第10話 剣舞
「クラリス様が逃げた!! 逃げたぞ……!!」
衛兵の轟くような叫び声が広大な庭園に響き渡る。彼らが軍隊蟻の群れめいて、黒い塊となり統率をとって殺到していた。
クラリスはその中を巧みな足さばきで臨機応変に逃げ回っていた。あるときは茂みに潜伏し、あるときは柵を軽々飛び越える。目指すは城門ただ一つ。
「最初から私が逃げるのを計算ずくで衛兵に見張らせていた、というわけね。なかなかどうして……」
『頭の回る夫だわ』、とでも続けようとしたのかどうか、クラリスは言葉を飲み込むと、不敵に笑ってみせた。腰の愛剣を抜き放ち、襲いくる衛兵たちを次々に払い除けては、その
衛兵たちからは狼狽した声があがっていた。彼らの包囲網がついに突破されようとしていたとき。
……だが、クラリスの行く先は、一人の男によって遮られた。
「宴もたけなわ、といったところか。──見事、このおれを倒してみせたら、城から出ていくのを許可して進ぜよう」
右手に長剣を掲げ、クラリスに突き出すよう構えている。夜空に高々と水柱を迸らせる噴水の縁に立ち、月明かりを背後にしたその堂々たる姿は、まるで演劇の一幕のようだった。
「許可、なんて偉そうなご身分ね」
今さら逃げようとしたことを言い訳するつもりもない。ことさら挑発するように、クラリスは彼の発言をあげつらう。
「これでも人の上に立つ一国の王子なのでな」
対して、アランは特に気分を害した様子もないようである。
「それにしては随分と小狡い真似をしてくれるじゃないの」
クラリスは心の内に好敵手を見出し、最大限の賛辞を贈っていた。
「なんの、あなたの足元にも及ばないさ」
アランは謙遜に見せかけて嫌味たっぷりに返答した。そして、続けざまに言い放つ。
「おれが勝ったら、今晩はあなたをおれの好きにさせてもらうとしよう」
音楽的な響きで歌うように飄々とした口調だった。漂う冷涼な夜気に乗って、その紛れもない脅迫は、殺意と共にクラリスの耳へと届いていった。
「…………ッ! なに、言ってるの?」
クラリスは耳まで真っ赤に染まる勢いで顔に熱が帯びていくのがわかった。
「おれに負けるのが、そんなに怖いか?」
アランも自分から逃れようとする妻への挑発を惜しまない。彼女を一人の騎士として尊敬するからこそだった。
「ふははっ! ……いいでしょう。あなたには悪いけど、倒されてもらうわ……ッ!」
一笑し、言うが早いか、クラリスが剣を天に向かって高く振りかぶった……と思った刹那には、アランに落雷のような振り下ろしが襲いかかっていた。その速度と力強さに風が巻き起こる。
アランは反射的にそれを、紙一重で飛びすさり、かわしていた。彼の頭部をかすめ、ほんの数本の髪が空中に舞っていった。
クラリスは続けざまに白刃を振り、その動きは軽やかでありながらも、空気を震わせるような猛然とした連撃を叩きつける。アランは
クラリスが唸りを立てて放った烈しく重い一閃を、アランは真正面から受け止めた。互いの息遣いの音が聞こえるほど顔が近づく。
『────!』
二人は無言のままに鋭く睨み合い、静かなる嵐のような緊張感が間に立ち込める。ぎりぎりと軋む音を立てて
しばらくして、二人は呼吸を合わせたように再び距離を取ると、今度はアランが攻勢に転じた。一撃一撃がクラリスの手を痺れさせるほど重く、神速だった。十合以上渡りあい、ついにクラリスはアランの斬撃を受け流した。アランはよろめいて体勢を崩す──。
……ふりをした。
しかしアランの罠に嵌まらないクラリスが素早く反応し、アランの首筋を狙って突きを放った。だが、アランはそれすらも織り込み済みだった。すかさず両足を踏みしめたアランは、自らの首にクラリスの恐ろしい突きが届く寸前、鋭い刃鳴りの音を立てながら渾身の力を込め、雷光のような刺突を横に弾いて逸らした。
剣と剣が交錯し、金属と金属が凄まじい力でぶつかる、けたたましく異様な音が生じ、二人の眼前で火花が飛び散って焼け焦げた匂いがした。
不意をつかれたクラリスがたたらを踏んでその手にある剣を弾き飛ばされたとき、アランはクラリスの喉元に剣尖を突きつけていた。直後、二人は彫像のように動きを止めた。
銀弧を描いて回転しながら宙を舞ったクラリスの剣が石畳に落下し、がらんがらん……と硬質な音を響かせ、その余韻がひとしきり、しじまを打った。
アランはクラリスの喉元から剣尖を離し、空を一閃すると、長剣を鞘に収めた。
「約束通り、寝所に来てもらおうか、クラリス。……悪いが、今晩は手加減できそうにない」
それは、勝者が無惨な敗者へと向けた一方的な宣言だった。続けて、低い声で淡々と衛兵に命令する。
「これ以上、逃げられては困ります。……彼女を捕縛しなさい」
クラリスはそれでも逃亡するつもりだったのだが、当然、その考えもアランに読まれていたらしい。もはや抵抗はせずに、黙ったまま衛兵に縄で縛られていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます