第22話 ご近所の幸せ

 一年近くの長い盲目王子の体験をして、ヨハンは元の世界に戻ってきた。


 童話の世界では一年でもこちらでは一瞬の出来事である。


 そして、それは誰もが気づかない程度の差異でしかない。


 それは、『異世界童話禁忌目次録』の本の上に、新たな一冊が増えているという間違い探しのような変化であった。


 これも何度目かの経験であるヨハンは、童話で経験した大きな喪失感に襲われながらも今は、気持ちを切り替える。


 そして、いつも通り死ぬ寸前の覚悟と共に、一冊増えた『盲目王子と婚約者』の本をすぐに開く。


「あれ……? いつもの死の限界に追い込まれる感覚が来ない……ですね?」


 ヨハンは、盲目王子ピピンの体験をして凄く落ち込んでいたから、気持ちは非常に重い。


 だが、それも驚異的な精神力のお陰でなんとか切り替えているから気づかなかったが、これが今回の反動であったのだ。


 常人がこの経験をすれば、精神はどん底まで落ち込み、精神が破綻して廃人になっていただろう。


 しかし、ヨハンは精神力が驚異的であったし、体力も死ぬ思いをして『無尽蔵の体力』を得ていたから、その心配はない。


 それに何度も繰り返し驚異的な経験を積み重ねることであらゆる事への耐性、基礎能力の向上など目に見えない身体の強化がなされていたのである。


 ヨハンは、火傷跡の美女ことアリス・テレスとの実験で、その一部については体感していたが、まだ、その途中であったから、詳しいことは理解できていないのであった。


 ヨハンは『盲目王子と婚約者』の本を開きながらその反動を恐れる。


「……大丈夫ですよね?」


 ヨハンは緊張気味にまた、確認するようにつぶやく。


 すると脳内に何度目かの聞き慣れてきた女性の声が響いてくる。


「『盲目王子と婚約者』の最後までのご体験お疲れ様でした! 見事、達成されたヨハンさんには、この本の獲得者に与えられる『目を治癒する魔法』が与えられます! しかし、この魔法は、心優しい者にしか効果がないので、ほとんど使い物になりません。それでも良ければ、この魔法を獲得しますか? しませんか? はい/いいえでお答えください」


「心優しい者……?」


 ヨハンはすぐに寝台ですやすやと眠る娘サラの寝顔に視線を向ける。


「この子なら、大丈夫でしょう……」


 ヨハンはそう考えると、すぐに、「はい」を選択してつぶやいた。


 するとヨハンの脳裏に『目を治癒する魔法』が流れ込んでくる。


 ヨハンはその感覚に気持ち悪くなり、すぐにトイレに行ってその日に食べた夕飯を戻すことになった。


「今回は反動がないと思ったら、覚える方でありましたか……。でも、このくらいの反動なら全然問題ないですね」


 ヨハンは精神的にも肉体的にもタフになっていたから、けろっとした様子で部屋に戻る。


 そして、眠る盲目の娘サラにその魔法を唱えるのであった。



 翌日の明け方。


 ヨハンはそろそろ母親であるアンナが帰ってくる時間だと思い、少し早いがサラを起こす事にした。


 アンナが来る前に確認しておくことがあると思ったからだ。


「サラちゃん、起きてくれますか? そろそろサラちゃんのお母さんが迎えにくる頃だと思いますので」


「……おじさん? おはようございます……」


 サラは眠たそうに眼を擦り、ヨハンの方を向いて丁寧に挨拶をした。


 母子家庭だが、しっかり、躾されているのには、ヨハンも感心する。


「おはようございます。──どうです? 目に変化はありましたか?」


「お目目に? ううん、別に痛くないよ?」


 サラはヨハンの質問の意図を理解できず、目に不調がない事を告げる。


「いや、そうじゃなくてですね? 目がいつもより、見えたりしていませんか?」


「……ううん。いつもと一緒だよ? 少し光を感じるくらい」


「……失敗? そんな馬鹿な……」


 ヨハンはサラの返答にショックを感じずにはいられない。


 そして、覚える時の解説を思い出した。


 それは、『心優しい者にしか効果』がないというものである。


「いや、この子以上に心優しい者などいないと思うのですが……。それとも本当に役立たずな魔法だったのでしょうか……?」


 ヨハンは自問自答すると、がっくりと肩を落とす。


 一年近くも盲目王子として童話の中で過ごし、愛する女性と結ばれる事がない悲恋の終わりを体験した後だけに、報われたい気持ちがある。


 それだけに、サラ程の子供で心優しい者の対象に入らないのかと思わずにはいられない。


 そして、不意にヨハンはある事を思い出した。


「サラちゃん、今日から毎日一か月間、女神様に生きている事への感謝の祈りを捧げてくれないかい?」


「女神様への感謝の祈り? 私、いつも朝に女神様にお祈りしているよ?」


「おお、そうなのですね! それなら問題ない。もしかしたら一か月後、サラちゃんに奇跡が起きるかもしれないから、そのお祈りを続けてくださいね?」


「奇跡? うん、わかった! おじさんの分もお祈りするね!」


 サラは笑顔でまた、優しい事を言ってくれる。


 なんて良い子なんですか……! これで治らなかったら、この魔法は本当に使えない糞です!


