掛けられるのは初めてで、ちょっとドギマギした。

 星蓮せいれんは「大変そうだなー」と頬杖をついてこちらを見ている。助けてくれる様子はない。


「その辺りにしとけよ。急に話し掛けられて小手鞠こでまりが困ってるだろ」


 そう言って人だかりを散開させてくれたのは、出席番号七番、影踏かげふみとかげだった。

 彼は特別親しいわけではないが、六人一列で机を並べられる僕らの教室では、出席番号七番の影踏かげふみとかげと十三番の僕は必然、最前列の隣同士になる。

 机が隣という以上の交流はないけれど、辞書や教科書の貸し借りをしてくれる程度には仲良しである。

 ……それを仲良しと言えてしまうくらい、僕は星蓮せいれんの他に交流がないわけだけれども。


『今日のあなたは、七という数字に縁があるようだ』


 あの宮司に言われた言葉が、ふと脳裏に蘇る。

 数学では七問目を当てられ、体育では僕が七点目の得点を入れた。

 やはりあの男は詐欺師ではなく、凄腕の宮司ぐうじだったのだろう。そこまで考えて、そういえばあの七番の御籤みくじは、最初に会った人に渡すよう言われていたことを思い出す。

 即ち、雛遊ひなあそび先生に。


 雛遊ひなあそび はじめは就任して二年目になる、若い男性教師だ。

 担当科目は現国と古典。

 年若い上に、甘いマスクと柔和な態度で、特に女子からの人気は非常に高い。メイン担当である古典は、選択クラスでありながら、人気のあまり人数制限が設けられるほどだ。

 ちなみに僕は「採点が甘いらしい」という噂の方に惹かれて古典を選択している。


「はじめまして、雛遊ひなあそびです。必修科目の受け持ちはありませんが、選択クラスで追加の現代国語、及び古典文学を選んでいただいた皆さんと一緒に、言葉の持つ意味の深さや楽しさを学んでいければと思います」


 若さと顔が取り柄の教師だと思っていたが、意外にも雛遊ひなあそびの授業は面白かった。

 著者や登場人物たちの心情を深く掘り下げて、一読するだけでは判らなかった情報を丁寧に教えてくれる。

 彼が語った平家物語は、教科書に載せられた文字の羅列ではなく、あまりの物悲しさに胸をむしられるような、斜陽の物語だった。




 ✤




「ねえねえ聞いた? 旧校舎の《這い寄る骸骨がいこつ》」

うらつらみで死にきれず」

「夜中にガシャガシャ音がして」

「骸骨が這い寄ってくるんだって」

「もし捕まってしまったら」

「骸骨に魂を奪われて」

「あなたも這い寄る仲間入り」


「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」



 迎えた放課後。

 聞こえてくる新しい噂話に、僕が口を開くより早く「ダメだからな」と星蓮せいれんが釘を刺す。


「まだ何も言ってない」

「旧校舎に行くって言い出すだろ。ダメ。骸骨なんて見たって面白くないし」

「だけど君は行くんだろう?」


 う、と星蓮せいれんが詰まる。

 彼が僕のために、とにかく多くの怪異を食べたがっていることを、僕は昨日の一件で知ってしまった。

 

「腹の足しになればいいけどな。骨なんて飲み込んでも喉につっかえそうだ」

「骸骨を食べても大きくなれるのか?」

「人間みたいに血肉を栄養にしてるわけじゃないからな。もちろん、意味で栄養価の高い怪異もいるけど」

 

