第二夜 陸を泳ぐ魚

 レースカーテン越しに差し込んだ、柔らかな朝日にまぶたをくすぐられて目を覚ます。窓の外は快晴で、アルミサッシの隙間からは澄んだ空気がそよそよと流れ込んでいた。

 昨日の出来事など嘘のように爽やかな目覚めだったけれど、あれが夢ではなかったということは、正面に飾られた一枚の絵が示している。

 

 見渡す限り殺風景な寮室の中。

 その白い壁の一面を、夕焼けを背景に佇む一人の少女の絵が鮮やかに彩っていた。

 彼女は僕に気付くと、額縁の中から小さく手を振った。


『顔無し女』は、絵の中に封じられてしまっていた。

 完成した絵に満足して、成仏してくれていたのなら良かったのだけれど、何事もうまくいかないものだ。

 しかし彼女は絵の中をたいそう気に入っているようで、普段は描かれた姿のまま、花開くような微笑みを浮かべて腰掛けている。

 ……たまに、彼女が寂しそうに窓の外の夕焼けを眺めているのは、ここだけの秘密にしておこう。


「よ、起きたか。今朝は煮込みハンバーグだ」

「朝から重すぎるよ……」


 起床の気配を察したようで、簡易キッチンからルームメイトが嬉しそうに声を掛けてくる。彼が嬉々としてテーブルに並べている大皿を横目に、僕はありがたさ半分、ゲンナリ半分で返した。添え野菜もなく、シンプルに挽き肉を丸めて煮込んだらしき料理の姿に、僕の起き抜けの胃はすっかり萎縮してしまっていた。


「食べないと元気が出ないだろ」

「ごめん、食べる元気も足りないみたいだ……」


 もしかすると僕は菜食主義者だったのかもしれない。

 黙々と二皿分のハンバーグを口に運ぶ彼の朝食風景を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。

 

 あんな出来事にってしまったけれど、彼は変わらず僕に接してくれている。

 彼は大事なクラスメイトであり、ルームメイトであり、……そして、初めてできた友人だった。


 今までろくすっぽ人付き合いというものに縁がなかった僕としては、時折くすぐったい気持ちにもなるけれど、彼のほどよい距離感と気遣いに、間違いなく安らぎを覚えている。

 しかし前述の通り、僕は友達付き合いというものについて、全くの無知だったのだ。

 彼はきっと「気にするなよ」と言ってくれるだろうけれど、「愛情は借り物。いただいたら返されませ」と厳しく教わってきた僕としては、彼の無償の温かさと優しさをただ享受し続けるわけにはいかなかった。


 そして、困りごとはもう一つ。


「なあ、えっと……」


 先を歩く彼を呼び止めようとして言葉が続かず、伸ばしかけた手が空を切る。

 ——僕は、彼の名前を覚えていないのだった。






 第二夜 陸を泳ぐ魚







 始業式から一ヶ月。

 真新しい気持ちも薄れ、クラスメイトたちの関心事は、すっかりゴールデンウィークの予定に取って代わられていた。

 そう、一ヶ月だ。初対面からこんなにも日が経ってしまった今、クラスメイトであり、ルームメイトでもある彼に「そういえば君の名前なんだっけ」なんて聞けやしない。

 始業式当日は、まさかこんな風にこのクラスで話し相手ができるなんて思ってもみなかったから、順繰じゅんぐり語られる個々の自己紹介なんて、右から左へと聞き流してしまっていた。

 そんなわけで、僕は彼の名前を知らないことをなんとなく誤魔化ごまかし続けながら、今日に至ってしまったのである。

 

 「なんか最近、様子が変じゃないか?」

 「え? いや、そんなことはないよ。ほら、いつも通り元気いっぱいだ!」


 挙動不審な僕を見咎みとがめてか、ついに彼からそう切り出されて、僕は慌てて机の上の辞書を引っ掴む。

 そのままダンベルのように上下させてみせると、「いや英和辞典なんて誰でも持ち上げられるだろ……」、と困ったように返されてしまった。

 

