第3話 明朝

 ピチチ……と、どこからか小鳥の愛らしいさえずりが聞こえてくる。大きくあくびをして深く息を吸えば澄明な空気が胸いっぱいに取り込まれ、まだ夜明けすぐであることを告げていた。窓のレースカーテンの隙間から漏れ出る橙色の朝焼けが部屋の壁を照らし、わずかに舞う埃を、空からすっかりと消え失せてしまった星屑の名残のようにきらきらと輝かせている。


(まるで、猛獣の交尾ね……)


 そんな、清々しい朝とは全く似つかわしくないことが眠い目をこするクラリスの脳裏をよぎる。騎士として体力には相当自信のあったクラリスもさすがに疲労困憊だった。身体が鉛でできているかのように重く、言うことをまるで聞いてくれない。まだ股の中に何か挟まっているような鈍痛にも似た違和感も残っている。


 アランは宣言通り、その絶倫を遺憾なく発揮してクラリスが嫌というほど処女を貪り尽くしてくれた。一晩でこれほどまでに男の精を受け止めたのなら、処女とは対極に位置すると言ってまず間違いないだろう。空が白むまで、およそやってはいないものはないのではないかというほど様々な体勢で交わり続け、散々果てを見させられた。


 あくまで性奴隷として命令された立場であるというにもかかわらず、一日千秋の想いで恋焦がれた相手を抱くかのように、最後の最後まで一切の手加減などせずに扱ってくれたのが嬉しい。アランはクラリスを徹底して罵倒し続けてくれた。本当はたまらなく嫌だったろうに、クラリスの執念を叶えるために一生懸命になってくれたのだった。


 王国一の女性騎士であるからこそ、『オスの圧倒的な力の前になすすべもないメスになりたい』。そんなクラリスの狂気的なまでの念願は、アランのおかげで全て成就したのである。


「クラリス! 大変申し訳ございませんでした! その……クラリスからの頼みだったとはいえ、本当に下品で無礼な発言ばかりをいたしました」


 二人で仲睦まじく朝食を摂った後、アランは最初にクラリスが下げた角度と同じくらい深く頭を下げた。ここでもう用済みだとして斬首されても仕方ないと覚悟を決めた謝罪だった。


「いいのよ! 本気で──真面目で親切にあなたが私を喜ばせようとしてくれるのが嬉しくて……」


 そんなことをアランが考えているとは知ってか知らずか、平身低頭に謝る彼を宥めるようにクラリスはその頭をひとしきり撫でた。


「そ、そうですか……。クラリスが喜んでくれたのなら一安心です……」


 頭をゆっくりと上げたアランは長身をかがめて、厚い胸をほっと撫で下ろした。

 

──昨晩の過激な行為は双方同意の上かつ真摯な愛の営みである。


「ねえ、私の夫になってくれない?」


 最初からクラリスはアランをついの伴侶とするつもりだった。単なる同居人ではなく家族として迎えたい、と。


「おれでよろしければ、お願いします」


 アランの方もクラリスの隣が自分の居場所と定めていた。


「アランさん……あなたは……」


(どこから来て、何を見てきたの?)


 クラリスはたった今この瞬間、夫となることを誓ってくれた目の前の優しい青年に問いかけてみたかった。


「どうしました?」


 アランが訝しげに片眉を跳ね上げた。最初は表情筋が存在しないのではないかというほど感情を表に出さない人物に思えていた彼は、昨晩の営みで表情が豊かどころか、とんでもない演技者であることが判明していた。


「……いえ、なんでもないわ! 気にしないで」


 クラリスは曖昧に微笑んで首を横に振った。


(まったく、私の悪い癖だわ。……思ったら行動せずにいられないのよ)


 カーペットの模様に視線をおとして思考を巡らせる。訊きたいことは山ほどあったが、きっと彼は聡い。詮索すればすぐにそれと察してしまうだろう。おそらく彼にとって、過去のことをたずねられるのは傷を抉られるようなものなのだ。……当たり前だ。彼だって、性奴隷になりたくてなったわけではない。彼に嫌われたくないのなら、探るような真似は一切しない方がいい。


(それに、私に買われたくて、買われたわけじゃない)


 自分は勝手に彼のかけがえのない自由と時間を奪っているのだ。『金銭で買う』という、最も卑劣な行為によって。


(いつかは、彼に自由を返してあげたい)


「アランさん」


 クラリスは再び背の高い彼の顔を見上げた。


「はい」


「いつか、自分のことを話したくなったら、そのときは教えて欲しいわ。それに、故郷にも連れて行って!」


「クラリス……」


 アランの薄氷色の瞳がわずかに揺れた。


「おれは、故郷には……フィオラディアには、生涯帰ることのできない身なのです」


 アランは顔を少し上げると、どこか漠然と遠いところを見つめて淋しげに微笑んでみせた。


「どうして? 私に買われたから?」


 すると、アランは否定を示してか、左右に首を振った。


「そうではない。……そうではないのです」


 クラリスは心の中で不可解だと小首を傾げる。


(ただの兵士として捕虜になったのなら、今、自由の身になった彼は、帰ろうと思えば帰れるはずよ。……それがどうして?)


 フィオラディアに帰ればエレンドールと内通した裏切り者として処罰されかねない、と彼は言いたいのだろうか。


「エレンドール王国騎士として、私があなたの身分を保証するわ! ……だから心配しないで」


 クラリスは彼の心を励ますように、そう声をかけたのだが……。


「それでは余計に駄目なのですよ、クラリス」


 アランの両目には苦笑の鈍い色が滲んでいた。


(やっぱり彼は、私には想像もしえないほどの途方もない事情を抱えているのだわ……)


「わかったわ。故郷に連れて行ってもらうのは、諦める!」


「……申し訳ありません」


 謝るアランの顔にわずかな安堵が浮かぶのを見て、クラリスはつい自分の境遇と重ね合わせてしまった。


(彼も私も、帰る場所がない天涯孤独の身。……似たもの同士なのかもしれないわね)


 クラリスは孤児だった。幸運なことに王国騎士団に拾われ、女性騎士として生きる道を得たのだった。だからクラリスは本当の家族というものを知らない。褒賞金を孤児院に寄付したのは、戦場で敵の命を奪ったせめてもの償いだった。戦へ赴く時間ばかりで、周りの女性と比べても行き遅れになっている自分。どうしても、家族が……子どもが欲しい。その夢が、アランとなら叶えられる。


 クラリスは、あらためて彼の事情に深入りすることをやめようと思うのだった。

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