 馬とか、牛とか、もっと肉っぽいやつが。

 そう答える彼に、「栄養価の高さなら、鯨である彼もなかなか負けていなさそうだな」と思いながら目線をやると、「お? 食べたいのか?」と何故か嬉しそうに立ち上がった。

 ……いくら栄養価が高くても、僕は友達を食糧としては見られそうにない。


「……とにかく、旧校舎には僕もついていくから、」

「いけませんね。旧校舎は老朽化していて危ないですから、敷地内は立入禁止ですよ」


 背後から声を掛けられて、僕はそのままの姿勢で固まる。

 授業を終えて出て行ったはずの雛遊ひなあそびが、柔らかな微笑みを携えて佇んでいた。

 相変わらずそっくりな顔と視線が合った僕は「あ」と思い出して、ポケットに入れたまま渡しそびれていた、七番のくじを差し出す。


「これは?」

「えっと、深い意味はないので受け取ってもらえませんか」


 怪しがられるかと思いきや、雛遊ひなあそびはとても嬉しそうに顔をほころばせると、そのくじをまるで宝物でも手にするかのように両手で受け取った。


「ありがとうございます。君からいただけるものは、何でも嬉しいです!」


 心の底から嬉しそうに、雛遊ひなあそびがはにかんでみせる。

 なんだか星蓮せいれんの喜びように似てるな、と思ったが、受け取ってもらえてなによりだ。

 雛遊ひなあそびは満面の笑みで七番のくじを開いて、それから、……あからさまに固まった。

 ぴしり、と笑顔にヒビが入る音がこちらまで聞こえてくるようだ。


「……小手鞠こでまり君、これは」

「若宮神社のお御籤みくじです。宮司ぐうじさんが、最初に会った人に渡すと良いって。僕にはよく意味がわからなかったんですが」

「なるほど……。読んだんですね、これを……」


 雛遊ひなあそびはしばらく額を揉んでいたが、ぱっと笑顔を貼り付け直すと、「それで、旧校舎でしたっけ」と何事もなかったように話を戻した。


「用があるのなら同行しますよ。生徒だけでは危ないので許可できませんが」

「えっ……と、そんな、先生についてきてもらうほどの用じゃないんです。おばけの噂を確かめたくて」

「構いませんよ。好奇心は知識向上に役立つ重要な資産です。門限までなら特別に許可しましょう」


 気が変わったのだろうか。突然舞い降りた許可に「まあいいか」と僕は頷く。

 星蓮せいれんの言う通り、僕は骸骨にはあんまり興味がない。

 どうせ先生にも見えないし、星蓮せいれんの『お食事中』だけ僕が先生の気を引いていればいいだろう。

 そう考えれば、人目を気にしてこそこそ旧校舎に行くよりも、先生の引率付きで堂々としていられる方が精神衛生上もいい。

 僕らはこうして、陽の落ちた旧校舎に連れ立つことになった。



 

 ✤



 

 夜の旧校舎は、薄明かりの月光に包まれ、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。

 一切の遊具が撤去された校庭は物寂しく、旧校舎を挟んで反対側に位置する昨日の庭園とは雲泥の差だ。

 かすかに霧の立ち込める校庭を、懐中電灯を持った僕と星蓮が慎重に見て回る。そのうしろを雛遊ひなあそびが何も言わずについて歩いた。


「そういえば、今回の『噂』だと、旧校舎のどこにいけばいいのかわからないな」


 前回は「中庭の池」とわかりやすい指定だったが、今回はヒントがないので虱潰しらみつぶしだ。星蓮がぼんやりとこぼしながら、顔無し女の時と同じように裏口の扉に手を掛ける。

 と、「どこに行くんです?」と雛遊ひなあそびが不思議そうに呼び止めた。

 