 様子を見ていれば、いずれ誰かが彼の名前を呼ぶか、学生なのだから持ち物に記名くらいされているだろうと踏んで、彼の手元を盗み見すること今日で二週間。

 何かが憑いているのではと疑うくらい、彼の名前は見事に誰にも呼ばれることはなかった。授業中に当てられる時さえ、出席番号で指される有り様だ。

 彼は僕と違って社交的で、他のクラスメイトたちとも賑々にぎにぎしく談笑しているのに、「ねえねえ」「あのさ、」と話しかけられるばかりで誰も彼の名前を呼ばない。

 彼の持ち物にしても同様で、名前が記入されているものを見つけることはできなかった。


 「そろそろ誰か名前くらい呼んでくれよー……」


 今日も今日とて、なんの成果も得られなかった僕は机にする。

 彼との会話はぎりぎり成り立ってはいるが、いつか名前を覚えてないことに気付かれるんじゃないかと思うと気が気ではない。

 もともと気配りの出来る彼のことだ。僕が名前を覚えてないと知って怒ってくれるならまだしも、変に気を遣わせてしまうのは目に見えている。



 ——こうなったら強硬手段だ。

 僕は据わった目で、「ふふふ」と悪どい笑みを浮かべた。

 既に門限破りの常習犯。いまさら僕に行儀の良さなんて、誰も求めていないだろう。


 心の中で言い訳を並べ立てつつも、小心者の僕は人の出払った職員室を何度も覗き込んでから、慎重に中へと忍び込んだ。


 さて、クラス名簿は簡単に見つかった。

 いくら彼でも教室に席があるのだから、ここにっていないということはないだろう。

 僕は担任の机上でそれを開きながら、並べられた名前を視線で追う。

 出席番号一番から綾瀬川あやせがわ一条いちじょう愛色いとしき卯ノ花うのはな榎森えのもり鬼ヶ島おにがしま影踏かげふみ風車かざぐるま桔梗ききょう桐崎きりさき久寿餅くずもち源平げんだいら

 十三番目の空白を飛ばして、十四番、——星蓮せいれん

 彼は僕の後ろの席だから、彼が「星蓮せいれん」で間違いないだろう。

 

星蓮せいれん、っていうのか」

 

 確かに彼はなんとなく、星空のような雰囲気がある。

 宵闇にたゆたう空気のように、静かにそこにいてくれるような、荘厳で、壮大で、でもよく見るとキラキラした……。


「あれ……。なんか昔も、そんなものを見たような気が……」


 僕はおぼろげな記憶の糸を手繰たぐり寄せながら、空欄だった場所に自分の名前を書き入れると、そっとクラス名簿を閉じた。




 ✤




「ねえねえ聞いた? 《嘆きの人魚》の噂話」

「なんでも夜になるたびに」

「旧校舎の中庭の池には」

「綺麗な人魚が現れるとか」

「その人魚は悲しい歌を歌いながら」

「涙を流し続けてるらしいよ」

「でもその歌声を聞いてしまえば最後」

「その人も悲しみに囚われて」

「永遠に人魚と共に泣き続けるんだって」


「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」



 旧校舎の顔なし女がいなくなったばかりだというのに、あっという間に次の噂話で盛り上がっている女の子たちを尻目に、「人の心って秋の空だよなあ」と彼——星蓮せいれんがこぼす。


「女心と秋の空、だけどな」

「男心も移り変わってるじゃないか」

「秋の空ほどの移ろいやすさではないんだと、その言葉を作った人は言いたかったんじゃないかな……」


 後半は自信がなくなって、手元の国語辞典をぱらぱらとった。そんな僕を流し目で見やりながら、彼は女子にもらったらしい棒付きキャンディに歯を立てる。

 ガリッと飴の欠ける音が聞こえてきた。

 

「移り気な薄情者め」

「え、僕?」

「どんなにいい女でも怪異はダメだって言ってたくせに、部屋にまで連れて帰ってきて」


 顔なし女の絵画のことだろうか。

 こちらを見ずにボソボソと呟く彼の頬は、心なしかふくれている。

 確かに、怪異はそばにいるとアレルギーで痒くなったり、具合が悪くなったりするし、そうでなくとも彼らは嘘をついて僕を惑わそうとしてくるから、これまでは積極的に関わりたくはなかったのだが。

