第6話 死からの帰還と体の変化
ヨハンは、死を体験していた。
体力を全て奪われ、体中の血の気が引く。
体は動かなくなり、手足も痺れて指一本動かせない。
そして、心臓の鼓動もゆっくり止まっていくのだ。
それを感じたヨハンは、声にならない叫び声を上げて、ダンとして生涯を終えるという死を体験したのである。
はっ!
ダンの死による暗転した視界から、ヨハンとして自室の椅子に座った状態で目を開くことになった。
ヨハンは『異世界童話禁忌目次録』を読み始めたもとの時間に戻ってきたのである。
ダンとして、体感した時間は、一か月くらいだろうか。
毎日、大好きな村の役に立つ為、体力勝負の仕事を安い報酬と引き換えに進んで行っていた日々が思い出される。
ヨハンにとっては、それがとてもリアルな体験であり、村の住人の一人一人の顔が思い出された。
そんな記憶が走馬灯のように思い出されたのもほんの一瞬であり、ヨハンは目を開いて自室であることを確認する。
台所には、本を開く前に魔導コンロで温めようとしていた水の入ったやかんが、水蒸気を出し始めていた。
どうやら、ダンとしての一か月以上の経験は、こちらでは一瞬だったということだ。
そして、ヨハンは、その場に崩れ落ちる。
とっさに、机に手を伸ばして体を支えようとするが、力が入らず倒れそうになる。
ヨハンはその拍子に、机の上にある二冊の本を手に引っ掛けて落として自らも床に突っ伏した。
どういうことです……? なぜ本が二冊あるのでしょうか……? それに体に力が入らない……。これは、ダンの最後の時と同じ状態……みたいですね……。
ヨハンは、完全に体力を失った状態だったが、精神力だけで手を動かし、もう一冊の本に手を乗せた。
そして、床に這いつくばった状態のまま、二冊の本に視線を向ける。
一冊は背表紙から、ダリル著『異世界童話禁忌目次録』だとすぐにわかった。
そして、もう一冊の背表紙には、『体力自慢と老人』と書かれている。
!? いつから、この部屋に存在したのだろう……? 意識がこちら側に戻った時から……でしょうか……?
ヨハンは血の気が引き、手足の指も痺れて動けなくなっていく中で、またも、精神力だけで、必死にその『体力自慢と老人』の本の表紙を開いた。
もう、気力だけでやれる事は限られていた中、物語でダンとして体験した死が自分の身にまたも降りかかってきたのだから、恐怖しかないはずなのであったが、とっさに本を開いたのは、ただの生存本能と言って良かったかもしれない。
ヨハンが最後の気力で表紙を開くと、本のページが自動的に高速でパラパラとめくれていく。
そして、ヨハンの脳裏に声が聞こえてきた。
「『体力自慢と老人』の最後までのご体験お疲れ様でした! 見事、達成されたヨハンさんには、この本の獲得者に与えられる『無尽蔵の体力』が贈られます! 獲得しますか? しませんか? はい/いいえでお答えください」
自分が今、死にかけている状態とあまりに場違いで爽やかな女性の声に、死に際のヨハンは、心臓が止まる恐怖を忘れて一瞬ポカンとする。
だが、それも本当に一瞬だ。
死の恐怖が迫っているのはわかっている。
はい……!
ヨハンはすでに声に出す気力はなく、考える力も失いつつある中で、はいを選択して心の中で叫んだ。
すると、『体力自慢と老人』の本が、その瞬間、炎に包まれた。
それは一瞬であり、その次の瞬間には本が跡形もなく消え去る。
床に燃えた跡は残っていないから、魔法の炎であることはすぐにわかった。
そして、ヨハンは限界を迎えて視界が暗転し、気を失うのであった。
ピー!