「建物の中にはいませんよ。餓者髑髏がしゃどくろは大きいですからね」

「がしゃどくろ?」


 尋ね返す僕に、雛遊ひなあそびは微かにたじろいで、「……小手鞠こでまり君、怪異についての知識やご経験は?」と謎の確認を挟んできた。

 そんな、アルバイトの面接みたいなことを急に聞かれても、追い回されたご経験しかない。知識に至っては皆無と言ってもいいほどだ。

 嘘をついても仕方ないので、「さっぱりです」と一言に集約する。


「でも君、えますよね?」

「えっと……」


 突然怪異の話に言及されて、肯定すべきか否定すべきかわからず口ごもる。そんな僕を庇うように、星蓮が一歩前にでた。


「おい、カルタが困ってる」

「ああすみません。困らせるつもりは……。はあ、参ったな。じゃあ本当に、ただの見学のつもりだったのですか?」


 一瞬口調が崩れた気がしたが、すぐに立て直すと、雛遊ひなあそびは僕に向かって尋ねる。

 困らせるつもりどころか困っているのは雛遊ひなあそびの方らしく、整った眉尻が八の字に歪んでいた。


「あの七番くじは特殊な墨が使われていて、普通の人には白紙に見えたはずなんです。文字が読める君には、怪異もえるはずなんですが」


 縋るようにこちらを見られて、僕は悩んだ末に小さく頷く。

 どうやら先生もえるようだし、僕より知識もありそうだ。なにより、そこまでわかっている人にならば、隠す必要もないだろう。


えると知ってて同行したんですよね?」

「私はてっきり……、君が、絵を描きたいのかと思って……」


 雛遊ひなあそびが俯く。段々と尻すぼみになって、最後の方はよく聞き取れなかった。

 何か声をかけようとしたところで、遠くの方から何かが這いずるような物音が聞こえてくる。

 身構える僕とは対照的に、雛遊ひなあそび項垂うなだれたまま、ごそごそと力無く紙に文字を書いていた。


餓者髑髏がしゃどくろは弔われなかった霊たちの集まりです。死霊自体は怪異ではありませんが、それらを寄せ集め、一体の巨大な白骨として作り上げられる現象そのものを、私たちは怪異と見なし『餓者髑髏がしゃどくろ』と呼びます」


 雛遊ひなあそびの説明を皮切りに、しん、と辺りが静まり返る。

 先程まで遠くで聞こえていた新校舎からの談笑は、いつの間にか隔絶されてしまっていた。

 白い霧が足元を覆い、木々や旧校舎の輪郭もぼんやりとしか映さない。風は冷たく、肌を刺すような寒気が漂っている。

 撤去されたはずのブランコが、ひとりでに揺らめき、錆びた鎖が不気味な金切り声を上げた。


 不吉な気配が、少しずつ近付いてくるのを感じる。共鳴するように、左腕がじくじくと熱を持ち始めていた。

 薄暗い霧の中で、青白い人魂ひとだまを複数連れ歩きながら、巨大な影が徐々に形を成していく。

 霧の向こうから「ガシャン、ガシャン」と骨を打ち鳴らして這いずり寄ってきたものが、月明かりにうっそりと照らし出された。


 昨日のナマズと同じような大きさをした頭蓋骨。そこから伸びる脊椎と、特徴的な肋骨。

 骨の結合部には腐敗した肉がこびり付き、ぽっかりと空いた眼窩には、黒く深い闇が覗いている。

 地獄から這い出してきたかのように、上半身だけを地面に横たわらせたその白骨は、胸元に僕らの姿を認めると、薙ぎ払うようにこちらに腕を伸ばしてきた。


「うわ……っ」


 すかさず、星蓮せいれんが僕の襟首を引っ掴んで後退する。その場に放置された雛遊ひなあそびは、視線で僕の安全を確認すると、餓者髑髏がしゃどくろを向いた。

 

「あれくらい俺なら一口だけど、食べたらおまえ、怒るよな?」


 顔色をうかがうように星蓮せいれんがこちらを見る。

 餓者髑髏がしゃどくろそのものは怪異だが、要は死霊の寄せ集めだ。

 中には僕の知っている人がいるかもしれないし、誰かの大切な人が混じっているかもしれない。


 ——そう。例えば、美術室で絵を描いていた彼女とかが。

 