 封印された怪異にはどうやらアレルギーも起きないようで、絵画を前にしても僕の体調に変化はない。

 単純にあの絵は鑑賞用としても遜色そんしょくのない出来栄えだったし、なんとなく彼女をあの美術室に置き去りにするのははばかられて、わがままを言って彼に運んでもらったのだ。


「ごめん、もしかして嫌だった?」


 そのことに今の今まで全く思い至らなかった自分にびっくりして、彼に問う。確かに、怪異の入った動く絵なんて、普通は気味が悪いものだろう。運び入れる前に、同室である彼には許諾を得るべきだった。

 しゅんとうなだれる僕に、「そういうわけじゃないけど」と彼は言い淀みながらも、慌てて慰めの言葉をかけてくれる。

 

「本当に嫌だったら運んでないさ。だけど、やっとおまえが寮室に帰ってきてくれるようになったと思ったら、今度はあの女と喋ってばかりだろ? もう少し俺ともコミュニケーションをだな……」

向日葵ひまわりさんとは、別にそんなんじゃ」

「名前までつけてるのかよ!」


 彼が頭を抱えるが、「だからそんなのじゃないって言ってるだろ」と僕も憤慨する。決して僕が名付けたわけではなく、向日葵ひまわりさんは正真正銘、向日葵ひまわりの怪異だっただけだ。

 

 校舎の下敷きになり、咲けなくなってしまった大輪の花。

 彼女が元々鳥や兎だったのなら、僕らを追いかける彼女の足はもっと速かっただろう。

 やけに長い首と細長いシルエット。よたよたと、不慣れな足をぎこちなく動かして追いかけてきた彼女。

 なんということはない。赤、緑、青……。様々な色を混ぜて黒く塗りつぶされていたように見えた彼女の顔は、彼女本来の顔をしっかりていた雛遊ひなあそびさんの、正しい下書きだったのだ。


 あの黒一色の中に、雛遊ひなあそびさんはきっとたくさんの表情を見ていたのだろう。僕は、彼女がいずれ描こうとしていた線をなぞっただけだ。 

 それでも彼は腑に落ちない様子で「はあ、俺も絵画になればよかった」なんてぼやいてみせる。

 ルームメイトとのコミュニケーション不足については三人で会話すれば解決するのだろうが、僕らの間で交わされる議論は、もっぱら彼の名前をどうやって窺い知るかというもので、彼に聞かせられるはずもない。


 ちなみに、職員室に忍び込んで名簿を確認するよう助言したのは、言わずもがな向日葵ひまわりさんである。

 

「なあ、人魚も綺麗だったら連れて帰るのか?」


 先程の新たな噂話を指してか、彼がこちらを振り返る。しかし、まるで僕が好みの女性を片端から部屋に引き込んでいるような言われ方をするのは心外だ。

 

「そもそも無理があるだろ。向日葵ひまわりさんは絵画だから部屋に飾ることもできたけど、部屋で人魚を飼うスペースなんてないよ」


 僕の言葉に、彼は押し黙る。

 寮は二人一室で既に定員。これ以上誰かに割くスペースはない。

 人魚ともなれば大きな水槽を用意してやらないといけないだろうし、絵画一枚を持ち帰るのとはわけが違う。物理的に不可能だろう。

 

「そういうの抜きにしてさ。人魚を連れて帰っても、問題なく部屋でのびのび育成できるとしたら? おまえは、連れて帰りたいと思うのか?」

「やけに食い下がるなあ……」


 まあ確かに、人魚は怪異というよりも伝説上の生物という印象に近い。それに僕はもともと、きれいな魚を鑑賞するのが好きだ。錦鯉とか、熱帯魚とか。

 いい女だからどうとかいう価値観はさておいて、人魚を連れ帰って飼育できるというのなら……。


「興味はあるかも……」

「……おれらの部屋、そのうち怪異博物館になりそうだな」

 

