第8話 女神

 与太話にもかかわらず眉間に深い皺を寄せて深刻そうな表情で聞いていた彼女は普段よりもよく飲んでいた。そうしてすっかり酔いが回ったのか、テーブルに突っ伏して今までの葛藤らしきものを酔っ払い口調でつらつらと語り始めた。


「私ね、あなた無しでは生きていけないの。生まれたときから親を知らずに生きてきて、家族なんていらないと思って一人で頑張っていたけれど、いざあなたと出会って一緒に暮らしてみたら、あなたのいない生活はできないと確信してしまって、初めて孤独というものを感じたの。それでそれで、でももう続けられないとわかったから、幸せな記憶を消してまた一人で生きていこうと思ったの」


「…………」


 何も返事ができなかった。


「ね〜、もう一杯〜!」


 酩酊している彼女は、空になったグラスを振り回しながらおかわりを要求している。


「こら、もう遅い時間だ」


 まだ瓶の中に残っていた葡萄酒を彼女の代わりに飲み干した。寄りかかってくる彼女の重みは幸福そのものだ。


「アランさん、だいすき……」


 蕩けた彼女の甘やかな囁き声が耳を擽って、どきり、と胸が弾んだ。


「んん〜っ! ベッドふかふか〜! アランさん……抱いてぇ? 今なら介抱、しほうらいよぉ」


 それも束の間、寝台の上に身を投げ出して、うんと背伸びをした彼女はとんでもないことを口にした。


「そんなことを言っていると本当に襲うぞ」


 冗談と本気が半分ずつ混じった返事をする。


「……って、もう寝ているし」


 枕元に剣を置き、眠りの世界にいざなわれた彼女の、サフラン染めの絹糸を思わせる黄金の髪を愛おしみながら指先で梳いて、白桃みたいに食べてしまいたい頬へそっと口づけを落としてから目を閉じた。


 ◇


 ぐにゃりと風景が歪んで、揺れて見え、頭の中ではくぐもった耳鳴りのような不快な音が反響していた。


 先ほど肩にくらってしまった矢に毒か何かが塗ってあったのだろう。矢はすぐに抜いたが、指先には細かく震えが広がり、その感覚は麻痺し始めていた。身体にはしきりに悪寒が走り、首筋にはいやな脂汗がじわりと浮かぶ。


 一人の刺客が槍の間合いに入り、腹を真横に薙いだ。とっさに身体を反らし避けようとしたので体勢を崩して落馬してしまう。腹に焼けた火箸を当てられたような熱い痛みが走ったが、刺客が狙ったほどの深い傷にはならなかった。


 馬が狼狽したようにいなないて、走り去っていく。転んだ衝撃は受け身を取っていなし素早く跳ね起きたが、刺客は間髪入れず、追撃をしかけてきた。唸りをあげて喉元に迫る剣尖を穂先で弾き飛ばす。耳の痛くなるような金属音が響いて、周りの樹々の黒々とした網目の中に吸い込まれていった。


 獰猛な人間たちの気配で獣たちがすっかりと息を潜めてしまった恐ろしいほど静けさに沈んだ森に、剣戟の音だけが虚ろにこだまする。


 すでに刺客を三人斬り捨てて、残りは二人だった。意を決して一人に斬りかかる。ここで野にしかばねを晒すわけにはいかなかった。意表を突かれた刺客が一瞬見せた隙を逃さず、胴を斜めに斬り裂いた。


 背後にいたもう一人の刺客が怒声をあげながら振り下ろしてきた刃は避けられなかった。背中を肩から腰まで深く斬られたが、今度は不思議とあまり痛みを感じなかった。直感的に石突いしづきを後ろへ突き出すと確かに手応えがあって、刺客がうめいた。どこかの急所に当たったようだった。渾身の力で振り向き、そのを刺し貫く。断末魔の声はなかった。


 頭まで痺れたようになって、全てが終わってもしばらくはぼうっとその場に立ち尽くしていた。眠くなるような寒気が襲ってきて、意識を保つことに精一杯だった。血が身体をつたって濡らしている。上着を脱いで背中の傷の上から縛ってみたが、血止めの効果があるかどうかはわからなかった。


 幸いにも、乗ってきていた馬は近くの茂みに手綱が絡まっていて逃げ出していなかった。槍を杖のようにして歯を食い縛りながらなんとか近づくと、馬は濃厚な血の臭いに怯えたのか、白く目を剥いて、首を反らしながら鼻を鳴らした。縋りつくようにして馬に跨がり、たてがみに額をつけて、駆け始める。ひと揺れごとに身体へ走る激痛が、かろうじて意識を闇の淵から引き戻していた。


 森を抜け草地に出ると、遥か遠くの山並みに沈み行く太陽が稜線にたなびく雲を茜色に染め上げているのが見えて、もう少しで夜のとばりが下りようとしているのを告げていた。たそがれの中、風に揺れる草の野は、まるで己が木の葉となって嵐にうねる底なしのうなばらを渡っているような、あんたんたる心持ちにさせるのだった。


