第5話 孤独

 とある日の朝一番、いつもなら普段着に着替えているはずのクラリスは、まだ寝巻き姿で居間に降りてきた。


「おはよ……アランさん……」


 毎朝クラリスよりも早く起き出して腕立て伏せや腹筋運動に励むのを日課としていたアランは、目ざとくクラリスの異変に気がついた。


「おはようございます、クラリス。……どうしました? 顔色が悪いですよ」


 アランは眉を曇らせた。


「けほ。……アランさん。風邪、ひいちゃったみたい」


 軽く咳き込みながら、ぐったりとした表情でいるクラリスの額にアランは手を当ててから、もう片手で自分の額にも触れて彼女の体温を確かめた。


「本当だ、熱がありますね。……ちょっと待っててください。今、何か消化のいい朝食を作りますから」


 妻が風邪をひいたかもしれないなんて一大事である。


「ありがとう、アランさん」


 しばらくして、アランが盆に載せた朝食を運んできた。


「簡単ですが、麦粥と玉葱のスープに目玉焼きです」


 麦粥は牛乳と蜂蜜で甘く味付けしてある。飴色になるまで炒められた玉葱のスープは柔らかく煮込まれ、上にはチーズがとろけていた。目玉焼きは卵二つ分。

 

「……おいしい! アランさん、料理が本当に上手ね!」


 クラリスはしなびていた顔を綻ばせて、ひたすら匙を口に運ぶことに集中した。アランと暮らし始めてから、もう一ヶ月が過ぎる。彼は料理が得意で、クラリスと一緒に台所へ立つのが毎日の習慣となっていた。


「クラリス、おれは市場で買い物をしてきます。あったかくして寝ていてください」


 アランが屋敷から出て行ってしまった後、寝室で一人寝込んでいたクラリスは様々な夢を見た。王国騎士団でしごかれていた修行時代、戦場で初めて敵を殺す経験をしたときの忘れようもない手の生々しい感触とその恐怖、幼い頃から共に過ごしてきたかけがえのない仲間が戦死したときの慟哭……。


 ◇


 昼前にアランが屋敷へと戻って寝室の様子を覗くと、クラリスは朝よりもさらに高熱が出ていた。水で濡らして固く絞った布巾で、妻の額にびっしりと浮く汗をぬぐいながら、アランはその寝顔を観察していた。


 大金を払ってまで自分を買ってくれたあるじ。とうに彼女は自分のことを明白に訳ありだと察しているだろうに、気を遣ってくれているのか、未だ直接的にたずねられたことはない。


「ん……帰ってきたのね、アランさん」


 クラリスの目が開かれた。その瞳は少し潤んでいるように見える。


「目が覚めましたか」


「なんだか、寒気がひどいわ」


「カモミールのハーブティーを淹れました。水分を摂りましょう。今、リンゴを剥きます」


 寝室にはカモミールの優しい香りが湯気と共に立ち昇っている。クラリスは思わず、胸いっぱいにその香気を吸い込んでいた。


「いい香り……」


 アランはくるくるとリンゴを器用に回しながら、ナイフで皮を剥き始めた。


「いつか、風邪をひいたとき、母がリンゴを剥いて食べさせてくれました」


 初めて、アランは己の過去を語る気になった。今なら片鱗でも話していいと、そんな気がしていた。


「お母様が?」


「母は内心で苦手だったのですが、今思えば、母にも母なりの優しさがあったのかもしれませんね」


 手の中で回るリンゴを見つめながら、アランは母の面影を必死に思い出そうとしていた。


「……『あった』?」


 クラリスはアランが過去形を使ったことに気になった。


「……ええ。母は亡くなりました。おれが二十のときに。ある日、突然倒れて、そのまま……」


 あまりにも、あっけない死だった。葬儀も淡々と済まされ、感傷にひたる暇すらなかった。


「そうだったの……」


 クラリスが同情を見せると、アランは『気にするな』、と言うように軽く微笑んで首を横に振った。


「これで故郷に帰らなくていい理由が一つ増えているわけですから」


 これは、アランの奥底から滲み出すような本心だった。およそ、己の過去というものに執着をせず、心の機微を動かさないのが、彼の長所か短所か、象徴的なところだった。


「お父様は?」


「父は、おれが生きているかどうかなんて、きっとどうでもいいでしょう。父は、そういう人間です。おれが幼い頃から、愛情というものを受けたためしがない」


 アランはさして感動もしていないような口ぶりで語ってみせた。


「そんな……!」


 実の親からの愛情を受けたことのないクラリスですら、アランの語る過去のむごさがひしひしと伝わってきた。


「まあ、おれには家族はいても、実質いないようなものなのです」


「……なんだか、アランさんに親近感が湧いたわ」


 やはり彼も満たされようのない孤独を抱えていて、自分たちは互いに似たもの同士だ。クラリスにはそう思えたのである。


「奴隷の身でおこがましい言い草ですが、おれにとってはクラリスだけが唯一の家族です」


 アランにとって嘘偽りのない、まっさらな心境だった。


「もう、自分のことを奴隷だなんて言わないで。あなたは自由な一人の人間よ」


「……ありがとうございます」


 クラリスはリンゴをひと齧りした。そのしゃくっとした歯ごたえと、果汁の甘酸っぱさは、クラリスを胸の痛くなるような悪夢から醒まさせてくれるようだった。


──三日後、クラリスの風邪はすっかりと治った。


「看病してくれたお礼がしたいの。何か欲しいものはある?」


 もじもじとしながらアランにたずねてみる。


「おれはクラリス以外には、特段、何も要りません」


 アランは無欲なのか、それとも、強欲なのか、ここは判断がしづらいところだった。


「じゃあえっと、そのお……久しぶりに今日、する?」


 アランのはにかんだ笑顔が全てを物語っていた。

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