幻想奇譚あやかし日記

終日惰眠

怪異アレルギーと学校の怪談

第一夜 顔のない女



 この世には、人ならざる者が其処彼処そこかしこに潜んでいる。

 他人ひとに見えないそれらは、僕がえていることを知れば語り掛け、惑わせようとするだろう。

 だから僕は耳を塞ぎ、口を結び、膝を抱えてうずくまるのだ。


 ふと焼け付くような熱さを覚えて、忌々しさに辟易へきえきする。

 えるだけでも厄介なのに、そのうえ僕のこの《体質》。

 がりがりと左腕を掻きむしりながら、僕は今日も、ひとりぼっちの空き教室で息を殺す。


 僕は、怪異アレルギーなのだ。





 第一夜 顔のない女





「ねえねえ聞いた? 旧校舎の《顔無し女》」

「なんでも夜の旧校舎では」

「顔無し女が何かを探して」

「夜な夜な徘徊してるんだって」

「異様な寒気と不気味な姿に」

「もし逃げ遅れてしまったら」

「今度はあなたが顔無しに!」


「「ああ、恐ろしや恐ろしや」」



 そんな噂が僕の耳にまで届いたのは、始業式からさほど経っていない、春盛りの午後だった。

 既にクラスではいくつかのグループが出来上がっていて、見事にそのいずれにも入り損ねた僕は、ゆるやかにお一人様ライフを満喫している。

 もっとも、ここはある程度名の知れた私立校であったから、クラスメイトたちも心なしか上品でおっとりした雰囲気を漂わせており、今のところ陰湿なイジメとは縁のない毎日だ。

 彼らは露骨に僕を疎外することもなく、どころか休憩時間のたびに、入れ替わり立ち替わり誰かしらがひとりぼっちの僕に気を遣って声をかけてくれている。

 それらの好意を無下にし続けているのは僕の方で、なぜかと問われれば言わずもがな、彼らにはえていないからだ。


 窓に張り付いてこちらを覗き込んでくる無数の目玉を持った化け物や、黒板消しの上を走っていく三本の尾を持ったネズミたちが。


 今のところ、ちょっと左手が痒いくらいで害はないが、奴らがいつ襲い掛かってくるとも限らない。心優しいクラスメイトたちの前でうっかり悲鳴を上げたりすることがないように、僕は休憩時間を迎えるたびに教室から逃げ出しては、空き教室に閉じこもって膝を抱えていた。


 しかしそんな日々も長くは続かず、優しさからか心配からか、ついには僕を追って空き教室まで探しにくる奴が現れてしまった。


「ああ、またこんなところにいたのか」


 カラカラと音を立てて引き戸をスライドさせながら、包帯だらけの男が顔を覗かせる。彼はクラスメイト兼、二人一部屋が割り当てられた寮室のルームメイトでもあった。

 椅子があるのに床に座り込んで膝を抱えている僕に何を尋ねるわけでもなく、彼は同じように隣に座ると「腹減ってない?」と串焼きのようなものを差し出してきた。

 牛串のようなそれは年頃の男子高校生ならば垂涎すいぜんものだろうが、怪異アレルギーのせいか食欲がわかず「ごめん……、その、お腹が痛くて」と子供じみた言い訳をする。

 そんな俺の様子に気分を害する様子もなく、「そっか、気が変わったら言ってくれよ」と彼は屋台でよく見る透明なプラスチック容器にその串肉を戻して、僕の前に置いた。


 本当にいいやつだ。

 僕が食事にありつけていないことを悟ってか、ここ数日はこうして、昼休みのたびに僕を探しては昼食を持ってきてくれる。

 初日はステーキのような大きな塊肉だったのだが、どうやら同じような言葉で遠慮した僕を見て、食べにくかったから断られたのだと思い込んだらしい。

 昨日はスライスしたものにタレが掛けられており、今日は串焼きになっていた。


 決して安くはないだろうに、懲りずに毎日こうして美味しそうな肉料理を持ってきてくれる彼を見ていると、いい加減断るのが申し訳なくなってくる。

 ここまでくれば昼休みに空き教室で彼とともに食事をするくらい、断る理由もないはずなのだが。しかしどうにも、食欲というものが沸かなかった。


「あの、ごめん……。本当は嬉しいんだ。毎日こうして話しかけてくれてありがとう。だけど、どうしても具合が悪くて……。申し訳ないから、明日からは僕のことは気にせず、クラスのみんなと過ごしてくれないか」

