第9話 泡沫

 街並みを包む黄金色の陽光が、煉瓦造りの建物の壁を優しく照らし出し、いらかの海に影を長く引かせている。王城の白亜の尖塔が夕焼けに染まって一段と輝きを放っていた。


 広場には様々な露店や屋台が並び、香ばしい匂いが立ち込める中、客と物売りとが競い合う声と、子どもたちがはしゃぎ立てる喧騒が賑わいを交わす。飛沫しぶきをあげる噴水は夕陽を受けて煌めき、その周りには夕涼みを楽しみに人々が集まる。


 フィオラディア王都フューネルの夕暮れどきはいつも通り住民たちが一日の終わりを穏やかに迎える。


 そうして陽が沈めば、情熱的で活気に満ちた街へと変貌を遂げる。星空の下、街のいたるところに明かりが灯る華やかな夜。吟遊詩人が心躍る英雄の冒険譚から、胸を打つ恋物語、遥か遠い異国の伝説まで朗々と歌い上げ、周辺諸国から集った美女たちが客人にそれぞれの国の美酒をいで回る。フューネルはそんな街全体が情緒に溢れた場所だった。


 夫婦はフューネル港に到着した途端、入国管理官によって身分をあらためられることとなった。そして、約半年の間も消息不明となっていた第二王子アランの突如とした王都帰還が判明したのである。


 王太子リオンは失脚し、ただの第一王子に戻って王城の一画にある小さな居館で幽閉生活を送っていた。二人の王子の父である現国王ヨエルは、リオンがアランの殺害を謀り、アランが負傷して生死不明、リオンは殺害未遂罪で王太子位を廃嫡せざるを得なかった、つまり、二人の息子が同時に後継者候補からいなくなるという一連の出来事に著しい精神的衝撃を受け、床にせっている。


 すでにフィオラディアはエレンドールとの戦に敗北した影響で国政と民衆の生活に暗雲が立ち込めていた。そのような中でアラン生存の報はフィオラディアの民にとって久々のよい知らせとなった。


 そびえ立つ白亜の尖塔が目印となる場所──フィオラディア王城には、エレンドールの女騎士がアランの身柄を保護しリオンの刺客からアランを匿ったという美談が瞬く間に広まっていた。


(うーん、まさに、一生に一度の天国ね……)


 さかずきを傾け、最後の一滴まで飲み干してから、クラリスは満足げに溜め息をついた。


 クラリスは王城の一番広い居館へ案内されるなり、丁重な晩餐の歓待を受けた。


 鶏の丸焼きやら、トリュフのかおるキノコのポタージュやら、今朝獲れたばかりという新鮮な大海老やら、今まで食べたこともない贅と趣向を凝らした豪華な料理ばかりが、クラリスたった一人のために用意されていた。デザートには冬の期間にしか得られない貴重な氷を使用したザクロと糖蜜のシャーベットに舌鼓を打つ。およそ庶民のクラリスには未知の体験だった。


 そして居館の自慢は大浴場だそうで、確かに素晴らしいものだった。一人で使うにはあまりにも広すぎる湯場で思いきり身体を伸ばす。


 かがりが焚かれている外湯場に出てみると、一瞬、冷えた夜気が全身を撫でていったが、湯につかれば極上の気分を味わえた。地下から湧き出る温泉を引き入れているらしい。湯の熱さが身体に沁み入るようだった。見上げれば、天上に神々が金銀財宝を一斉に投げ打ったような満天の星空。そこにぽっかりと浮かぶ蒼い三日月。


「ああ、とても……とてもいい、おもてなしだったわ。きっと、一生忘れない。……さあ、エレンドールに帰りましょう」


 クラリスは登城するなり、アランとは引き離されていた。しかしむしろ、彼の顔を見なくて済んでよかった。


 熱をもった両のまなこから涙がこぼれ落ちてしまいそうになるのを、ときどき顔を上げて奥歯をグッと噛み締めて堪えながら、荷物をまとめる。


 最初からわかっていたことだった。エレンドール人が、性奴隷となった敗戦国の王子を買って好き放題した女が……それも、数多くのフィオラディア人を殺した唾棄すべき女が。──彼の妻になどなれるわけないと。彼は、こんな私欲にまみれた血生臭い女ではなくて、もっとこう……玉のように清らかな女性と幸せを見つけるべきだ。そうだ。そうあるべきなのだ。


──この夜陰に乗じて、王城から逃亡する。


 自分は卑怯な女だ。いいや、やはり、聖人君子と呼んでもらおう。一国の将来のためにあえてその身を引く。なんという自己犠牲の塊か。


 第二王子をこの城まで無事に送り届ける、という重要任務は終わったのだ。この旅もこれで終わり。


 本音を吐くなら、彼と本当の家族になりたかった。優しくて、謎めいていて、魅力的だった彼。彼を構成する要素、全てという全てが大好きだった。バケツで何回掬おうとも決して涸れることのない深い淵みたいに心の奥底から愛していた。


 ふと、彼の面影がぽつり、ぽつりと、心の中に浮かんでは消えていった。


 涼しげな水色の瞳の目元は、笑ったときにふっと細まって、雲一つなく澄み切った冬の晴れ空のようにどこまでも吸い込まれそうで。


 砂色の櫛通りのいい柔らかな髪は、お日様に当たったふかふかの干し藁みたいで、ずっと触れていたくなる。


 ……冷たいのか、暖かいのか、よくわからない人。でもとても可愛い人。


──だけどもう、彼を思い出すのはやめよう。


 勿体無いが、エレンドールに帰ったら、あの屋敷は売り払わなくてはならない。またあそこに戻ったら見つかって捕まるだけだから。


 考えていた。どうやったら静かに暮らせるか。なるべくフィオラディアから離れた辺境の農村にでも小さな家を買って生きていこう。これまで暮らしたことのない村に埋もれて。のんびりと平穏に生涯を終えよう。


 結婚も、子どもも、諦めよう。彼以外の男性と暮らす想像ができない。たとえ、しようと思ったところで、二十四の処女でもない行き遅れ訳あり女を娶ってくれる物好きなんているわけがない。どうせ孤独に生まれてきた身の上だ。孤独に死ぬのが至極真っ当な道理というものである。


──幸せな、約二ヶ月だった。


 これは人を殺すことしか能のなかった自分に天から下された罰だ。わざと幸福を与えておいて、それを全て奪い去り、地獄の底へと突き落とす。人殺しにはふさわしい罰。


 だが、そんな罰のために見せられた刹那の夢だろうと何だろうと、幸せなものは幸せだった。普通の娘として生きて、恋をする、うたかたの夢。


 この時間があって、本当によかった。それだけは天地神明に誓って嘘じゃあない。


 胸にぽっかりと穴が空いたようだけれど、それも、時間が経つと共に、埋まっていくだろう。


 泣きたいと思ったら、思いきり泣こう。涙は悲しみのしずくとなって、心を洗い流してくれる。流れ出せば流れ出すほど、悲しみは減っていく……。

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