餓者髑髏がしゃどくろは、生者を握り潰して喰らいます。喰らわれた者もまた、未練を残せば餓者髑髏がしゃどくろを構成する一部となる。噂はあながち嘘ではありませんね」


 雛遊ひなあそびは説明しながら、再び振り上げられた餓者髑髏がしゃどくろの腕に飛び乗ると、持っていた紙をぺたりと貼り付けた。

 先程手元で書いていたらしき矩形くけいの紙には、達筆な文字で「勅令 直立不動」と書かれている。

 七十二番の御籤みくじの字と似ているな、なんて思う間もなく、コントロールを失い、力の抜けた両腕の骨が頭上からバラバラと降ってきた。


「っぎゃ——————!」

「全く、危ないなぁ。もうこれは喰っていいよな?」


 月明かりの下で、星蓮せいれんの足元にあった影がぐにゃぐにゃと伸びる。

 辺り一帯を暗闇にするほどの大きな影は、どこまでも広い口を開くと、降り注ぐ両腕の骨の影をぱっくりと呑み込んだ。

 頭上に自由落下していた骨は霧の中に溶けるように消え去って、両腕を失った餓者髑髏がしゃどくろはぎろりと真っ暗な眼窩がんかを星蓮に向けた。

 

「先生、あれって成仏させたりできるんですか?」

「難しいことを言いますね……。あれの核だけを射抜けるような人ならそれも可能でしょうが、私には厳しいでしょう」

「なんだ、のくせに役立たずだな」

 

 星蓮の謗言ぼうげんに「耳が痛いですね」と雛遊ひなあそびが苦笑する。

 かくいう星蓮せいれんも広範囲を丸呑みしてしまう性質上、怪異と死霊をり分けるのは難しいだろう。小骨の多い魚を食べるようなものだ。


「君は……、怪異を祓ったりはしないんですか?」


 思い掛けず話を振られて、「え、僕ですか?」と間抜けにも自分を指してしまった。

 やたら怪異に詳しい大人と、元大型怪異に挟まれてはいるが、僕はただのアレルギー持ちの一般人だ。一緒にしないで欲しい。

 ぶんぶんと首を振って無理を示すと、雛遊ひなあそびは僕が戦力外であることを理解したようだ。ふむ、と顎に手を当てて、辺りを見渡していた。

 

「これらはごく最近集まったにしては大きすぎます。何か元凶となったものがあるでしょう。彼らをまとめて祀っていたもの……、ほこらとか地蔵のたぐいですね。それを直せば、恐らくは」

「じゃ、こいつはおまえに任せるぞ。俺はカルタと祠探ししてくるから」

「えっ、そんな勝手に……」


 星蓮せいれんが僕の手を掴んで、有無を言わさず引きずっていく。大丈夫だろうかと雛遊ひなあそびを振り返ると、行っておいでの合図だろうか。笑顔で片手を挙げていた。


「骸骨の両腕もなくなったし、放っておいても平気だろう。腐っても『』だ。あいつも多分、俺たちがいない方がいくらか自由に動けるだろうさ」


 星蓮せいれんの言葉に、向日葵ひまわりさんによって語られた、美術室の彼女の思い出が蘇る。

 

 ——筆を扱う、雛遊ひなあそび

 怪異を封じ、従え、意のままに操る人形使い。


「あんなの、俺どころかあいつにだって大した事ない相手だから、そんなに心配する必要はない。あれを祓いも封じもせず、死霊だけ成仏させたいだなんて無茶振りするから、ちょっと時間がかかってるだけで」

「僕、もしかしてワガママなお願いしてる?」

「まあ、それなりに……」


 星蓮せいれんの視線が泳ぐ。

 僕をかなり贔屓目ひいきめに見てくれる彼でこの反応なのだから、恐らく僕は相当な無茶を言っているのだろう。


「しかしほこらか地蔵って言ってもなあ。屋外なんて探してたらキリがないぞ」

「西に……。西校舎の裏に行こう。きっとそこに何かあるはずだ」

 