「ん? なんだ、迷惑じゃないなら良かった。俺が好きでやってるだけだから気にするなよ」 


 彼は持参した串焼きの片方にかじり付きながら、少しのてらいもない顔で笑う。

 その頬には分厚いガーゼが貼り付けられていて、僕は思わず眉をひそめた。以前から妙に怪我の多いやつではあったが、段々と数を増やしていくガーゼや包帯に、さすがに少し不安になってくる。

 人懐っこい彼はクラス内外を問わず人気があるようだし、あの穏やかなクラスに限っていじめられているなんてことはないだろうが、それでも寮生の彼が部屋で怪我をしたわけではないのなら、必然その怪我は校内でっていることになる。

 声をかけるべきか否か悩んだけれど、僕の聞かれたくないことに踏み込まずにいてくれる彼にならって、僕も口を閉ざして窓の外を見上げた。

 彼もしばらく並んで空を眺めていたが、僕が手を付けないことを知ってか、もう一本の串焼きも頬張りはじめる。


「君はどうして……、僕に、こんなに良くしてくれるんだ?」


 僕の問いに、彼は不思議そうに首をかしげながら口の中のものを咀嚼する。

 口の端についた胡椒を追って、ちらりと彼の赤い舌が覗いた。


「なんでって……、別に、俺がおまえと一緒にいたいだけだよ。折角ルームメイトになれたのに、おまえあんまり寮室に帰ってこないし」

「ご、ごめん……」

「ああ悪い、別に怒ってるわけじゃない。……おまえにも、きっと色々あるよな」


 彼は鷹揚おうように頷いて、ミディアムレアに焼かれた最後のひとかけらを飲み込む。

 僕が寮室に帰らないのは、怪異に追い回されているうちに門限をまわってしまったり、入り口にずっと図体の大きなやつがいて、寮に戻れなかったりするからなのだが。

 どう説明したものかと悩む間もなく、彼は疑問を引っ込めてくれる。

 彼の隣は、嘘をつかなければいけない回数が少なくて、居心地がよかった。


「そういえば、聞いたか? 旧校舎のオバケ」

「ああ、顔がないっていう……」


 ここ最近のホットな話題らしく、クラスでも耳にした噂話の情報を復唱すると、彼は嬉しそうに頷いてみせる。

 大人びた雰囲気を持っている彼だから、こういう噂話には興味を示さないかと思っていたけれど、意外とこういうのが好きなのだろうか。


「なあ、今夜一緒に旧校舎に行ってみないか?」

「えっ、僕はそういうのはちょっと……」

「ホラー系は苦手か?」

「うーん、そうだね。人間と動植物以外の生命体は受け付けなくて……」


 ちょっとまわりくどかっただろうか。

 人間と動植物以外、という言葉を反芻しているらしい彼は少し考えてから、「でも、めちゃくちゃいい女かもしれないだろ?」と食い下がってきた。


「綺麗でも可愛くても、むしろ怖いだろ……。いかにもお化けじゃないか」

「人間っぽい見た目してても、ダメなのか?」

「怪異のたぐいだったら、ダメかな」


 なかなか諦めない彼にそう答えると、彼は一瞬傷付いたような表情を浮かべて、それからがっくりと大袈裟に肩を落とした。


「じゃあ旧校舎の顔無し女はダメか——。吊り橋効果って教わったんだけどなぁ」

「何と何の吊り橋効果だよ」


 なんとなく彼の狙いが見えて、ふっと口元がほころぶ。吊り橋云々については大いに誤用なのだろうが、彼らの優しさが温かかった。


「おまえと仲良くなるにはどうしたらいいかなって、みんなに相談したんだ。そしたら人間って緊張や恐怖でドキドキすると、一緒にいる相手のことを好きになるらしいぞって教わって……」

