第4話 褒美

 たった数日で、アランは本当の使用人かのごとく、越してきたばかりのクラリスの屋敷を綺麗さっぱりとしてしまった。一人暮らしで節約ばかりしていたクラリス。その例に漏れず、選んだ中古物件の屋敷には、よく見ればいたるところに埃や汚れが溜まっていて、屋根裏や天井の角には蜘蛛の巣まで張っていた。


 高身長のクラリスですら見上げるほど背の高いアランは、脚立なしでもその長い腕で高い場所を余裕そうに掃除するのだった。さらに高い場所は彼がクラリスを軽々と抱きかかえてしまい、クラリスが手を伸ばして届かせる万全な協力体制。


「助かったわ、アランさん」


 埃除けに口をハンカチで覆ったクラリスが親指を立てた。


「クラリスのためなら、これくらいお安い御用です」


 そしてまるで執事のようにアランはうやうやしく華麗な一礼をしてみせた。


「お礼にご馳走するわ! 何か美味しいものを食べに行きましょう!」


 アランと外食するのは初めてのこと。


「お礼だなんて。奴隷の同居人ですよ? 当然のことをしたまでです。外食をいただくなんて、おれには過ぎたること……」


 アランが奴隷商から躾けられるようにして施された、奴隷としての立場をわきまえろという教育。アランはその目には見えない障壁を簡単に打ち砕いてしまうクラリスに内心で迷いを見せていた。


「いいから遠慮なしよ! 好きな食べ物は? お酒は飲める?」


「……に、肉とかでしょうか。酒は、飲みます」


 クラリスの愉しげな雰囲気に、アランはささやかな抵抗を折ることにした。何よりも彼女の笑顔を曇らせるような真似をしたくなかったからだ。

 

「よし、着替えて出かけましょ!」


 突っ立っているアランの背中をクラリスが嬉々としてぐいぐいと押す。遠慮したくないのはクラリスの方だった。普段なら決して行かない高級料理店に体よく突撃する理由が欲しかったのもある。


 クラリスは細身なデザインがお気に入りの青磁色のサテンドレスを着ることにした。今まで騎士服ばかりを毎日身につけていた彼女が着ることのなかったもの。やっとの思いで買ったのだ。内心ではずっと憧れていた。御伽話の中のような華々しいドレスをまとった貴婦人たちが、虹色の燐光に煌めくシャンデリアの下、ダンスやお茶会に興じる……。そんな、輝かしき世界。


 だが、自分が見てきたのはこの世の地獄。血と臓物と泥にまみれた戦場。


(まあ、国王陛下から褒賞金を賜ったと同時に軍は退役したのだけどね!)


 この国の女性は十代後半で結婚する事例が非常に多く見受けられる。クラリスもさすがに二十四歳。家庭を持つことを考える時期はとっくに過ぎていたのだった。


「着替え終わったわ、アランさん。……うっわ、素敵!!」


 同じく着替えを終えたアランが姿を見せる。それは、一切の所持品のないアランの服を揃えたとき、彼女が見立てて購入したものだった。


 首元にクラバットを結んだ白いシャツの上に光沢のある生地のウエストコートを羽織り、黒のトラウザーズに革のちょう。それと言って飾り気のない服装だというのに彼からそこはかとなく気品を感じられるのは、やはりその凛々しい佇まいによるものだろう。


「どこかの国の王子様みたい……!」


 美丈夫とは恐ろしいもので、どんな服でも似合ってしまうようだ。

 

「王子様……ですか。そんなことより、今日のクラリスは一段と綺麗ですよ」


「本当? 嬉しい!」


 だがこのとき、興奮していたクラリスは気づいていなかった。アランが『王子様』という単語を聞いた途端、物憂げに長い睫毛を伏せ、ことさら話題を変えるようクラリスを誘導したことに。


「行きましょ、アランさん!」


「……ええ」


 クラリスに手を引かれつつ、アランは屋敷の外に出た。


 ◇


 クラリスがアランを連れたのは、屋外客席から流れる運河の風景を楽しめる店だった。柵に沿って植えられたつるバラが葉の緑の上に小さな白い花を満開に咲かせていて、一面に牡丹雪が降り積もったようだった。その甘い香りが微風に漂ってふわりと嗅覚を擽る。ときおり、手漕ぎ舟が荷物やら客やらを乗せて、船頭の口ずさむ陽気な歌に合わせて運河の上を通り過ぎていく。


 注文からしばらくして、給仕が鉄の大皿に載せられた、じゅうじゅうと湯気を立てる肉の塊をテーブルの中央に据え置いた。それと同時に赤葡萄酒のグラスも並べられていく。二人用の小さなテーブルはそれだけでもいっぱいになった。


「……来たわね? この店の名物、『鹿肉のロースト』!」


 クラリスは野趣あふれる鹿肉のローストを専用の大きなナイフで豪快に切り分けた。切り目がまるで紅玉ルビーのように赤々と輝く、かぐわしい匂いを振り撒いているロースト。それは、二人の食欲を刺激するにはあまりにも充分すぎた。クラリスは分厚い一切れを、恐る恐る口に運ぶ。


「んん────っ!」


 次には目を真ん丸とさせて、繰り返しうなずいていた。ソースのピリッとした香辛料が鼻に抜け、塩辛さが舌を刺す。噛み締めるたび熱々の肉汁がじゅわりと口の中に広がっていく。


 そして赤葡萄酒を口に含む。……言うまでもなく、二つの相性は抜群。赤葡萄酒の芳醇な香りと渋みが肉の旨味やコクと複雑に絡み合う。絶品だった。


 もう空にしたグラスを置いて、ちらりとアランの表情をうかがってみる。


 彼は、片手で両目を押さえ、椅子へと仰け反るようにしてもたれかかっていた。その口角は上がりきっている。


「アランさん、美味しい?」


 たずねるまでもないだろうが、アランのここまで純粋な喜びの表情を見るのは初めてだった。


「ええ! こんなに美味なものを食したのは本当に久方ぶりでして……! お酒も……!」


 その声は跳ねるように上擦っていた。きっと奴隷になってからの食事はよほど酷いものだったのだろうと容易に想像がつく。


「美味しいもの、もっともっと食べに行きましょうね!」


「はい……!」


 思えばアランにはすでにたくさんの苦労をかけていたのに、ろくにそれへ報いていなかったことに気づいた。


「はい、あーん」


 クラリスはローストをフォークに突き刺して、アランの口へと差し出す。


「…………」


 アランは少し躊躇ためらいながらも、妖艶に弧を描く唇をフォークに滑らせた。もぐもぐと咀嚼し、喉仏が上下する。そうして口の周りについたソースをちろりと舌で舐め取る。どこか色気のある一連の様子をクラリスはにやつきながら観察していた。


「アランさん、可愛い」


 追加でもう一切れ差し出す。


「もう、私で遊ばないでくださいよ、クラリス」


 そう言っておきながら、アランは再びフォークに口を近づけていった……。

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