 七十二番:凶。西に困難きたり——。

 ポケットの御籤みくじを握り締めて、星蓮せいれんに頼む。彼は一度だけ僕の顔を見ると、疑問をひとつも口にすることなく、言われた通り西へと進んでくれた。



「ああ、本当だ。なんだか禍々まがまがしいのがあるな」


 星蓮せいれんに言われて暗闇に目を凝らすと、西の端で確かに、砕けた石の破片が散らばっていた。元は大きな石碑だったのだろう。破片には慰霊の文字が刻まれている。

 そういえば、旧校舎を改築しようと最近工事が始まったらしい。どうやら工事の際に、封印の石碑が壊されてしまったようだ。


「これって、直せるものなのか?」

「あー、役割分担を間違えたな。こういうのは俺よりあいつの方が得意だろう……」


 言い掛ける星蓮せいれんの肩から、なにかモフモフした白いものが飛び降りる。

 きょろきょろと辺りを見渡しているそれらは、青い目をした三匹の兎だった。人魂を背負っているので、彼らも怪異なのだろう。

 雛遊ひなあそびの命令で動いているのだろうか。

 兎たちは散らばっていた石をせっせか積み上げ始め、不恰好ながら石碑が元の姿を取り戻していく。


「うわ、かわいい……」

「おまえ、こういうのも好きなのか……?」


 星蓮せいれんは信じられないものを見る目で僕を見つめて、「鯨だって可愛いだろ?」とこぼす。

 人類はモフモフの魅力には抗えないんだよ、と前置きしてから「でも僕は鯨派かな」と付け足すと、星蓮せいれんは機嫌を直したようで、兎たちが運べなかったらしい一番大きな石碑を片手で掴んで一番上に置いた。


「さて、俺たちの役目は終わったな」


 あっちはどうかなーと星蓮せいれんが振り返る。いつの間にか頭蓋骨は地面にして沈黙しており、雛遊ひなあそびがその上に腰掛けて夜空を眺めているのが見えた。「うわぁ」と星蓮せいれんが睥睨する傍らで、組み上がった石碑の中央に、兎の一匹が札を貼った。

 石碑は微かに鳴動すると、ひび割れた部分が埋め立てられるように整っていく。

 

「ほら、見なさい。君たちの死はきちんといたまれて、丁重に弔われていますよ。もう暴れ回る必要はないでしょう」


 僕達が石碑をもとに戻したことを確認すると、雛遊ひなあそび餓者髑髏がしゃどくろから降りて語り掛ける。

 骨を構成していた無数の霊は、指し示された先に自分たちの慰霊碑を確認すると、組み紐が解けるようにまばらに輝きながら散っていった。

 

 解放された霊たちが煌めきながら空へと還っていく中に、見知った顔がないか、求める顔がないかと僕は懸命に目を凝らす。

 しかし結局、何も見つけられないまま、餓者髑髏がしゃどくろの怪異は消え去っていた。


「君は……、絵を描かないんですね」


 花火のような煌めきに照らされながら、どこか寂しそうに雛遊ひなあそびが呟く。その物憂げな横顔は夜空に儚く溶け込んでいきそうで、僕は雛遊ひなあそびが溶けてしまわないように、そっとスーツの端を握った。



 

 ✤



 

 夜の若宮神社は、朝とは異なる表情を見せていた。

 早朝の清々しい空気は消え、静寂が境内けいだいを包んでいる。風が吹くたびに、境内の木々がざわめき、葉が擦れ合う音が静かに響いていた。

 本殿へと続く参道では、わずかな月明かりが石畳を照らし出し、石のひび割れが陰影を帯びる。参道脇に並ぶ灯籠は、長年ここを守り続けてきた存在のような貫禄を醸し出していた。

 

 静まり返った境内の空気に溶け込むように、かすかな鈴の音が聞こえる。どこからともなく響くその音は、神秘的でありながら、どこか不安を掻き立てるものがあった。影が深まるごとに、境内全体が微かに息づいているような錯覚を覚える。

