第7話 回想
船の甲板に出ると清涼な潮風が吹きつけてきて、クラリスが着るドレスの裾を触れては去っていくようにはためかせた。
「綺麗ね……!」
海の青と空の青が彼方の水平線で混ざり合い、今この瞬間も白い波濤が誕生しては消えていく、無辺に続いている水の連なりに息を呑む。
「船旅にしてよかったな」
アランが隣で感慨深そうに目を細めた。
二人はフィオラディアまでの旅路に陸路ではなく海路を選んだ。船での移動は、馬車の乗り継ぎで街道を移動するより多少旅費がかさんだが、普段は馬に乗って移動するばかりの騎士なのだからと、クラリスが船旅にすることを提案したのだった。
エレンドールとフィオラディア、そして周辺諸国を繋ぐ内海。先の両国間の戦によって航路が閉ざされていたが、二国が和平して修好を結んだことによって、自由に往来が可能になった。せっかくなので利用してみるというわけだ。屋敷を出立してから丸一日、徒歩で港街まで移動した二人は、翌日、フィオラディア王都フューネル行きの船に乗り込んだ。片道三日の距離である。
海の眺められる食堂室で、遅めの朝食を摂る。中途半端な時間だからか、二人以外の客の姿は見られなかった。幸運なことに一番いい席で食事ができる。
「ん〜! ぷりぷりの食感で美味しい。船の上で食事するなんて初めてだわ」
クラリスはバターとマヨネーズを塗ったトーストの上に塩ゆでしたたっぷりの小エビとレタスとゆで卵をのせて、ディルとレモンを添えた、贅沢なサンドイッチにかぶりついて小さく唸った。
「王室専用船で保養地の離島に行ったことを思い出す」
一方のアランが口に運んでいるのはジャガイモをすりおろしたパンケーキ。何段にも重ねられたてっぺんにはサワークリームが乗っていた。白ソーセージと、野菜やキノコが具材のオムレツも一緒に付いている。
「さすが、発言が王族そのものね」
「むろん、あなたも連れて行くさ」
アランは食べていた手を止めると、クラリスをじっと見つめた。
「ありがとう。……叶うといいわね」
クラリスは口の端を少し緩めて、わざとはぐらかすように答えた。
◇
その晩は、港街の市場で見つけていた葡萄酒を開けて乾杯した。手狭な客室だが、新しい船なので小綺麗な部屋だった。船が揺れ動くのに合わせて、葡萄酒の赤紫色の液面もゆったりと
クラリスは油灯のぼんやりとした明かりに照らされ、口を半月の形にして闊達な笑みになっていた。
「凄いでしょ、私! この歳までお金を使うアテなんて一切なかったんだから! オシャレも何も、私には不要だったんだから! ふんっ!」
彼女はグラスを片手に強がってみせた。わざわざ身を飾らなくとも、ありのままの姿で美しいからこそ、その言葉にはやけに嫌味がない、とアランは思うのだった。
「この数ヶ月間、おれの面倒を見てくれてありがとう」
「礼なんていいわ。その代わり、あなたのことをいっぱい聞かせて」
クラリスは、今までずっと気になりつつもたずねてこなかったアランの過去を、ようやく訊いてみることにした。
「……ああ。酒の
******
──アラン・フィオラディア。
それが、親というより、天から与えられた、避けようもない運命として定められたおれの名だった。
正室の母がかつて言ったこと。
──『おまえはもしものときの予備なのです。それを常に頭へ入れておきなさい』。
よほど、兄の母──側室に、国王──父の寵愛と第一子を授かる機会を奪われたのが気に入らなかったのだろう。
母の躾は厳しかった。誰よりも賢く、誰よりも強くあれと、学問も礼儀作法も武芸も、何もかもを叩き込まれた。いっそ、母が母自身の存在意義を見出すためだけに操られている人形だと思ってしまう方が楽だった。
兄──王太子は、第二王子である弟が自分より遥かに優秀であることを知った途端、態度が冷たくなった。幼い頃は、片時も離れたくない大切な弟だと、とても可愛がってもらったのに。春の日は庭園に咲く花木の下でピクニックをしたし、夏の日は一緒に氷菓子を作った。秋の日はどちらが多くどんぐりを拾えるか競い、冬の日は雪だるまを飾って雪合戦もした。
おれにとっては大切な兄だった。だが、兄にとってのおれはそうではなかったらしい。
正室の子より半年先に生まれた側室の子だというだけで、王太子となった兄。母親の家柄から考えれば、王太子になるのは当然のごとく弟のおれであるはずだった。だが父は、無理矢理に政略結婚させられた正室の子であるおれではなく、桁違いに可愛らしい側室の子である兄を王太子に選んだ。
今思えば、噛み合う歯車という歯車、全てが狂っていた。
王太子の弟、いずれは王弟になる者として騎士となり、兄を支えるべく、古くから国境付近の領土権をめぐって争いが起こっていた敵国エレンドールとの戦に臨んだ。
しかしながら兄は戦を、おれを密かに殺すための絶好の機会だと捉えたようだ。戦場でおれが名誉の戦死をしたことに見せかけて。……実に兄らしい。
『そこまでおれは兄から憎まれていたのか』、という思いが、毒矢を受けた瞬間に頭をよぎった。そして、フィオラディアに帰る場所はもう無いのだと悟った。
──もともと、クソみたいな故郷だったじゃないか。
それを知っていながら、あえて気づかぬフリをしていた己が愚かだったと、あまりにも遅すぎる自嘲をした。
だがそのときだった。『ちくしょう、野垂れ死んでたまるか』という、もっともらしい生存欲求が湧いてきたことに、おれ自身で驚いていた。『おれはこのまま祖国の
──まだ、死にたくない。
祖国への怒りそのもののような根源的な生存欲求に縋った。生きるため、刺客を殺し、生きるため、奴隷に身を堕とした。
名を偽り、傷を負って弱りきった雑兵のように振る舞った。身分を察知された瞬間、フィオラディアに強制送還され、命はないとわかっていたからこそ、屈辱を耐えることができた。
こうして……女か男か、金で他人に生命を買われ情を
だがそのとき、なぜか今まで感じたことのないほどの『自由』というものを味わっていた。
もう誰かの上に立って人を導くこともなく、誰かに従属する安堵。飼い慣らされる充足感。
王宮で出された、毒味やらなんやらですっかり冷めきった料理より、奴隷商の館で味わった、具の少ない、だが熱々のスープの方が、よっぽど美味に感じた。
おれの感覚が狂っているのか、それともおれを取り巻く世界の方が狂っていたのか、もう判別のつけようがなかった……。
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