第16話 ご近所付き合い

 ある日のこと。


 ヨハンはこの日も仕事を終えて帰ろうとすると、その直後に上司ブランに残業を押し付けられてしまい、帰るのが少し遅くなっていた。


 相変わらずのことではあったが、お陰で、火傷跡の女性アリス・テレスとは、昼休憩に塔でしか話す機会がない。


 話すと言っても、ほとんどは『異世界童話禁忌目次録』についてであり、それ以外についてはほぼ話す時間もなかった。


 本当は、じっくりと話し合ったうえで、新たな童話の体験をアリスの補佐のもとやりたいと考えていたのである。


 そんな考えを持ちつつも、それが叶わず、毎日の残業に追われる日々であったから、ヨハンは体力的には疲れていないが、精神的に我慢を強いられている状態であった。


 食事を家の近くにある『働き蜂亭』でいつも通り女将のお任せ定食を、お店の食器に入れてもらう。


 それを底が平らなバッグに入れてもらい帰るのがいつもの習慣だ。


 ただし、今日はいつもより早く帰れていたから、


「今日はいつもより早い時間ね!」


 と女将に指摘されるのであったが、それはたまにあることである。


 ちなみに、持ち帰った食器は洗って翌日の朝、返却してから職場に向かうのが日課であった。


 ヨハンは自宅のある長屋に到着すると、鞄に入れた鍵を探しながら、ぶつぶつ言って玄関前に立つ。


「……あれ? どこに入れたのでしょうか? ないですね……」


 ヨハンが首を傾げながら、一人ごそごそやっていると、その玄関が開く。


 そこから派手な化粧姿の綺麗な女性とその手を握っている五歳くらいの娘と鉢合わせた。


「きゃっ! だ、誰ですか!? サラ、後ろに下がって!」


 母親は娘を自分の後ろに下がらせてヨハンを警戒する。


 娘は元気がない様子で、母親の言葉に愚図る様子を見せていた。


「え!? あなたこそ私の部屋から何で出てく──。って、あ! すみません、隣でした……」


 ヨハンは部屋の上に振られた番号を確認して、間違えていたのは自分だとすぐに気づいた。


「隣? 隣は四十過ぎくらいの独身のおじさんが住んでいるはずよ! あなたみたいに若いはずがないわ。もしかして、あなた、うちのお客さんじゃないの!? ちょっと、優しくすると勘違いする人がいるから困るわ。家の前で待ち伏せするなんて、頭おかしいわよ!」


 母親は、娘の手を離すと、ヨハンを責め立ててくる。


「い、いえ。私は確かに隣の者です。ほら鍵もありますよ? 今から開けますのでお待ちください」


 ヨハンはそう言うと、急いで自分の家の扉の前まで移動すると見つけた鍵を扉に刺し、開けてみせた。


「……本当に? でも、管理人さんから聞いていた雰囲気とまるで違うわよ? まさか、その鍵、隣の人から奪って来たんじゃないでしょうね?」


 母親の方は疑いの目で、ヨハンを睨む。


 最初の印象悪かったので、ヨハンが爽やかなイケメンであっても、許してもらえそうにない。


 だが、娘はそんなことはどうでもいいのか、母親のスカート裾を掴むと、


「お母さん……。私、一人で留守番するからお仕事行ってきて……」


 と愚図る。


「サラ、何度も言わせないで。一人でお留守番させるわけにいかないでしょ? 夕飯だってまだなのに。仕事に行く途中で買って職場で食べるしかないでしょ?」


 母親は見る限り、夜の仕事をしているようだ。


 それも、母子家庭というやつだろう。


 夫がいれば、今頃、娘を任せているはずだからだ。


 もちろん、夫が仕事に出かけている可能性もあるが、少なくとも隣人であるヨハンは壁越しに聞こえる声や音からは、男がいる可能性がこれまでなかったので、そう予想していた。


「でも、お母さんの仕事場はいつもうるさいし、私、知らない人に怒られるから行きたくない……」


 娘はどうやら、母親の職場の休憩室辺りで一晩中待っているのだろう。


 その時に、他の者達から邪魔者扱いされているのかもしれない。


「今日で終わりだから。明日からは、この時間、サラを預かってくれる人に任せることが出来るから我慢して?」


 母親は、仕事の時間が迫っているのか、ヨハンの事も最早相手にせず、その時間を愚図る娘の説得に当て始めた。


 ヨハンはこの気まずい雰囲気から脱する為に、自分の部屋に入ろうと思ったが、ご近所としてこれからも付き合っていく事を考えると放っておくのは良心が咎める。


 そして、


「……あのう……。今日だけでいいのなら、うちで預かりましょうか?」


 とヨハンは、申し出ることにした。


 食事をさせて、寝かしつければ大丈夫だろうと予想したからだ。


「……本当にお隣さんなんですか?」


 母親は疑いの眼差しは変わらないままであったが、少なくとも今の自分にとってありがたい申し出をしてくれているのは事実であったから、慎重に確認してきた。


「ええ。紹介がまだでしたね。私はヨハン・ブックスといいます。年齢は三十七歳。いい年をしたおっさんなので、人並みの社会的常識は持ち合わせていますからご安心ください。それに、万が一娘さんに何かあったら、私の人生が終わりますから」


 ヨハンは母親を安心させる為に、自己紹介がてら、疑いを晴らす為に説明する。


「その顔で三十七!? 今度は違う意味で色々怪しいのだけど……。──……私は、アンナです。この子はサラ。この子、実は、目がほとんど見えないんです……。だから、一人で残すことも出来なくて……。もう、仕事の時間なので行かないといけないわ。本当に大丈夫……ですよね?」


 母親アンナは、サラの手をぎゅっと握ると、迷う素振りを見せた。


「仕事は何時ごろ終わりますか? ──なるほど、そのくらいの時間なら私も目が覚めている時間なので問題ありません。それでは仕事が終わったら、うちに寄ってください」


 ヨハンは安心させるように、その爽やかな笑顔で応じた。


「それじゃあ……、お願いします。──サラ、このお兄さん、おじさん? と一緒に今日は待っていてくれる?」


「お母さんのお仕事先に行かなくていいの?」


「ええ」


「じゃあ、このおじさんと待ってる!」


 娘サラはようやくこの日初めての笑顔を見せた。


 母親アンナもその笑顔を見て安堵したのか、自身も笑顔になって、ヨハンにお願いする。


「それではくれぐれもうちの娘に何もないようにお願いしますね?」


 母親アンナは、初対面の怪しい若作りのおっさんに念を押すと、娘をヨハンに任せ、扉の鍵を閉めてから急いで仕事に向かうのであった。


「いってらっしゃい。──それではサラちゃん。それじゃあ、おじさんの家でご飯にしようか」


「うん!」


 サラは余程お腹が空いていたのか、食事と聞くとほとんど見えないはずの目を輝かせて元気よく返事をする。


 ヨハンは、そのかわいらしい反応に、父性本能を刺激されると、サラの手を引いて部屋に案内するのであった。

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