 白くまばゆかった本堂はすっかり宵闇に呑まれ、中に眠るものの異様さを引き立てていた。

 夜更けにじゃりじゃりと玉石を踏む耳慣れた足音に、宮司の男は顔を上げる。


綾取あやとりさん」

若宮わかみやです」


 間髪入れずに訂正されて、雛遊ひなあそびはじめは顔をしかめた。


「お疲れ様でした。さっさと封じてしまえばよかったのに、あなたも妙なところで律儀ですね」

「見ていたんですか」


 不愉快をそのまま顔に出すと、そいつは何がおかしいのかくすくすと笑う。

 

「隣人を頼られよ。……七十二番にもそう書いてあったはずなんですけどね。どうして皆さん、無茶を通したがるのでしょう。蛇の道は蛇に、餅は餅屋に。世の中には適材適所というものがあるというのに」


 非効率ですよね、と微笑みかけるこいつは、あの餓者髑髏がしゃどくろの「核だけを射抜ける人」、そのものだった。

 こいつがいれば、有るかも判らない石碑を探すなどという非効率な手順を踏まずとも、あの死霊たちを解放できただろう。

 そう思うと腹立たしくて、ついつい被っていた猫もどこかへ逃げ去り、口調が荒くなる。


「出来ないことは出来ないと言ってくださればいいのに」

「お前がそういう奴だから、頼られないんだろう」

初志貫徹しょしかんてつしていただけるならそれもまた結構。……しかしどうせ、最後は綾取うちが後始末をする羽目になるのだから、せめて面倒なことになる前に依頼してくれればいいものを」


 昔馴染みの縁からか、普段よりいくらか砕けた言葉で不服をこぼす男に、「死んでもお前には頼らない」と返して背を向ける。


「それはよくない。死んでしまったら元も子もありませんよ」

「お前に助けて貰う必要はないと言っているんだ」

「人は一人では生きていけないのです。あなたもよくご存知でしょう」


 ギリ、と噛み締められた歯が叫ぶ。平然と正論を吐く目の前の男が憎たらしくて、羨ましくてたまらない。

 ——そういうお前は、一人で生きているじゃないか。

 

「そんなに顔をしかめてないで、空でも見上げたらどうです? ほら、今夜は月が綺麗ですよ」

「結構。本題に入る気がないのであれば、『私』はもう帰ります」

「本題とは?」


 はて、と小首を傾げるそいつの眼前に、『人議ひとはかりに来られたし。日時は尋ねられよ』と書かれた七番くじを突き付ける。


「お前が『日時を尋ねろ』って送って寄越よこしたんだろうが!」

「おや、これは失礼しました。日時は私も知らされていないので、誰かにいて欲しいという意味で書いたのですが……。まさかあなたが、私に人議ひとはかりの日時を尋ねるために、こうして足を運んでくださるとは思ってもみなかったものですから」


 サラリと返されて、顔に血が昇る。

 確かに。主要な出席者とはいえ、嫌われ者のこいつが人議ひとはかりの日時など知らされるはずもない。主催代理と俺は顔見知りなのだから、そちらに訊くと思ったのだろう。

 俺の勘違いではあったのだが、しかし口元を押さえて肩を震わせているこいつを見ると、八つ当たりも致し方ない気がしてくる。


「……の勘違いがそんなに面白いですか」

「いえ。——少し見ない間に、一人称まで変わってしまったのですね。本当に主体性のない人だ」


 くすくす。

 呆れたようなこいつの笑い声が、今朝の夢の中の嘲笑と被って、苛々とはらわたが煮え繰り返る。

 俺の怒りを知ってか知らずか、こいつは轟々と燃え盛る俺の怒りに、ひたすら油を撒いて、薪をべ続けた。


 「あなたがそんな風に縛られて生きることを、カルタさんも望んではいないでしょうに」


 一線を軽々と飛び越えられて、思わず白練しろねりの着物の胸ぐらを掴む。

 