 彼は複雑そうな顔でしばらく腕を組んでいたが、やがて少し柔らかくなった声音でそう答える。

 もう、飴を噛み砕く音は聞こえてこなかった。




 ✤




「……で、僕達はなんでまた旧校舎にいるんだ?」

「だって、おまえも人魚が気になるだろ?」


 声を潜めて隣の彼に語り掛ける。僕も気になっているのは確かだけれど、君も意外とミーハーだねと視線をやれば、「人魚の肉って、食べると不老不死になれるらしいぞ」なんて返してくる。

 冗談かと思って聞き流したが、彼のベルトに見覚えのある短剣の柄が差し込まれていて、「あれ? 冗談だよな……?」と僕は青くなった。

   

 現在時刻は十八時。門限まではまだ余裕があるが、初夏が近付くにつれて日没も遅くなっており、西の空には夕陽が尾を引いている。

 橙色から夜へと移り行くグラデーションは見ものだったが、夕焼け空なら自室の絵画の方が綺麗だな、なんてちょっと得意げな気持ちになった。


「嘆きの人魚、もういるかな」

「まだちょっと早そうだけど……」


 夜に現れ、さめざめと泣く人魚の姿は想像できても、まだ太陽も落ちきっていないこんな明るさの中で人魚が泣いていたら、ちょっと興醒めだ。

 もう少し待つか、と言いかけたところで、中庭の池から大きく水が跳ねる音が聞こえてきた。


「なんだ、もうおでましか?」

「サービス精神旺盛な人魚だな」


 口々に勝手なことを言いつつも、僕はちょっとわくわくしながら生け垣の隙間から中庭を覗く。

 旧校舎と新校舎の間に造られた中庭は広く、日本庭園らしいおごそかなつくりをしていた。

 日暮れとともに石灯籠いしどうろうに仄かな光が灯り、池の水面はかすかに残った夕日の光を受けて金色に輝いている。小石を投じたかのような小さな波紋が水面に浮かんでは、優雅にその輪を広げていった。

 池の縁には苔むした石が並び、この中庭が作られてから経過したであろう、ゆったりとした時の流れをしらせている。

 どちらかといえば、人魚よりもかぐや姫の方が出てきそうな雰囲気の庭園だった。

 

「嘆くほど悪い池じゃなさそうだけどな。強いて言えば、ちょっと狭いくらいか」

「いや、十分広いだろ……」


 見渡す限りの庭園だというのに、これでもまだ不足しているのだろうか。だとしたら、やはりとてもじゃないが二人一室のしがない1DKでは人魚は飼えそうにない。

 嘆かれても困るし、諦めて帰ろうか……。

 そう思った瞬間、先程聞いたものよりずっと近い場所で、ざぱりと水が大きく噴き上がった。


「えっ……」


 水面から顔を出したのは、一見して巨大なナマズのようだった。

 黒灰色の体表が、動きに合わせてぬめぬめと粘ついた光りを放つ。口は異様に広く裂け、鋭い牙が棘のようにびっしりと並んでいる。八方に伸びる長いひげを揺らして開かれたその隙間からは、鼻がもげるほどのひどい悪臭がした。

 背中には無数の黒いヒレが並び、そのヒレが水を掻くたびに、庭園全体に大きな水音が響き渡る。尾鰭おびれもまた、不気味に揺らめきながら池の水をかき混ぜていた。

 

 突然、体中を襲った痛みと凄まじい息苦しさに、僕はその場で膝をつく。

 アレルギー反応だ。

 最近はどこにいてもうっすら痒みがあるから、かえって慣れてきてしまっていたけれど、久し振りに巨躰の怪異に出会ったせいか、うまく呼吸ができない。

 星蓮せいれんはうずくまる僕と怪異の間に立ちはだかると、顔無し女の時と同じ短剣を取り出した。


「醜悪だな。肉を喰う気にもならない」


 彼も美しい人魚の姿を期待していたのだろうか。星蓮せいれんは珍しく顔をしかめて吐き捨てる。

 この巨大ナマズが人や怪異を喰っていることは、異臭のする口元と、その中にぎっしりと並んだ牙を見るだけでも明白だった。

 ぐわっと見せつけるように口を開けると、巨大ナマズが僕らの眼前に迫ってくる。地面が揺れるほどの巨躯をうねらせて、掻き分けられた水がざばざばと悲鳴を上げた。

 平べったい頭の両側についた目玉は、ギョロギョロと四方に動きまわりながらも、目の前の星蓮せいれんだけを映していた。

 

