音楽が静まるとき(1)

 ホール・オデオンという舞踏会場は、ヴァルト帝国時代の遺物である。それはギムナジウム生徒ならば一度は授業で習う内容だった。確か斜陽しゃよう皇帝ジギスムント時代のものだったか。

 楽園を描いた天井画の下では、色とりどりの花たちが静かに佇んでいる。

 その光景は上品なものである。さらに、ダンスホールは二等国民以下にも開放されているという贅沢っぷり。慈悲を掛けてもらったと捉えるべきなのだろう。

 ……普通は。


「おぇ……ぁ、げっ」

「ナタリー! だ、大丈夫!?」

「先生! ナタリーが倒れました!」


 ダンスホールの隅では、クライノート・ギムナジウムの生徒たちが聖歌隊として極限まで喉を引き絞っていた。だが、それは昼から翌日の夜明けまで、休憩と言える休憩を与えられないまま続けられる。

 引率のアガタ・アルトマイヤーは額に汗を掻きながらも、子供たちに指示を飛ばしていた。

「限界を迎えた生徒は申し出なさい。邪魔をする者は不要です」

 その言葉は一見冷たいようだが、意地を張る生徒を撤退させるには十分だった。

 はっきり言って異常だ。トゥラン人の子どもにはいくらでも替えが効くと言うかのような。メラニアは、ルームメイトのナタリーが大型楽器の後ろに倒れこむのを眺めながら声を張り上げた。


 突然降って湧いた聖歌隊の任は、総督府から出たものだと聞いている。彼女は胸元の〝あるもの〟を握り締めた。

 これが可愛らしい最先端の聖歌隊の服だったらよかったのだろう。だが、引っ張り出されてきたのは前世紀の古すぎるローブ。埃をかぶったそれのお陰で、喉を痛めた子供もいた。

 二十時を回るころ、殆どの幼子がリタイアした。現場を指揮する先生諸君も大慌てなものだ。なんとか医療室沙汰にしないので精一杯。そんな大騒ぎを起こしたら、誰の首が飛ぶか分かったものじゃない。

 ……少なくとも、ベルチェスター人やわが校で最も偉いフェルディナントの首が飛ぶとは全く思えないが。そういう厄災は大抵、下々のヴァルト人に降り掛かる。


 そんな下々のヴァルト人たちは給仕をしていて、要するに一般開放すなわち『そこで働け』という意味なのは誰もが理解していた。

 それに反抗するでもないトゥラン人の幼子たちを褒めるべきである。そう思いながらナタリーの顔をぱたぱたと手であおいでいたメラニアだったが、こっそり近づいてきたヴァルト人に驚く。

 こそこそヴァルト人が差し入れを持ってきてくれていたのは分かっていたが、まさかこの男も来ているとは思わなかった、と目を丸くした。


「えっと……カミセルさん? でしたっけ」

 確か、ベルトゥラという女性が彼のことをそう呼んでいたはずだ。並外れた記憶力はメラニアの『特異体質』である。

 何か月も前の出来事を覚えているとは思わなかったのか、或いは名乗っていないから驚いたのか、微かに声を漏らしたカミセルはその滅多に動かない口を饒舌じょうぜつに動かした。


「覚えて……いや、俺の名前をどこで?」

「ベルトゥラさんから」

「あのおばさんから?」


 おばさんというような歳には見えなかったけど……と首を傾げると、ぴしっと使用人の服を着こなしたカミセルは隠れるように屈みこんだ。

「あれでいて年齢は三十九……」

「え、見えない」


 不思議とカミセルの前では緊張しなかった。よく喋る方じゃないからだと思うけれど、にしたってこの安心感は何か? と首を傾げる。そんなメラニアに、コホンと咳払いしたカミセルは本題を伝えた。


「今、持っているか……」

 そう言われて、心覚えがあるものは一つだけ。バースデーカードのように添えられた一枚の緑色のカードと、青い小刀のネックレスだ。相当な力がないと効果を発揮しないそれだけど、じつは秘密がある。