「それ、本来は恋愛対象にやるやつだからな」


 笑いながらツッコミを入れてやると、彼は「ええ? じゃあドキドキしても、俺と仲良くしたいって思うわけじゃないのか?」と困り果ててみせる。

 クラスも寮室も一緒になったばかりで、彼のことはまだ何にも知らないが、真っ直ぐで心根の優しい性格の持ち主であることは、この短期間でも理解できた。


「いや、もう十分思ってるよ。……ホラー、好きなのか?」

「うーん、まあ興味はあるかな。おまえが行かないなら、一人でも旧校舎に行ってみようとは思ってたけど」

「ええ、危ないだろ」


 思わぬ彼の返しに、心が揺れる。

 怪異がえないからといって、全く影響を受けないわけではない。えていなくても連れ去られることもあれば、そのまま喰われてしまうことだってある。怪異と積極的に関わりたいわけではないが、いるとわかっているのなら、いっそえる自分が付いていく方が安全なのかもしれない。


「——いいよ。今夜一緒に行こう。ただし夜の冒険はこれっきりだからな」


 ついに折れてそう答えると、彼は心から嬉しそうに笑って、僕の手を掴んで飛び跳ねた。



 ✤



 学生寮の門限は二十時だった。

 箱入り御用達だけあって非常に健全な時間設定だが、この手のものはいくらでも抜け道があるものだ。

 とはいえ、入ったばかりの学校でそんなリスクを冒したいわけでもなく、僕らはきっちり外泊届を出していた。

 届け出さえしてあれば、入り口の警備員や寮監に「やはり外泊をやめた」とでも言って、いつでも寮に戻ることができる。

 

「……随分手慣れてるのな。まだ寮生になって一月も経ってないっていうのに」

「なんだよ、僕が不純異性交遊に勤しんでるようにでも見えるか?」

「見えないけど」


 いっそ見えていて欲しかったが、残念ながら僕がどれほどおひとり様を極めているのかは、ルームメイトである彼が一番良く知っている。

 門限外の入出について詳しいのは、既に何度かやらかしている僕が、また怪異に出くわして門限に間に合わなくなった時のために調べていただけだ。

 それを実行に移すのは、今日が初めてなわけだけど。


「なんだかこう、悪いことをしてるって感じがひしひしと……」

「お、吊り橋効果出てる?」

「いやなドキドキだなあ」


 軽口を叩きながら、辿り着いた旧校舎の扉を開ける。

 新築同然の新校舎の裏手。学生寮を挟んで反対側の旧校舎は、数年前まで使われていたはずなのに、ひどく傷んで見えた。

 裏口らしきノブを回すと、ギィ、と重たく軋む音を立てながらも、中廊下へと続く暗闇ががっぽりと口を開けて僕らを迎え入れる。

 施錠もされずに不用心だな、と思いつつも、新校舎に通う面々は「入ってはいけませんよ」と言われれば大人しく頷いて絶対に近寄らない、お上品な学生ばかりなのだろう。

 そう考えると、嘘の届けを出してこんなところに来てしまっている自分たちは、結構な不良なのではないだろうか。

 

「顔無し女、いないなあ……」


 見渡すようにぐるりと懐中電灯を向けて、先導している彼があからさまに落胆する。

 僕としては、そんな扉を開けたらいきなり待ち構えているような、ドッキリホラーこそ御免こうむりたいので助かったのだけれど。

 怪異アレルギーも今のところ、いつも通りの痒みしか出ていない。きっと三尾のネズミのような小物がそこらを走り回っているのだろう。


 もっと大きなモノに出会うと、息苦しさや体中の痛みが出ることもある。失神したことだって一度や二度ではない。けれどそういう大きなモノは、そう簡単には姿を現さないのだ。