星蓮せいれん!」


 息苦しさを押さえつけて、名簿で見た彼の名前を叫ぶ。初めて名を呼ばれた星蓮せいれんは驚いたようにこちらを振り返って、その刹那に飛び出した僕が、彼とナマズの間に体を滑り込ませた。


 ——ぐちゃり、と嫌な音がした。


 突き飛ばされた星蓮せいれんが、尻餅をついて僕を見上げる。

 その視線がもう一度僕を捉えて、綺麗な瞳孔どうこうが波立つように揺れた。

 見下ろすまでもなく、感覚と彼の反応で理解する。


 ……喰われた。

 僕の右肩から胸下までは大きく抉れ、そこだけぽっかりとくり抜かれたように、半円形に無くなっていた。


 巨大ナマズは喰い千切った僕の肩に残虐な歯型を残していて、むごい見た目そのままに、気が狂いそうな痛みと衝撃を僕に与えた。そればかりか、傷口に残されたナマズの粘液による怪異アレルギーの熱と苦しさで朦朧としてくる。

「ああ、これは助からないな」、とどこか他人事のように悟った。


「おまえ……、どうして……、なんで俺なんかを……」


 目の前の出来事が信じられないようで、彼は唇をわななかせながら膝立ちで僕ににじり寄る。

 何か言うべきかと思ったけど、痛みと息苦しさで何も考えられず、開いた口からはびしゃびしゃと血が溢れた。

 右肺も大きくかじり取られて、息を吸っても酸素をうまく取り込めない。陸に打ち上げられたサカナのように、僕はぱくぱくと口を開閉させるしかなかった。


 どんどん目の前が暗くなって、足の先から死が僕を包み込んでいく。

 ゆっくりと冷たい沼に沈んでいくような感覚に恐怖したけれど、それを体現する余力はもう、残されていなかった。


「ごめん……」


 遠くで、星蓮せいれんが謝る声がする。

 気にするなよ、って言おうとした口に、何かがじ込まれる感覚がした。




 ✤




 濁っていく瞳と、段々と小刻みになっていく痙攣けいれんに、彼の命が尽きようとしているのがわかった。


 どうして。

 こんなにも弱いくせに、怪異に対抗なんかできないくせに。

 どうしておまえは、俺の前に出ようとする?

 

