第2話 商品

 クラリスは青年を連れて薄汚れた裏通りをさっさと抜け出し、己の屋敷へと徒歩で移動をし始める。彼女に付き従い隣を歩く、彼の硝子玉のように作り物めいた感情の読み取れない瞳は、クラリスの興味をよりいっそう強めていた。


「あなた、名前は?」


「アランです、ご主人様」


 クラリスの顔を見ることもせず、そっけない淡々とした返事だったが、問いかけに応じてくれるだけ、クラリスのことを第一印象で嫌ってはいないようだ。抑揚のない掠れた低い声は、だがどこか色気を伴って聞こえる美声と言って遜色なかった。声すらも女を惑わせる魔性が宿るなら、なるほど、この目玉が飛び出るような値段も納得である。


「アランさん、と呼んでいい?」


 クラリスはふっと柔らかく微笑みかけた。自分から少しでも心の距離感を縮めようと思ってのことだ。


「おれは奴隷です。……お好きなようにお呼びください」


 アランはそんなクラリスのささやかな努力もあえなく、にこりともしない。


「じゃ、私のことはクラリスって呼び捨てにして欲しいわ」


 『ご主人様』と呼ばれるのはあまりにもいたたまれない。クラリスは青年を対等に扱いたい気持ちを隠さなかった。


「主人のお望みとあらば。……クラリス」


(なんというのか、従順すぎて良い人だけれど、泥に釘を打ったように手応えのない人ね……)


 クラリスは心の中で嘆息した。青年の立ち居振る舞いからして、粗野ではなく洗練されていることから、かなりのよい暮らしをしていたはずだ。そんな人物が一番過酷な仕打ちだとされる性奴隷に堕ちたのは、皮肉なことにその尋常ではない美貌が原因なのか。美しさという至上の概念も、ときには持ち主を著しく傷つけることがあるらしい。人を魅惑する歌声を持つからこそ、鳥籠に囚われる金糸雀カナリアのように。


「もしかして、あなた、元騎士?」


 すると、アランはハッと目を見開き、顕著に反応を示した。それは無感情に凍りついていた彼の心へと蝋燭の小さな炎を確かに灯らせたかに見える。


「その通りです、クラリス。おれはフィオラディア王国騎士。ついこの間の戦でエレンドールの捕虜になりました」


 その表情は諦めとも悔しさともつかない陰をまとっていた。この世の悪意全てを内包した深淵を見てきたのではないかとの思いすら抱く、光のない目だった。


「なるほど……」


(少し、感情が動いたわ……)


「女だけど、私も騎士なの。アランさんとは戦場で出会っていたかもね」


「…………」


 ようやく、アランはクラリスと視線を合わせてくれた。だがその、ふとすれば意識を持っていかれそうな薄い青の瞳は、彼女を映してはいても、何か他のものを見つめているとしか思えなかった。それが何であるかを、今のクラリスには教えてもらえるはずもない。


「戦の褒賞金であなたを買ったというわけ。仲良くしてね」


 彼の事情はおいおい判明していくことだろう。今すぐ問い詰めるのは性急がすぎる。直感が告げていた。

 

「……承知しました」


 ◇

 

 エルムシェンの中心部からはだいぶ離れている上、中古物件であるからこそ、そこそこ手頃な値段で購入できたクラリスの屋敷。アランの値打ちの半額以下で買ったものだ。瓦葺きの屋根に煉瓦の外壁。とりたてて派手ではなく、むしろ地味な外装と言って差し支えなかったが、よくよく観察してみれば、建材は一級品が使われているとわかるし、敷地も広さが充分すぎるほど確保されている。


 年季の入った胡桃クルミの一枚板の扉を開けて帰宅し、居間に置いてある飴色に艶光る革張りの一人掛け用ソファにどかっと座り込むなり、さっそくクラリスは本題を切り出していた。


「アランさんには性奴隷としての本領を発揮してもらいましょう。──私のね、処女を散らして欲しいの!」


 それは、はつらつとして告げられた頼みにしては、あまりにもアランの肝を潰させるものだった。


「……はい?」


 クラリスの正面で棒のように突っ立ったままのアランは、言うまでもなく開いた口が塞がらない、といった様子だ。


「アランさん、絶倫?」


「いや……わかりません……」


 アランは見てはいけないものを見てしまったと言わんばかりにクラリスの顔から戸惑う視線を外した。


「その絶倫を遺憾なく発揮して私を貪り尽くして。一晩中、めちゃくちゃに……くらいのつもりで」


 クラリスは満面の笑みで告げながら、両拳を胸の高さまでぐっと掲げた。その目は期待に満ち溢れていて、彼女は一切の冗談を込めていないことがうかがえる。


「いや、勝手に絶倫と決められても……」


 アランは声まで青ざめさせて、茫然自失としていた。何をどう考えたところで妙齢の女性の口から発せられていい言葉ではない。


「あなた、性奴隷でしょ。だったら主人の言うことを聞いて! 一生のお願い!」


 クラリスは自分で言っておきながら無茶な頼みだという思いがあった。むろん、簡単に叶えられるものではないとは承知の上。


「は、はあ…………」


 砂色の髪の後頭部へとかすかに手を触れて、アランは当惑した。女性の扱いは、まあ、そこそこ知っている。だが、女性をただ抱くのではなく、『めちゃくちゃに処女を散らしてほしい』ときた。当然だがアランにそのような残虐極まりない趣味はない。