 彼らは普段、自由に往来を闊歩したりはしない。じっと息を潜めて、あるいは闇の奥で静かな眠りに就いている。

 怪異の性質にもよるが、目を覚ましていない大物には、アレルギーもほとんど反応しない。あったとしても、今みたいな左手の痒み程度で……——。


「なあ、なんか寒くないか?」


 白くけぶる呼気を吐き出しながら、彼が振り返る。

 気付けば僕の奥歯も震えて、カチカチと音を鳴らしていた。

 

『異様な寒気と不気味な姿に』

『もし逃げ遅れてしまったら……——』

 

噂話の一節が脳裏を掠める。

——《いる》。直感的にそう悟った。


唐突に彼が持っている懐中電灯が点滅し始めて、視界が白と黒で交互に塗りつぶされる。

肌を撫でる空気が一段と下がって、もう春の気配はどこにも感じない。

 

「下がってろ」


 いざ遭遇したらパニックになるかもしれないと思っていたが、彼はさっと僕を庇うように片腕を広げると、暗闇が続くだけの廊下の奥を鋭く睨みつける。

 気付けば彼の手には、西洋風の小さな短剣が握られていた。

 好奇心からの物見遊山ものみゆさんだとばかり思っていたから、まさかそんな本気で怪異とやり合うつもりで来ていたとは予想だにせず、僕はびっくりして彼の肩を叩いた。

 

「怪異と戦って勝てるだなんて自惚うぬぼれてないよな? 噂を聞いただろ、逃げ遅れたら顔を取られるんだ」

「でも、ここでやっつけておかないと、誰かが犠牲になってからじゃ遅いだろ」


 振り返りもせず僕にそう告げた彼は、本当にいいやつだと思う。

 だけど、世の中には出来ることと出来ないことがあるのだ。

 えもしない者が怪異に触れることはできないし、武器だって、霊幻あらたかな神具やら術具やらじゃない限り効果はない。

 純銀にきらめくお洒落しゃれな短剣はずいぶんと高そうな骨董品だが、そんなオシャレ装備では相手にならないだろう。


 噂になるということは、「顔のない女」はきっと何人かに目撃されている。

 一般人にも見られているということは、三本尾のネズミのような下級な怪異ではない。

 きっと人を殺し、喰ってしまえるような化け物だ。


「これ以上はダメだ! 早く外に……」


 彼の手を引いて強引に外に出ようと思った瞬間、開け放たれていたはずの裏口の扉が、バタン!と勢いよく閉まる。

 あまりの物音に飛び上がって二人で振り返ると、裏口の扉を背に、やたらと細長い人影が立っていた。


 はっ、はっ、と小刻みになる息が、小さく白い湯気となっては立ち消えていく。外はすっかり春爛漫だというのに、旧校舎は先程よりも一層冷え込んで、まるで冷凍庫の中にいるようだった。