やかんの中の水が沸騰し、その音がヨハンの耳に届いた。
ヨハンはその音にびくっとして、とっさに起き上がる。
「生きている……!?」
ヨハンは痺れていたはずの手足や体、止まりかけていた心臓の元気な鼓動を感じ、自分が助かったことを確認するように手を眺め、体を触った。
そして、改めて正気に戻ると、魔導コンロのスイッチを止める。
やかんの沸騰する音はようやく止まり、ヨハンは安堵した。
それは、命が助かったからなのか、ピーという不快な音を止めたからかわからなかったが、ヨハンは大きく深呼吸をして溜息を吐くのであった。
ヨハンは、自分を落ち着かせる為に、お茶を入れる。
そのお茶を机に置くと、ようやく、床に落ちたままになっていた『異世界童話禁忌目次録』の本を拾って机の端に置いた。
さすがに、その本をまた開いて確認する気にはなれず、ただ、乾いたのどを潤す為に、お茶を啜る。
「これは長い悪夢だったのでしょうか? ……いや、ダンとしての一か月の体験はまさしく本物でした……。村でみんなの役に立つ日々は、楽しい時間であったし、それら全てを奪われる絶望も死を迎える瞬間の恐怖も、体の機能が失われる感触も本物だったと確信できます……。それに救いようがない結末のお話……。これは一体……、何が起きているというのでしょうか……?」
ヨハンは、本を恐ろし気に見つめながら、独りつぶやく。
そして、ふと手にしたカップの水面に視線を落とす。
そこには、当然だが自分が映っていた。
いや、自分だが、自分ではない。
そこには、残業をこなす為に睡眠時間を削ることで目にクマを作り、食事も疎かにしたことで頬を痩せこけさせた老け顔のヨハンではなく、田舎から出てきて王都の生活に夢を見ていた頃の若い自分であったのだ。
いや、そのまま数年良い経験を重ねたら、こうであったかもしれないという凛々しい顔だちになっていたというべきか?
十代の青臭さはそこになく、疲労でボロボロになるまでは、こんなモテそうな顔立ちだった気もするな、という顔になっていた。
ヨハンは立ち上がると鏡の前に移動して、改めて自分の顔を確認する。
確かに自分の顔だが、元の老け顔と今の若々しく健康そうな顔では、あまりに差があり過ぎて戸惑うしかない。
「……そう言えば、あの魔法使いのおじいさん。私(ダン)から体力を奪って若々しくなっていたましたね……。つまり、あの現象が私にも起きているということなのでしょうか?」
ヨハンはようやく、童話で経験したことが自分にも起こってるという事に合点がいく。
「あ……、腰が痛くない……!? それに、膝も調子が良いような……。私も健康体になったのでしょうか?」
ヨハンは年齢を重ねたことで、体のいろんなところにガタがきていたところが全然痛くなく違和感もないことに、ふと嬉しさが込み上げてくる。
「死ぬほどの絶望に突き落とされて、精神的にも肉体的にも最悪でしたが、それも少し報われたのかもしれないですね……」
ヨハンはようやくここで、本の中で体験した一か月の苦労が報われたことに素直に喜ぶのであった。
鏡を見てポーズを取り、若々しくなったことをひとしきり実感していたヨハンであったが、ふと、冷静になって気になっていたことを思い出した。
それは……、
「私……、いや、ダンの体力を奪った魔法使いのおじいさん。建国祭で『開かずの間』を開けて死んだことになっているフォルンと名乗った魔法使いのおじいさんにそっくりだと感じたのですが、気のせいでしょうか……?」
ということである。
性格は比べるまでもない程、真逆だと感じるヨハンであったが、顔つきはそっくりだったから、不可解に感じざるを得ない。
だが、あれは童話の中の経験のはずだし、時系列的にフォルンという老人は、すでに死んでいる。
その老人があとから童話の中に出てこられるはずがない。
「可能性を考えると……、兄弟や親戚、もしくは同じ血筋。それとも、他人の空似でしょうか? または私の中の記憶が、本の中の登場人物に置き換えられたのか? ──わからないですね……」
ヨハンは鏡の前で自問自答するように、つぶやく。
するとそこで、お腹が「ぐ~!」となる。
「あっ……、食事がまだでした……。せっかく、『働き蜂亭』で買ってきたご飯が冷えてしまいましたね……。温め直しましょう」
ヨハンは、底が平たいバッグに入れてあったお肉とスープの入った器、そして布で包んであったパンを取り出すと、魔導コンロに今度はフライパンを置いてスイッチを入れ、一つ一つ火を通し温め直す事にするのであった。
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