 

 ただ……女主人クラリスは非常に麗しかった。性奴隷として命令を聞き入れるという本分とは関わりなく一線を超えてしまいたいと思うには充分すぎるほどに。そして、己の欲望のまま一晩中激しく情を交わせるという未知の体験への興味関心が湧くほどに。


「──それがご命令とあらば、謹んでお受けいたします」


 しばし逡巡を見せていたが、やがて、アランは唇を真横に引き結んでからそのように返答した。


「あ、ありがとう! アランさん!」


 クラリスは、ぱっと花が咲いたように顔色を明るくさせた。性奴隷という命令に逆らえない立場の人間を悪用しているという後ろめたさもいくばくか感じながら。


 アランは、『こうなれば成り行きに身を任せてしまおう』と観念した。この身は今や性奴隷と堕ちた。主人の命令を黙って聞き入れるほかあるまい。しかし、クラリスから次に飛び出た願いは彼をさすがに愕然とさせた。


「その……言葉でなじって、散々罵ってほしいの! 高圧的な態度で。あと、『おまえ』って呼んで!」


「────」


 アランは絶句していた。どこまでも真面目で優しい好青年。それが彼の周りの人間からの絶対的な評価だった。そして彼は幼少のみぎりから、女性は真綿でくるむように大切に扱えと教育されてきた。至極当然のこと。


「……私ね、この歳まで騎士をやってきて、周りからは恐れられて、女としては見てもらえなくて……! こんなことを頼めるのは性奴隷くらいしかいないのよ!」


 クラリスは主人だというのに奴隷へ深々と頭を下げた。騎士として常に清廉潔白、人の上に立ち、導く立場に置かれていた彼女。だからこそ、『誰かに従属し飼い慣らされる安堵』を至上のものとし、心より渇望していた。その結果、膨れ上がった性欲と被支配欲とが混じり合い、ひどく歪曲した被虐愛として結実してしまったのである。命令を聞かせられる性奴隷を買った理由はこれこそにあった。


「一切の手加減をしないで欲しい、虐めたおせ、ということですね? そうしないとクラリスは喜んでくれない、と」


 アランは主人の覚悟を確かめるように念を押した。それと共に、己にも同じ覚悟があるかどうかを問いかけていた。


「そうよ!」


 アランはこのとき、クラリスが目をキラキラと輝かせていることに内心で大きく溜め息をついていた。主人が奴隷を虐待するなどありふれたこと。しかしながら、奴隷の方が主人を嗜虐するのが奉仕に繋がるというのは、あまりにも倒錯がすぎた話だ。……それでも、今の彼に一番強くある気持ちは、主人の望みを叶えてあげたいという、彼の誠実な心根に由来する親切心。


「……わかりました。おれも腹をくくります」


 他でもない主人の命令だ。そして己は性奴隷だ。あらためてアランは置かれた立場を理解したのである。


 ◇


 買ったばかりの屋敷に使用人はいない。したがって、一つ屋根の下、アランと二人きり。食事と湯浴みは済ませていた。そうなればすることは一つ。すでに互いに一糸まとわぬ姿で寝台に座り込んでいる。満月の宵だった。寝室の窓からは月光が射し込み、二人の肢体をあでやかに映し出した。


(騎士のむさくるしい身体なんて何回も見ているけど、彼は違う。神々しいまでの美しさだわ!)


 アランの身体は男という性の魅力を最大限誇示するかのようだった。稀代の名工が彫り上げた大理石の像もさながら、美麗さと勇壮さを兼ね備えている。


 クラリスの胸中を熱情という野火が広がっていく。そして、喝を入れるように己の両頬をぴしゃりと張った。


「やるわよ。始めてちょうだい」


「承知いたしました。────さて、『おまえ』の望みを叶えてやるとしようか」


 アランは砂色の前髪を掻き上げると、欲と凶暴を孕んだ冷酷な目つきへと変貌する。心の臓まで凍てつくような殺気を含んだ薄氷色の瞳。


「…………ッ」


 クラリスはその気迫に押されて思わず、こくり……と生唾を呑み込んでいた。


──これは、一晩続く肉欲の貪り合いの、まだほんの始まりにすぎなかったのである。

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