 先程まで役立たずだった懐中電灯が、突如使命を思い出したかのように息を吹き返し、ぱっ、と僕らの視線の先を明るく照らす。


 ——立っていたのは、女だった。

 古めかしい学生服と、箒のようにパサパサになった長い髪。

 枯れ枝のような手足とやけに長い首は、とてもじゃないが彼のいう「いい女」ではなさそうだ。

 そして、すだれのような黒髪の隙間から覗く、目も鼻も口もない、まっしろな顔……。


「う、うわああああああ!」


 僕が悲鳴を上げるのと、彼がその女に飛び掛かるのは同時だった。

 彼は女のまっしろな顔に向かって短剣を振りかざすが、女は避ける素振りも見せず、むしろ自分から彼に顔を寄せていく。

 色も裂け目もないはずなのに、女の口元がニタリと笑った気がした。


「おっと」


 直感的にまずいと察知したのか、彼は着地するなり体をらせて、寄せられていた女の顔を避ける。

 ガシャン!とけたたましい音がして、顔無し女は先ほどまで彼が立っていた背後にあった窓に、自らの頭を突っ込んでいた。


「なるほどね、顔を取るってそういう……」


 判子みたいに直接写し取る気なのだろう。顔無し女は再び彼を振り向いて、よたよたと近寄ってくる。

 幸いにして、女の足はあまり早くない。走って逃げればけるだろうが、それは先ほど音を立てて閉められた、裏口の扉が開けばの話だ。

 もしも扉が開かなければ、僕らは袋のネズミになってしまう。


「まいったな。『格好よく危機から救っていいところを見せれば、彼女と急接近間違いなし☆』って本に書いてあったのに」

「だからそれ、普通は恋愛対象にやるやつだからな!」


 こんな状況でもどこか呑気な彼につっこみをいれながら、何か使えるものがないかと走り回る。

 彼が顔無し女の相手をしてくれている間に、僕がなんとかしなければ。


 片端から廊下の扉を開いては、何かないかと物色する。

 旧校舎は思いのほか片付けられていて、かつては教室だったであろう部屋には、まっさらな黒板と、まばらに並んだ机と椅子しか見当たらない。

 このままじゃまずい。こういう「自分から出向かない怪異」は、蜘蛛の巣のように、自分の領域に入ってきたものを決して逃さないのだ。

 ——目的を果たすまでは。


 彼がのらりくらりとかわした先で、また女が勢いよく壁に顔を突っ込む。コンクリートで塗り固められていたはずの壁は大きくへこみ、女が顔を突っ込んだ場所に向けて、いくつもの亀裂が走った。


 当たっていないからいいものを、あんなの一度でも彼がくらってしまえば、大怪我は免れない。

 僕は必死に考えを巡らせる。

 顔無し女の噂話。何か使えるもの。あの女の気を引けるもの……。


『なんでも夜の旧校舎では』

『顔無し女が何かを探して』

『夜な夜な徘徊してるんだって……——』


「顔……。そう、あの女は顔を探してるんだ……」


 ——四つめに開いた扉の先は、美術室だった。

 放置されたイーゼルの中には、こちらを向いて座る女生徒の姿が描かれている。

 だが、その絵の女生徒には、顔がなかった。


 何度も何度も塗りつぶされて、さまざまな色が混ざってしまった顔は、ぽっかりと穴が空いたように真っ黒に染まっている。


 僕は迷わず、絵のそばに置かれていた筆を取った。




 ✤



 どうしたものかな、と独りごちながら一歩下がる。

 目の前では、また顔無し女が柱に激突していた。


 こんなのんびりしたやつ、朝まで追いかけられたって捕まることはないだろう。しかし、この寒気はいただけない。このままでは、彼が風邪をひいてしまう。

 夜の大冒険はこんなに長丁場になるはずではなかったのだが、閉じ込められるとは誤算だった。

 ちらりと彼を視線で追う。ちょうど四つめの扉を開いたところで、「KEEP OUT」と書かれたテープで厳重に覆われた扉など、彼にはまるで見えていないかのように通り抜けていく。天井から下がる吊り看板には「美術室」と書かれていた。


 ……もうそろそろいいだろうか。思っていた展開とはズレてきてしまったし、彼も随分と怖い思いをしているようだ。

 かわいそうなことをした。こんなはずではなかったのに。


 短剣を握って、女に向き直る。

 刺されることを恐れない様子からして、どうやらこいつは切りつけても無駄なようだ。

 ならば……。


「おい! こっちを見ろ!」


 背後から掛けられた声は、きっと顔無し女に向けられたものだったのだろうが、あまりの剣幕につられて俺も振り返る。


 美術室から顔を出した彼は、両手でキャンバスを掲げていた。

 キャンバスには、こちらを向いて座る女生徒が描かれている。だが、かつては丁寧な色使いで描き上げられたであろうその一枚は、やけに色褪いろあせてしまっていた。そんなキャンバスの中央で、夕焼けを背に眩しい笑顔を向けている少女の笑顔は、向日葵ヒマワリのようにそこだけ色付いて見える。