 メラニアはこくりと頷いた。それにカミセルはぽんぽんと頭を撫でる。


「俺はそれを確認しに来ただけ……」

 そう言ってふらりとホールに戻るカミセル。その仕草にドギマギしながらも、メラニアはネックレスをぎゅっと握り締めた。


   1


 客がそろい始めたのは、それから一時間が経った頃。酷いことに、メインを務める子息令嬢はもちろん、総督閣下でさえまだ現地入りしていない状況だったのだ。自分たちの存在意義を疑いたくなっちゃうぐらい酷い事実。メラニアと友人のアーシャは顔を揃えてこっそり舌べらを出した。

 ようやく集まってきた人々に、聖歌隊面々はやっと息を取り戻す。

 レースやリボンだけでない、大人っぽさを醸し出すデコルテ部分は特に念入りに飾りを付けている。背中を開けるなんて事をする勇者いなさそうだが。まるで花が踊るように、色とりどりの女が厚化粧で粉を振りまいていた。

 メラニアは如何なものかと思ったが、友人が、女子たちが、クイーンであるエルでさえ目を走らせている。

 ただでさえ娯楽が少ないのだ、記録することでさえ禁じられた箱庭で、彼女たちは真に得るべき知識を脳に刻み込もうとしていた。

 メラニアもそうするべきだと分かっているが、心のどこかで、あの日自分を誑かした男と目が合うのを恐れてしまっていた。


 グリーンのカードに書かれていたことは、ある噂話についてだった。

 この箱庭には、王と呼ばれるトゥラン人を率いる人間が居るらしい。その人物が居ればトゥラン人は助かるという……いかにも嘘くさい話だった。けれど、メラニアはそれが嘘だと思えなかった。

 なぜなら、メラニアの先輩には二人のスターがいるのだから。女王エル・スミスと皇帝キリル・カザンチェフ、どちらが王か分からないところだが。

 もし、ベルチェスター人であるあの男が王を殺すつもりなら、メラニアは止めるつもりだった。刺し違えてでも。


 何故か湧き出るのは、殺意ばかり。それを振り払って、歌を歌う事に集中した。それから暫くした頃、エルがお手洗いに行くと言った。それを見送ってから、やっぱりメラニアも会場をざっと見まわした。


 だが、あの男は愚かベルトゥラもいない。彼らは忙しそうだし、欠席しているのかも……と安心したが、ならどうしてカミセルは居たの? と小首を傾ける。

「どうしたの、メラニア」

 アーシャに言われたメラニアは正直に答えようとした。だが、その瞬間、騒ぎが巻き起こる。なにやら、ブレイク隊の人間が言い争っているようだった。社交の場での口論バトルは 日常茶飯事であり、別に気にすることはないと思っていた。だが、話を聞いていると相変わらずトゥラン人迫害の言葉が聞こえてくる。


「そこにいる薄汚れた三等国民どもがお似合いだって言ってるんだ!」

「なあ、トゥラン人ってのはおぞましいやつらだって聞いてるぜ」

「だって家族でヤるんだろ⁉ 母親と寝て、父親と寝て、兄弟姉妹で誰の子どもかわからん赤子を孕むのがトゥラン人ってやつだ! 正直に言えよ、お前も母親と寝たんだろ? そこのガキどもと同じように!」


 次々と紡がれる言葉に、子供らは震えを押さえるので精いっぱいだった。自分たちが何をしたと言うんだ。自分たちの家族が何をしたと言うんだ……!!

 その侮辱に、メラニアが我慢の限界になりそうだったそのとき──この場にカツカツと高いヒールを鳴らす音が聞こえてくる。


 一斉に視線をくれる。まるで光に集まるイカのように、誰もが視線を奪われた。そこには意思のある瞳で、トゥラン人を、ブレイク隊の青年を貶してきた男を見つめる女王クイーンがいた。


   (続)


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