 ——雛遊ひなあそびカルタは、優秀な人間だった。

 描いた絵の中に怪異を閉じ込める、雛遊ひなあそびの長女。

 生きていれば優秀な祓い屋になれただろうに。彼女は十八になった年に、噂話だけを遺してこの世を去った。


 いわく、「雛遊ひなあそびカルタは、人間に殺されたらしい」と——。


 

 若宮かさねは俺に首元を掴まれながらも、「髪、随分伸びましたね」と明後日の感想を向けてくる。


 「なんだ。『まるで女みたい』か?」

 

 聞き慣れた陰口に辟易へきえきしながら代弁してやると、そいつは意外にも「いいえ」と首を振った。

 

「じゃあなんだ」

「いえ、まるで——。みたいだな、と」


 思ってもみなかった言葉の衝撃に、一瞬思考が停止する。

 言われてみれば、伸ばしかけた髪も、柔らかな口調も、笑顔の奥に本心を包み隠す姿も……。言い逃れできないほど、全て目の前のこいつに似通っていた。

 俺達の間柄を知る者が見れば、まるで俺がこいつに憧れているようにも映るだろう。

 

 ——違う。ふざけるな、誰がおまえなんかに。

 言ってやりたい文句が一気に溢れすぎて言葉に詰まる俺に、若宮は「勿論、わかっていますよ」といつも通りの笑顔で歩み寄った。

 

「あなたが本当はなりたかったのかなんて、そんなことは言わずもがな……」

五月蝿うるさい。余計な世話だ」


 努めて冷静になろうと息を吐き、掴んでいた手を離す。

 しかし若宮かさねは臆することも、その口を閉ざすこともしなかった。

 

「ええ、余計な世話でしょう。しかし誰も言ってくれる人がいないようなので私が言ってさしあげます。その鬱陶しい髪をさっさと切って、自分の人生を生きなさい。——あなたが本当に、カルタさんのことを想うのならば」


 冷たい指が伸ばされて、俺は思わず目をつむる。

 その手が俺自身を害したことこそないが、俺の式神の首をねたあの夜の光景が、冷たい目で俺を見下ろし、「次」と吐き捨てた声が、未だに忘れられない。

 肩を強張らせる俺を小さく笑うと、そいつは俺の髪から葉を払った。

 

「勇気が出ないのならば、私が切ってさしあげますよ」

「触るな!」


 思わず払いのけてしまって、乾いた音が夜中の境内けいだいに響き渡る。

 見れば彼の日に焼けない手の甲が赤く染まっていて、意図せず暴力を振るってしまったことに気付いた俺も我に返る。

 しかし慌てて続けようとした謝罪は、変わらず向けられる微笑みに圧倒されて言葉にならなかった。


 若宮かさねは、笑っていた。

 払いのけられ、叩かれた手を赤く染めて、いつもと変わらず悠然と微笑んでいた。

 


 心から世界を笑い、他人を笑い、自分を笑う。

 反発されることに慣れ、拒絶されることに慣れ。

 嫌悪され、忌避され、侮蔑されることに慣れてしまっている。

 ……本当は、誰よりも賞賛されるべき立場にありながら。


 そこまで身を落としても、彼女の心を知るには、きっと全然足りないのだろう。

 俺が未だ、姉の死に囚われているように。


「次の人議ひとはかりでお披露目ひろめをするつもりなんです。よろしければあなたもいかがですか。面白いものが見られるかもしれませんよ」


 そいつの言葉に呼応するように、本堂の中でガタリと何かが動く音がした。


 ——それを外に連れ出せば、彼の立場はますます悪くなるだろう。

 けれど、彼はどうせ自分の忠告になど耳を貸さない。

 それに俺も、その扉の先で眠るものを、早く外に出してやりたいと願っているから。

 

「……考えておく」


 それだけを答えて、俺は若宮神社を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る