 乾ききっていない絵の具がなお瑞々しさを増して、嬉しそうに語りかけてくる少女の表情は今にも動き出しそうだ。

 彼が描いたのだろうか。肖像画と目が合って、俺は一瞬反応に困る。

 だが彼は、動きを止めた顔無し女に自分から近寄ると、そのキャンバスを彼女に差し出した。


「見つけたよ、君の探していたもの」


 先程の剣幕とは打って変わって、彼が掛ける声は驚くほど優しかった。

 ……どんなにいい女でも、怪異はダメだと言っていたのに。


 顔無し女は、描かれた顔をじっと見つめると、徐々にその姿を霧のように消していく。

 消えゆく瞬間、かすかに見えた真っ白な顔には、淡く薄紅を引いた口元が映っていた。




「嗚呼、良かった。やっと描き終えられたのですね……」




 ✤




 彼女は、絵を描くのが好きでした。

 える彼女は教室に居場所がなく、いつも美術室にこもっては、ひとりで絵を描いていました。


 緋色が舞い散る桜の木。

 錦鯉の踊る夏の池。

 中秋の名月と、月明かりに照らし出されたススキ

 初雪の降り積もった、枯れ木と石造りの庭……。


 この校舎の怪異であった私は外に出ることは叶わず、窓の外の景色すら、うかがい知ることはできません。

 私は、彼女が映し描く絵で季節を知りました。

 彼女の繊細な筆使いが、白いキャンバスの中に無数の花を咲かせていくのが好きでした。


「あなた、人は描かないのですか?」


 ある日、うっかり彼女に声を掛けてしまったのは、彼女があまりにも寂しい絵を描いていたから。

 誰もいないのに揺れる、夕暮れの中の無人のブランコ。

 彼女は無口でしたが、彼女の描く絵はひどく雄弁でした。

 彼女の寂しさが、人を恋しく思う気持ちが、その絵からは痛ましいほど伝わってきました。


「私は好きなものしか描かない。ゆえに人は描かないのだ」


 彼女は、怪異である私に気付いていながら、気にも留めずに返事を寄越よこしました。

 