 ヨハンは、普段冷静で温厚な性格のはずだが、この時ばかりは悪態も吐かずにはいられないのであった。


 そこへ、サラの母親であるアンナが夜の仕事から帰ってきた。


 タバコやお酒の臭いをさせていたが、それも仕事につきものだろうから仕方がないところではある。


「えっと……、ヨハン・ブックスさんでしたっけ? サラを預かってくれてありがとうございます。これは、さっき買ってきた朝食です。食べてください。──サラ、おじさ……、お兄さんにお礼を言って」


 母アンナはヨハンに一晩の恩を感謝すると、先程、職場近くのお店で購入した食事をヨハンに渡す。


「おじさん、ありがとう! あんなにふかふかのベッドは初めてだったよ。それに、夕飯も美味しかった!」


 サラはヨハンに満面の笑顔でお礼を言うと、アンナの手を探して手を伸ばし、ヨハンの手からアンナの手にその手を移動させる。


「こっちこそ、良い経験をさせてもらいました。そして、女神様へのお祈りは欠かさずにね」


 ヨハンは名残惜しい気分になったが、隣人である。


 会えなくなるわけではない。


 それに、もし魔法に効果が無かった場合、自分も合わせる顔がない気がしたから、ここはさっぱりと別れておこう。


 そう考えると、二人に手を振り、自室に戻るのであった。


 結局、ヨハンはサラにも母親のアンナにももしかしたら視力が戻るかもしれない事は告げなかった。


 恩を着せるつもりはなかったし、何より治らなかった場合、二人を傷つけるだけだからだ。


 ヨハンはそれから、自らも女神への祈りを毎朝欠かさず行った事は言うまでもないのであった。



 それから、一か月を過ぎた頃。


 ヨハンは、仕事の忙しさからこの親子と会う事がほとんどなかった。


 だから、娘の目が見えるようになったのか、確認していない。


 そんなある時のこと。


 寝る為だけに家に戻った時、たまたま、玄関先でサラの母親であるアンナに会って話をする機会があった。


 そこで、アンナが夜の仕事を辞めて、昼働くようになった事を知る。


 アンナは以前よりも化粧が薄く、顔色も良くなったように見え、とても幸せそうだった。


 ヨハンは娘サラの事を聞こうか迷う。


 だが、その必要もなかった。


 外にアンナの声を聞いて、サラが扉を開けて母を出迎えたのだ。


「お母さんお帰りなさい。──そのおじさんは誰?」


 サラはヨハンの顔を知らないから、当然の反応である。


 いや、当然ではない。


 それは、ヨハンの顔が見えているという事だからだ。


 つまり、サラの目は回復したという事である。


 ヨハンはそれを理解しただけで涙が溢れそうになった。


 「やあ、サラちゃん。私の声を覚えていますか? 隣に住んでいるおじさんですよ」


 ヨハンは涙を我慢して、気さくに声をかける。

 

「え? あのおじさんなの!? わー! 想像していたよりもキラキラした目が綺麗!」


 サラが見えるようになった目を輝かせて、ヨハンの目をじっと見つめた。


 いや、それは涙で輝いて見えるだけだよ?


 とは、答えるわけにもいかないヨハンであったが、涙がこぼれないように、顔を逸らすと袖で目元を拭う。


「サラちゃん、目が見えるようになったんですね。ご回復おめでとうございます」


 ヨハンは振り返るとまずは祝いの言葉を口にする。


「そうなんです……。ありがとうございます。実は、一週間ほど前に見えるようになって、その時は恥ずかしいくらい大騒ぎしてご近所さんにもご迷惑をおかけしたのですけど……。ヨハンさんはその時、家にいなかったんですね」


「あははっ……。こちらには寝る為だけに戻ることもありますが、時間帯的にすれ違いだったみたいですね。でも、良かったです……。──サラちゃんもおめでとうございます」


 ヨハンは苦笑して応じるとサラに対してもささやかなお祝いの言葉を述べた。


 「……ありがとう。おじ……お兄ちゃん!」


 サラはヨハンの目を確認するようにじっと見てから言葉を返す。


 「それでは、失礼します」


 ヨハンは笑顔で告げると自室に戻っていく。


 すると隣では、「お兄ちゃんの目、綺麗だね」というサラの声が聞こえてくる。


「サラが人の目を褒めるって、珍しいわね」


 母アンナが子供の誉め言葉に楽しそうに応じた。


「だって本当に綺麗だったよ。とても良い人だと思う。泊めてくれた時も優しかったし!」


 サラが泊めた日の事を覚えていて、母アンナに伝える。


「そういえばそんな事言っていたわね。──でも、ご迷惑になるからあまり、話しかけず挨拶くらいにしておきなさいよ。いつも忙しそうだから」


「はーい」


 サラが母アンナの気遣いに返事をすると、キャッキャッという声が聞こえてくる。


「……幸せそうな声が聞こえてくるだけで、こっちは癒されています。ありがとうございます」


 ヨハンは、隣人へ壁越しに頭を下げて満足すると、一人夕飯の用意を始めるのであった。

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