 ——「俺たち」の世界には、俺のことをかばおうだなんていう、頭のおかしな奴はいない。

 だって、俺は強いから。


 俺たちの世界は弱肉強食だ。

 弱ければ喰われて終わり。強いものは喰ってより大きくなる。とてもシンプルで、合理的な世界。

 図体の大きいやつは、それだけで強さの証明になる。

 かばってもらわなくたって、こんな奴に俺は負けないのに。


 おまえはいつだって、おまえを守らせてくれない。


「ごめん……」


 一言、謝る。

 今まで散々やろうとしてきたことだけど、ずっと願ってきたことだけど、それでもこんな風におまえの意思を無視して押し付ける気はなかった。

 だけど、こうなってしまったらもう、俺は黙って見ていられない。

 たとえ、おまえの友達でいられなくなってしまったとしても。


 短剣を持ち直して、その切っ先を自分に向ける。

 躊躇ためらいなく切り落とされた二の腕の肉を、溢れる血液ごと彼の口に押し込んだ。

 押し込まれる異物に抵抗するように、既に意識のない彼の身体からだが大きく跳ねる。

 二度、三度、跳ねる体を押し留めるように、彼の口を押さえ付けていると、やがて俺の血肉が流し込まれた喉が上下し、ごくりと嚥下えんげした。


「ごめん。責任は取る。何があっても絶対に、ずっとおまえのそばにいるよ」


 これから幾年、幾世紀が過ぎようとも。

 俺たちはこれで、本当に《ずっと》一緒にいられる。


 青白あおじらんでいた肌に少しずつ薔薇色が戻っていく。

 欠けた右上半身からざわざわと神経が伸び、血管をまとって、骨と肉が再生していった。


 ——人魚の肉は、食べれば不老不死になる。

 彼はもう、大丈夫だ。

 二度と年を重ねることは出来ないけれど、二度と土にかえることはできないけれど。

 それでも、今ここで死ぬことは避けられる。


「早く寮に帰ろう。また門限に間に合わなくなる前に」


 囁くようにそう告げて、片付け残したを振り返る。

 そいつは俺がであるのか理解したらしく、目が合った途端にびくりと身を縮こませた。ナマズは許しを請うように頭を低く伏してみせたが、俺たちの世界は弱肉強食。強者を怒らせれば喰われるだけだ。

 

「おまえみたいな醜悪なやつ、喰うつもりもなかったんだけどな」


 ぐわりと口を開ける。

 庭園を内包する市街地一帯に、大きな影が落ちた。




 ✤




 今にして思えば、当時の彼はまだ自我というものが確立してそう間もない頃だったのではないだろうか。

 かくいう俺も、まだ人の世のことわりというものに疎く、また自分より上位の存在についても無知であった。



 一定の大きさを超えた怪異は、腹を満たすために人間を求めて走り回ったりなどはしない。人間や小妖たちとは、時間の概念からして変わるからだ。

 恐らく同じようなサイズを持つ怪異の中では、俺は燃費が悪い方なのだろうが、とはいえ自分と近い大きさの怪異というものにも会ったことがないので分からなかった。

 永遠に近い時間を生きる俺は、悠々と夜空を泳いでは、星屑を食べて暮らしていた。

 口を開けていれば勝手に入ってくるのだから、狩りの概念も俺にはない。星屑と一緒に飲み込んだ怪異が幾つか居たかもしれないが、今更嘆いても詮無せんなきことだ。

 

 そうして夜空を揺蕩たゆたっていたる日、その幼子おさなごは俺を呼び止めた。


「お星さま、食べないで」


 小さき者に語り掛けられるのは久方振りで、俺はその幼子おさなごの言葉に耳を傾けた。

 俺にとって自分以外の大抵の者は、口を開けていれば勝手に呑み込まれてしまう矮小わいしょうな存在で、何かに怒り悲しむことも、何かを恐れる必要もない。ゆえに俺は寛容だった。


「星が喰われて、何か不都合があるのか」

「人は死んだら、お星さまになるんだって。だから、お星さま、食べないで」

「人間は死しても星屑になどならない。俺が食しているのはただの水素とヘリウムだ」

「……大きなさかながしゃべってる」

「話を聞いていたか」


 幼子おさなごは俺を見て目を輝かせ、彼にとっては終わりなき崖にも等しい俺の横腹を、あろうことかよじ登ろうとしてきた。

 しかし俺は寛容だった。

 俺でなければ、語り掛けておいて話も聞かぬ小さき者など、とうに飲み下されていたことだろう。


 俺は少しばかり自分の体を小さくして、その幼子おさなごを背に乗せてやった。

 鋭利な額の角を掴もうとするので「それに触れればおまえの五指など切り落とされるぞ」と告げると、しばし自分の両手のひらを眺めてから、慌てたようにそれらを引っ込めていた。


「大きなさかなはどこに行くの」

「どこにも行かない。俺は口を開けて揺蕩たゆたうだけだ」

「大きなさかなは何が好きなの」

「好きなものなどない。俺は口を開けて揺蕩たゆたうだけだ」


 そもそも俺は魚ではない。太古のクジラの怪異である。

 そう言うと、その幼子おさなごは「でもうろこがある」と答えて俺の背をつついた。


「お星さまばかり食べてるから、お星さまみたいにキラキラしてるんだね」


 幼子おさなごはひとり会得えとくした様子で、俺の背から剥がれ落ちた極彩色のうろこを拾って喜んでいた。

 俺は黙って、その幼子おさなごを乗せたままゆったりと星空を泳いだ。


「死人が星になるから喰うなと言っていたな。おまえの身近な者が逝去したのか」

「うーんと、……」


 幼子おさなごはいくつか指折り数えていたが、やがて全ての指を折ると、諦めたように肩を落とした。

 それは彼の周りで死した人間の数だったのかもしれないし、だったのかもしれない。

 結局彼はそれについては触れず、「僕もいつか死んじゃうから、お星さまはたべないで」と答えた。

 

