第6話 転換

「これでよし、……と」


 アランとのささやかながらも幸せな新婚生活を送っていたクラリス。飛ぶように二ヶ月が経過していたのだった。


 元敵国フィオラディアの王太子が弟の第二王子の殺害未遂罪で失脚した、という事件はこのエレンドール王国をも騒がせる事態となっていた。未だ行方不明の第二王子。エレンドールとの戦で王太子の刺客によって騙し討ちにされ手傷を負わされたことまでは判明していたが、その後、ようとして消息が知れないそうだ。


 消えた第二王子の行方について情報提供をした者には賞金まで与えられるとあって、第二王子の逃亡先かもしれないエレンドール国内も彼を捜索しようと沸き立っている。


 第二王子の身体的特徴。くすんだ金の髪。水色の瞳。長身の細面。


──名は、『アラン』。


 完全にやらかしていた。まさか己の欲望のままに買った性奴隷が元敵国フィオラディアの第二王子だと普通は思わない。


(こんなのがバレたら市中引き回しの上、打ち首獄門よ)


 自分の身はこの際いいとして、彼に『子どもが欲しい』とあまりにも不遜なことを言い、何度も何度も性交渉を……! 知らなかったとはいえ、王族の子が欲しいと軽々しく言うなど、万死に値するだろう。


(私は身勝手な女だわ)


 そんなことを思い返しながらクローゼットの中から古い旅用コートを取り出して、身にまとった。


 『第二王子殿下アランさん』の前から消える。普段は寝室を別にしているから、自分の寝室には置き手紙を残してきた。……そこには一言。


──『私のことは忘れてどうか幸せになってください』、と。


 彼が目を覚ました頃には、いなくなっている手筈だ。


 付き合いの短かった屋敷の外に出ると、ちょうど夜明けで、その眩しさに目を細めた。目に映る世界全てが暁の紫一色に染まっている。雲一つない空に太陽が白く燃えて、とりわけ美しい光景だった。それにしても、あの暖かな光の色と比べて、なんという寒風が吹きつけるのだろう。


「こんな早朝からどちらへお出掛けに? ……クラリス」


 この二ヶ月間、聞くたびに胸が高鳴る声が耳を、そして心臓を打った。


「アランさん!? いえ……第二王子殿下」


 背後から呼び止めてきたのは紛れもなく彼だった。どうして彼がここにいるのか?


「ああ、やはり、気づかれていましたか」


 彼は困ったように眉を下げて、優しいような皮肉っぽいような微笑を浮かべた。ふと気づいた。彼もまた、まるでこれから旅をするような荷物を持っていることに。


「殿下こそ、どこへお逃げになろうとしているのですか」


 笑いを堪える方に必死になってたずね返した。やがて、細めていた両目から勝手に涙が出てくる。つん、と鼻の奥が痛くなった。どうしようか、止まらない。


「おれも置き手紙をしようと思ったのですが、あなたの寝室に置いてあったのを読みましたよ」


 彼の手にあるのは、クラリスの書いた置き手紙と、彼が書いたらしき手紙の二枚。


「私のだけ読まれるのなんて不公平です。殿下のも読ませてください」


 彼は黙って手紙を差し出した。そこに書いてあったのは、やはりたった一言。


──『夢のような時間をありがとうございました』。


 手紙に落としていた視線を上げて、彼の顔を見つめた。


「……殿下も私と同じ、ずるいお人ですね」


「その、『殿下』呼びも、敬語も、やめません? 対等な夫婦でしょう?」


 彼はねだるように、首を少し傾げた。その恵まれすぎた顔立ちゆえ、仕草がずるく見えることこの上ない。


「じゃあ、『アランさん』も、私にだけは敬語を使わないで。私はあなたのご主人様じゃないのだから」


 こぼれる涙を手の甲でぬぐい去る。


「承知した。……おれの女神」


 彼は形のいい顎に手を当てて、たまらなく愉快そうに笑んでいる。


「女神? 何、それ。……いたたまれないわ」


 初めて彼の口から発せられた『女神』という呼び方に戸惑う。


「おれを見つけてくれた女神だ、あなたは」


 彼が自分のことをそんなふうに思っていたなんて全く知らなかった。汚い我欲で買ったというだけなのに。


「なあ、これからどこかに逃げるというのなら、いい逃げ場所がある」


「……どこかしら?」


 予想はついているけれど。


「フィオラディア王城なんていかがだろうか?」


 そう冗談たっぷりの言い回しをしておいて、ふざけた表情から一転し、真面目な表情になった彼が、こちらにゆっくりと近づいてくる……と思ったら、ぎゅうっと抱きしめられていた。こんなの、逃げられるわけがなかった。逃げようとしていた自分が馬鹿だった。まあ、目の前の彼も逃げようとしていたのだが。


「私には頼れる家族もいない。……身寄りのない孤児だわ。騎士団に拾われたというだけのね」


 彼に自分が孤児だと伝えるのはこれが初めてだった。家族の話をしたことすらなかったから、とっくに彼は気づいていただろう。


「おれという家族がいるじゃないか」


 そっと耳を当てた彼の胸の奥から大好きな落ち着いた声が響いてくる。もっとその声を聞いていてもいいのだろうか?


「頼っても、いいの?」


 彼の背中に手を回して同じくらいの力で抱きしめ返した。胸が苦しいのは、抱きしめ合っているからなのか、それとも、彼のことを離れたくないほど愛おしいと思っているからなのか。きっと両方だ。


「フィオラディアに着いた途端、刺客が待ち受けているかもしれないぞ」


 彼の口調はこの状況を面白がるようだった。


「私を誰だと思っているの? エレンドール随一の女騎士よ! あまり自称はしたくないけど」


 腰に愛剣は差している。


「奇遇だな。おれもフィオラディアで一番の騎士だと呼ばれていた」


「やっぱり、あなた、戦えるのね。只者ではないと思っていたけれど。……手には分厚い剣だこ。隙のない身のこなし」


「今は剣を奪われて、戦力外だけどな」


 徒手であることをことさら示すように、彼は肩をひょいっとすくめてみせた。


「……ちょっと待ってて」


 いったん屋敷の中に戻って、居間に飾ってあった予備の剣を取ってきた。


「はい、これ。女物の細いこしらえだけど」


 鞘ごと彼に手渡す。


「や、これは助かる」


 受け取った彼は、とても嬉しそうに顔を綻ばせた。相当に剣が好きらしい。


「今晩は飲み倒すわよ!」


「気が早いお嬢さんだ」


 こうして、フィオラディア王国へと向かう旅路が始まったのである。

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