「しかし、あなたは人がお好きでしょう」

「好きなものか。あのような分からず屋ども。誰があいつらを守ってやっていると……」


 べしゃ、と筆先が乱暴に水入れにつけ込まれて、透明だった水を赤く濁らせていく。

 その様子すらも、私にはいとおしく見えました。

 彼女の手ずから色付けられるものは、キャンバスも、筆入れの水も、私には変わらず美しかったのです。


「襲われていたから助けてやったのに、この私を魔女だとさ。ふん、ならばあのまま食われてしまえばよかったのだ」

「成る程、祓い屋のご息女なのですね」

「なんだ。気付いていなかったのか」


 筆先がパレットから新たな色をすくいとって、帆布はんぷのキャンバスに乗せていく。

 流れるように描き出されていく風景が、命が、たまらなく輝いて見えました。


「どうして、私のことは放っておかれるのです?」

「おまえはなんにもしていないだろう。年がら年中、私の絵を眺めているだけではないか」

「私はこの西校舎から動けないのです。校舎を建てるときに、下敷きにされてしまって」

「ふうん。おまえ、元は兎か鳥だったのか」

「わかりません。もう自分が何であったかも忘れてしまいました」

「なら、私が描いてやろうか」


 自分の姿形も思い出せず、己の輪郭さえ縁取れない影のような私に、彼女はそう言ってくれたのです。


 とても嬉しかった。

 舞い上がるほどの喜びでした。


 私は、彼女の絵に魅せられていました。

 彼女の指先から生み出され、色付けていただけるのなら、それがどんな姿でも構いませんでした。

 それになにより、彼女は言っていたではありませんか。


 彼女は、と——。



「希望はあるか」と問う彼女に、私は彼女と同じ学生服の姿を所望しました。

 彼女は少し困ったように首を傾げていましたが、すぐに「いいだろう」と頷いてくれました。


 私には、わかっていました。

 彼女に人間の友人がいないこと。

 彼女が、心の奥底ではそれを求めてやまないこと。


 だから私は、彼女に人間の姿の私を求めたのです。


 私が人の姿をいただければ、形だけでも彼女に人間の友人を作ってやれる。

 放課後に友人と美術室で語らう、わずかばかりの思い出を、彼女に残してやれる。

 きっともうすぐ、私を置いてここを卒業していく彼女に……。



 彼女が祓い屋であったことは、彼女の口から聞くまで知り得ませんでしたが、「御三家」と呼ばれる祓い屋が怪異からひどく恐れられていることは、私の耳にも届いていました。


 筆を扱う、雛遊ひなあそび

 怪異を封じ、従え、意のままに操る人形使い。


 彼女の苗字がきっとその家系のものであることは、絵筆を握る指にたこができていることから、なんとなく察しがつきました。

 しかし雛遊ひなあそび家は絶対的な男系家系。女児はどれほど優れていようと、家門の一員と見なされない。

 同じ墓に入れることすら忌避され、雛遊ひなあそび家の女の死体は海に撒かれるのだと、彼女はキャンバスに向かいながら毒付いておりました。

 

 家の中にも居場所はなく、まなにさえ居所いどころはなく。

 そんな彼女の、わずかばかりの支えになれるのならば、それより幸福なことはありません。


 彼女に描いてもらえるなら、彼女の絵の中に封じてもらえるなら、私はそれでも良かったのです。

 例えその絵が持ち帰られずとも、この美術室に永劫えいごう置き去りにされるとしても。

 ほんの少しの間、この西校舎で彼女と肩を並べて語らえる存在になれるのであれば……。




 彼女の筆は早く、完成にさほど日数は必要ないと思われました。

 しかし完成間近になって、彼女の筆はひどくにぶってしまったのです。


 私の顔が、彼女にはどうにも描けないようでした。


「難しいのですか?」

「うるさい。少しばかりこだわっているだけだ。おまえごとき、この私が描けないわけがないだろう」


 そう言いながら、彼女は何度も何度も同じところを塗り直していました。


 私の、顔。

 人間の、顔。


 普段見慣れていないから、描き慣れていないから、だから難しいのでしょうか。

 彼女はいつもしかめ面のまま、毎日この美術室を訪れては、キャンバスに向き合い続けました。


「なんだか、ひどく疲れて見えます。最近根を詰め過ぎているのでは」

「ふん。怪異が私に指図するな」


 彼女はそう言って、椅子に乗っかっている私とキャンバスを交互に見つめながら色を混ぜ、筆に乗せていきます。

 そんなに私を見つめても、彼女の目に映る風景と違って、輪郭のない私はただの濁った空気でしかないでしょうに。

 そこにある顔を探すように、彼女は長い間私を見つめては、色を混ぜていきました。

 鮮やかな赤、静寂の青、豊かな緑……。

 それがぐちゃぐちゃの黒に成り下がっては色を捨て、また新しく色を作り直すことを続けて、幾つもの月日が流れました。


 私たちには、もうあまり時間が残されていませんでした。



 「そう心配せずとも、ここを出る前には完成させてやるよ」


 彼女はそう言っておりましたが、それでは遅いのです。

 私ははやく人の形を手に入れて、彼女に思い出を、友人と会話する楽しみを伝えなくてはならないのですから。

 此処をつ彼女が、次の場所では、人との間に正しい居場所を見つけられるように。


 私は彼女を急かしました。何度も何度も「早く描いてください。私の顔を、はやく」と伝えました。

 しかし彼女は聞き入れず、いつものように夕焼けを背に、腰掛ける私を見つめるばかり。


 そして、秋から冬へと季節が移ろい始めたある日、彼女は美術室に来なくなりました。




 ✤


 