 特段、星屑が好みで食べていたわけではない。

 人間の言葉など聞いてやる義理もなかったが、小さき者にわれてなお、強行する理由もなかった。

 星空ではない場所でも口を開けて揺蕩たゆたっていれば、何かしらは口に入ってくるだろう。俺が生きていくことに支障はない。

 そう言ってやると、幼子おさなごは嬉しそうに「ありがとう」とはにかんだ。



 街の上をいくらか泳いでいると、やがて彼は「大きなさかな、それ以上は行けないよ」と制止の言葉を口にする。

 しかし俺に行けない場所などない。そして、クジラは急には止まれないのだ。


「だめだよ、それ以上進んじゃいけない」

何故なぜ

「とちがみさまに怒られるから」


 幼子おさなごは確かにそう言って俺を引き留めたが、俺は止まらなかった。

 言い訳になるが、当時の俺は前述したように、人の世のことわりというものに疎く、また自分より上位の存在についても無知であった。

 怪異の世界は弱肉強食。往々にして図体の大きい者はそれだけで強い。

 夜空を泳ぎ星屑を喰らう俺は、これまで脅威というものに対面したことがなかったのだ。


 ——ゆえにそれは、俺が初めて自分より上位の存在と対峙した瞬間であった。


 その街の上空に差し掛かった時、角の先から崩れていく感覚があった。

 喰われていくというよりも、己の存在が消失していく感覚。


 土地神とちがみと呼ばれた「それ」は姿形を持たず、概念ともいうべき存在だった。

 ともすれば、当時の俺よりは小さい存在だったのかもしれないが、怪異と神の違いというものを、不運にも俺はその場で痛感することとなった。


 先も言ったが、一定を超えた大きな存在は、怪異であれ神であれ、積極的に動き回ることはしない。永年を生きる存在は、人からすれば眠っているようにも見えるほど、動く必要がないからだ。

 しかし、その瞬間の土地神は確かに目を覚まし、そして自分の縄張りに侵入する不届き者を許しはしなかった。


「とちがみさまが怒ってるんだ。おりがみの家を燃やしたから」


 折り紙の家とはなんのことだか、人と対峙することのない当時の俺にはわからなかった。

 それが、少なくとも彼の生家の一つであったということを、俺は後になって知った。


「大きなさかなはここを渡りたい?」


 崩れゆく俺に彼が問い、返事を待たずして「じゃあいいよ」と続けた。

 何が良いのか。おまえの許可など必要ないと答える俺に、その幼子おさなごは表情を変えることなくこう告げた。

 