 『どこかで傷の手当てをしなければ死ぬ』という冷え切った感情が頭の片隅にあったが、頼る当てがないのもまた事実。


 ……いや、ある。それも、たった一つだけ。


 己の身分を示す手がかりとなるものを全て短剣で剥ぎ取っては捨てていく。それは非常に危険な賭けだったが、ここで死ぬよりかはマシかもしれない。こうして、『敵陣』の方へと馬首をめぐらせた。


 ◇


「またこれか……」


 この悪夢をたびたび見る。傷を針で抉られるような痛みや、焼けつくように鮮烈な痛みが突然何度も繰り返されて、わめいたような記憶が残っている。


 ふと隣を見やれば、清麗としたはくせきの顔を油灯の揺れる光に淡く浮かび上がらせた彼女が、すやすやと静かな寝息を立てていた。


 もう何度も肌を合わせているのだから、背中の傷跡は見られているだろう。しかも真新しいもの。


 故郷フィオラディアに己の過去という過去、何もかもを置いてきてしまった。人間関係、生まれ、責務……。


 しかしながら、目の前の愛おしい彼女の寝顔に勝るものは何一つない。むしろ、故郷には怒りの感情しか湧いてこない。


 そんな怒りも、彼女と一つに融け合っているときだけは忘却の彼方に捨て去ることができた。まさか、初めてのときは『犯してほしい』、『罵ってほしい』なんていう、とんでもないお願いをされるとは思っていなかったが。あれはあれで楽しめた気がするので、まあ、いいだろう。喜んでくれたのならそれでよし。


 ◇


──いつか、女神が現れた。


 蜂蜜色の煌めく豊かな髪をきっちりと一つに結わえ、例えるなら南の海のような青緑色の美しいつぶらな瞳が興味津々そうに覗いてきた。背がすらりと高く、しゃんとしたその立ち姿は、武人であるおれには、容易に手玉に取ることのできない相当にしたたかな女性だとわかった。


 金貨がずっしりと詰まった袋一つ。それがおれの値段だった。


 出会ったばかりの未知の男、それも元敵国の人間と同じ屋根の下にいるというのに、彼女はまったく恐れなかった。殺されて金を奪われて逃走される危険性すらあったのに。


 彼女から食事を渡され、『別の部屋の床に座って食べる』と言ったら、『同じテーブルについて食べよう』と彼女が食べる食事と変わらない内容のものを振る舞ってくれて。


──その晩、いきなり彼女と交わった。


 おれの上で、下で、救いの女神が淫らな肉欲に溺れている。清き女神を冒涜している背徳はたまらない興奮。おれの手の中で玩具のように彼女が乱れ狂う。


 半身を起こした彼女からキスを求められ、その柔らかな胸を揉みしだきながら唇を激しく貪る。ただ醜い肉欲のままに女神の全てを喰い散らかす獣に成り下がってしまった。


 先刻まで何も知らぬ処女であったはずの彼女は、今はおれに穢される快楽の味を覚え、何度もおねだりをしてくるのだ。


 再び最奥に己のものを刻み込めば、淫靡な水音がそこら中に響き渡ると共に、彼女とおれが熱をもって融け合っていく。おれの熱に応えるように彼女がおれを抱擁してきて腹の底から込み上げるような衝動を堪えるのに苦労する。彼女が身をよじるたび、豊かな胸がふるり、ふるり、と滑らかに流動する様子は絶景というほかない。


 おれの肉体は全て彼女を悦ばせるためにあり、同じく、彼女の肉体は全ておれを悦ばせるためにあるようだった……。


 翌朝、使用時以外は鎖に繋がれるのかと思っていたら、夫になって欲しいと言われて。


 どうも調子が狂う。


 はっきり言って彼女は異常者だ。


 人の善意だけを信じている。


 それはとても危ういことだ。


 逆に並の男程度など、どうにでも対処できるという自信の表れかもしれないな、女騎士だそうだし。


──過去の全てを失ったおれの前に降臨した女神。


 そんな、胸の奥に熱いものが込み上げてくる思い。その熱の塊は、涙として形になってしまいそうだ。


 おれは、全くもって愚かなことを考えている。


 女神のことを第一に考えるなら、一刻も早く彼女の前から立ち去るべきだった。奴隷として買ってもらった恩も忘れて。恩知らずとそしられようが、人道にもとる行いだろうが、真っ先にすべきことだった。


 恋心とは、なんて厄介なものなんだ。おれはそういう、身勝手極まりない理由でおれの事情に彼女を巻き込もうとしている。


 それは初めて知った感情。彼女と身体を重ねるたび、どうしようもなく身を灼き焦がす焔のような愛が溢れて止まることを知らなかった。好きになってしまった相手だからこそ、己のものにしたいという欲求が抑えられなかった。


──それは、どす黒い泥のような独占欲だった。

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