 卒業を間近に控えた彼女の訃報は、生徒たちの間でさざめくように伝えられました。

 多くの者が、彼女をさまざまな言葉で揶揄やゆしましたが、どうやら彼女は人間に殺されたらしいということしかわかりませんでした。


 それが誰の仕業であったのか、どうして彼女がそんな憂き目に遭ったのか、私にはわかりません。



 ——ただ、憎かったのです。


 彼女を手に掛けた者が。

 彼女が死んで、あんな風に嘲笑う人間たちが。


 きっと彼女の遺体は、刻まれて海に撒かれたのでしょう。

 彼女の生きた軌跡は、彼女の生家にも、人の思い出の中にも、どこにも残らない。


 だから私は、彼女が描き続けたキャンバスに人間たちが触れたときに、彼らに災いをもたらしました。

 彼女の生きた証を、この美術室に遺された絵を、どれ一つとして燃やさせてたまるものか、と。


 何度も何度も訪れる人間を追い返すうち、この西校舎は立ち入り禁止となり、やがて校舎全体が破棄されることとなりました。


 この地から離れられない私は、彼女の思い出と共に、消えゆくまでの長い時をここで過ごすことにしました。



 しかし、どうしても名残惜しい。

 完成させられなかった絵を、彼女が描き上げた私の姿を、なによりも私が見たかった。

 そしてきっと、彼女も無念だったに違いないのです。

 彼女は、約束を違えるような人ではなかったのですから。



 だからどうか、顔を。私の顔を。

 描き残されてしまったこの絵が、彼女の未練とならぬよう。

 彼女が私のように、地に縛られた怪異となってしまわぬよう。



 怪異とはこんなにも、わびしく、悲しく、胸が苦しいものだから……。








 ……ええ、本当は知っています。

 彼女はいつでも、この絵を完成させることができたこと。


 けれど彼女の絵は、その中に怪異を封じてしまうから。

 彼女が描き上げたら、私は私ではなくなってしまうから。

 だから彼女は、最後の日まで完成を待つつもりでいたのでしょう。


 それまで、この夕焼けの中の会話を、私と過ごす時間を、

 彼女はきっと、大切に……——。




 ✤




「だ、大丈夫か!?」


 彼に声を掛けられて、目を覚ます。

 どうやら僕は、アレルギーで失神してしまっていたらしい。

 彼が真っ青な顔色で僕を覗き込んでいて、僕の方が思わず心配になった。


「大丈夫だよ。僕は美術室で顔を描いていただけだし……。君こそ、怪我はない?」

「はあ……。急に倒れるから、おまえの顔を取られたのかと思った……」


 心底安堵したように、彼が大きく肩で息を吐く。

 気を失っていたのは一瞬だと思うが、随分と心配を掛けてしまったらしい。


「顔無し女はいなくなったのか?」

「多分。俺はよくわからないけど、成仏したと思う。満足そうに笑ってたよ」

「そうか、良かった」


 ——遅くなってしまったけど、約束を果たせて。


 微笑み返す僕に、彼は何か尋ねたそうな顔をしていたけれど、いつものように彼は深く踏み込むことはせず、「そろそろ帰るか」と手を差し伸べた。


「おまえって、結構な秘密主義だよな」

「……幻滅させたかな」

「いいや、みんなそんなものだろ。今日はおまえがあんなに絵が上手いって知られて良かったよ」


 だけど、自己紹介で名前すら伏せるやつは初めてだったな、と言って彼は笑う。

 出席番号十三番。「僕」の名前は、いまだにどこにも記されていない。


「友達の名前くらいは知っておきたいと思うんだけど、困るか?」

「いいや」


 首を振って、彼を見つめる。

 本当は無名のまま三年間を過ごすつもりだったけれど、不意に彼が「友達」なんて言葉を使うものだから、びっくりしてぶっきらぼうな返事になってしまった。


 先ほどた景色が蘇る。

 逃げ込んだ先の美術室で、彼女たちが叶えた、友人とのひそやかな夕暮れの密会。


 僕にも、許されるだろうか。

 僕も、あんな風に友人と語らってもいいのだろうか。


 冷たかった胸の奥で、わずかな鼓動が聞こえた気がした。


「それで? おまえのことは、?」


 尋ねる彼に、僕は「いいや」と答えて、片手を差し出す。

 こんな僕を、「友人」だと言ってくれた彼に。


「僕は小手鞠こでまり。小手鞠カルタ。よろしくね」



 

 ——差し出した左腕が、じくりと熱を持った。




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