「僕がとちがみさまに食べられたら、とちがみさまは許してくれるよ」


 その幼子おさなごはそう言って、俺の背から飛び降りた。

 頭から真っ逆さまに、土地神とやらの口の中へと落ちていった。


 俺が、この俺が、小さき者にかばわれたのだ。



 弱肉強食の世界で、俺をかばおうとするものなどいなかった。

 ともすれば、こんな風に対等に語り掛けられることすらなかった。

 俺は大きく、強かったから。


 その瞬間、俺は生まれて初めて、焦燥を、怒りを、恐怖を知った。

 動かぬ身体でもがき、暴れ、落ちゆく彼をなんとか口の中へ収めると、俺はその場から逃げ出した。

 より大きいものに出会えば喰われるだけと諦め、それまでただ口を開けて揺蕩たゆたうだけだった俺が、小さき者の命を失うことを恐れて、初めて逃げ出したのだ。


 そんな俺たちの背を追うように、土地神は告げた。


 ——檻紙おりがみそこないよ。


 ——私は満腹ゆえ、今暫く時間をやろう。


 ——十八になったら戻られよ。それまでの命と契約いたせ。


「わかった」


 口の中から、彼が答える。

 俺は彼の、年齢に似つかわしくない物分かりの良さが恐ろしかった。




 ✤




 がむしゃらに泳いで、逃げて、俺と彼は遠くの街へと降り立った。

 距離など関係なく、彼が自分の命をなげうったから見逃されただけで、そうでなければ俺はとうに喰われていたであろうことは、想像にかたくなかった。


「土地神が満腹で助かったな」

「とちがみさま、お母さんを食べたばっかりだから」


 口の中から這い出しつつそう答えた彼に、俺はもう、何も言えなかった。

 ただ、彼の前で星屑を食べるのはやめようと心に誓った。


 えにしとは、関わりを持つことで結ばれる。

 俺と対話し、俺に触れ、俺の代わりに寿命を縛られた彼は、もう怪異おれと縁を結んでしまっていた。

 俺のせいで十八までの命となってしまった彼は、しかし少しも気にした様子もなく「大きなさかな、もう行っちゃうの?」と俺を見上げる。

 無論俺は、彼を置いてそのまま逃げるようなことは出来なかった。

 

 俺と対等に語らってくれた、初めての人間。

 俺を守ろうとしてくれた、初めての人間。

 助け合い、支え合えることを「友人」だというのなら、俺は彼の友人になりたい。

 守られるばかりでなく、今度は彼を守れるように。


 ——俺たちの世界は弱肉強食。

 弱ければ喰われて終わり。強いものは喰ってより大きくなる。とてもシンプルで、合理的な世界。

 図体の大きいやつは、それだけで強さの証明になる。


 ならば彼が十八になるまでに、俺がもっと喰って、もっと強く、もっと大きくなればいい。

 あの土地神を喰ってしまえるほどに。


 もしそれが果たせなかったなら、その時は彼と一緒に喰われよう。

 彼が繋いでくれた命なら、彼のそばで使いたい。

 星空をたゆたうのをやめて、陸を泳ごう。

 彼の隣人として、等しく最期の時を迎えるために。


 優雅なひれを切り落とし、ともに陸を歩く足を。

 人を惑わす歌声を封じ、ともに語らい合える言葉を。

 六千年の記憶を手放し、この地にるに足る証明を。

 

 

 人間ひとがれ、陸に上がる者のことを、おまえたちは人魚セイレーンと呼ぶのだろう?


 「せいれん?」


 舌っ足らずで不出来な復唱に、俺は自分の輪郭を失いながらゆったりと笑った。


 ——ああ、星蓮せいれんでいいよ。

 おまえがそう呼んでくれるなら。




 ✤




 穏やかな寝息を立てている彼を、そっとベッドに横たえる。

 正面の絵画の中では、女が心配そうに彼を覗き込んでいた。


「心配ない。朝になったら起きてくるさ」


 絵画にそう告げてやれば、女は安堵したように胸を撫で下ろす。

 ……俺のみならず、彼にはどうも怪異を惹きつける性質があった。

 この調子では、この部屋が怪異博物館になるのも、そう遠い未来ではなさそうだ。


「人魚は受けた恩は忘れないが、意外と執念深いんだぞ」


 だから目移りはほどほどにな。

 眠る彼にそう笑いかけて、ふと机の上に放置されたノートが目に入る。


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 ◯月✕日。

 今日は、旧校舎で顔のない女に出会った。……——。

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 開かれたままの日記帳には、先日の出来事がつづられていた。

 怪異についての日記だろうか。

 勝手に見るのは悪いと思い、彼の上に掛布かけふを乗せると、俺はそそくさと部屋を後にした。



 そんな俺の背後で、風の悪戯いたずらがぱらぱらとページをさかのぼって、薄い日記帳の一枚目まで辿り着く。

 開かれたページには、クレヨンで書かれた、太くていびつな文字が踊っていた。


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 ◯月✕日。

 おおきなさかなが、そらをおよいでた。

 きらきらしていて、とてもきれいだった。

 ほしをたべないでというと、おおきなさかなは、もうたべないといってくれた。

 おおきなさかなは、すごくじゅみょうがながいらしい。

 

 もし、ほんとうにしなないなら、

 ぼくといっしょにいてもしなないなら、 

 いつか、おおきなさかなと、おともだちになれますように……——。

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