不衛生な路地裏(3)
何ここ……と驚きに目を丸くしていると、ことりというものを置く音と共に一人の眼鏡を掛けた女性が現れた。チタンフレームの丸い眼鏡だ。その爆発した髪にそぐわない知的そうな眼鏡の下には、鋭く吊り上がった青い目がある。
髪は金色をしている。後ろで一つに
「あたし、ベルトゥラ。この研究室の副室長を務めているの」
「研究室……?」
メラニアが首を傾げると、彼女は呆れたように首元を掻く。ベルトゥラの様子に首を引っ込めたが、ベルトゥラが怒っているのはメラニアに対してじゃあなかったようだ。
「はぁ……ごめんね、カミセルが連れてきたんだと思うけど」
「……」
緊張で喉が張り付いたように声が出ない。困り眉をしたメラニアがベルトゥラを見上げると、彼女はメラニアの隣に腰かけた。
改めて部屋の中を見回す。四つの向かい合ったデスクに、観葉植物が二つある。一つは枯れていて、なぜ処分しないのか? と疑問を浮かべるが、それはまあ残酷な事だと考え直す。
それから入り口の前にあるローテーブルと、二人掛けのソファ。油の染みが付着したソファはゴワゴワしていて座り心地が悪い。ローテーブルの上には腐りかけのトルテが二つ。
「な、なんて空間……」
思わず口から漏れてしまい、メラニアは驚いた。ベルトゥラは苦笑いもしながらも一度机の上に置いた、コーヒーと思われる黒い液体の入ったマグを渡してくる。それを受け取ると、怪しみながらも口を付けた。
「なんで、わたしはここに?」
考えろ、考えろと脳内の自分が叫んでいた。敵か味方か、どちらだったとしても場合によってメラニアは総督府に殺されるだろう。どれくらいの時間寝ていたかは知らないけれど、ギムナジウムから〝脱走した〟事実は変わらない。
「お前が寝ていたのはたったの二時間と三分だ」
その声が聞こえてきたのは、観葉植物の先にある階段からだった。まるで隠すような配置、事実メラニアも気づかなかった。
そこから降りてきた男──黒髪の痩せた見覚えのある男に、メラニアはびくりと震えた。見間違えるはずもない、あの日あの時、メラニアに文官を殺せと命じた男がそこにはいた。
「っ!!」
突然震えが止まらなくなる。自分がしたことを思い出せなくて、メラニアは目線を外すように俯いた。
「……怯えてる。ねえルシム、本当に何もしてないの?」
「オレは何もしてない。そいつが自分の意思で行動しただけだ」
「嘘よ。こんなにか弱い子が人殺しなんて……」
そう言われた瞬間、メラニアはオエッと胃の中の物をひっくり返した。出てきたのは大量のレンズ豆、どろどろのビスケット、パン、祈念祭のケーキが少々。既に体内に溶け切ったサプリメントが出なかったのが幸いか。テーブルの上に飛び散った吐瀉物に、ルシムは激怒した。
「お前……!!」
「ルシム! やめなさい!!」
今にも掴みかかろうとしていたルシムをベルトゥラが抑える。メラニアのゲロにネズミがわーっと集まってくる。それにまた吐き気を覚えて、そのままメラニアは意識を失った。
1
吐瀉物と集まってきたネズミの
……惚れていることに変わりはない。
彼は彼女の寝顔を見て頬を紅潮させていた。そこだけ切り取れば、可愛らしい愛情を向けているようにも見える。でも事実、彼が抱えているのはどろりとした気持ちの悪い感情だ。
長い付き合いだから分かること。
双子の弟であるキャマスも感づいているだろう。彼が惚れたのはただのトゥラン人の少女じゃない。獣を内に秘めた存在だ。実際に見ていないから、こんなに幼い子がルシムの描く絵のように狂暴的だとは思えないけど……
「ルシム、殺すの? ギムナジウム生徒に手を出したら、総督閣下も許さないわよ」
それは生かしても、殺しても、同じか。この箱庭に生きている以上、彼女と一つになる手はどこにもない。それがこのくそったれな国の条例だ。
「……オレにはよく分からない。こいつが、あの時みた心の無い怪物なのか」
「それって自分に重ねているの? 病気卿さん」
キャマスは言いたがらないが、ベルトゥラは気を遣うなんてことをしない。否、ルシムが気にしていないから、ズケズケと踏み入るのだ。
病気卿という名が彼についたのは、彼が複数の病を抱えているからであった。それは死に至る病から、ちょっとした病まで、様々だ。感染リスクがないのだけは幸いだけど、普通の神経を持っていたら近づきたがらないものだ。
彼は毎日、大量の薬を飲みながら生きながらえている。もちろん薬には打ち消す力もあるから、どの薬をどれだけ飲めばいいかは日によって違う。最近は自分で調合しているようだけど、昔は貴族に仕えるような医師に診てもらっていた。それも彼が総督閣下に出会うまでの話。
ロガース姉弟の使える総督閣下という人物は、掴めない男である。妻子を持っているにもかかわらず、子供のような無邪気さを持ち、上に立つ人間にもかかわらず、自由奔放さを持ち合わせている。
総督閣下がルシムを見つけたのは、本当に偶々の出来事。ルシムの生家であるマスティフ家が総督閣下に助けを求めたからだと聞いている。
あのルシムとかいう男は、滅多に自分を語らない。そんな中でもなんとか聞き出した情報を聞くに、ルシムは総督閣下のことを尊敬していない。それは弟のキャマスも同じだろう。
報告や別の仕事で出掛けていることの多いベルトゥラと違って、常に一緒にいるキャマスは騙すのも簡単だったでしょうね。なんてベルトゥラは笑った。
「そういえば、その日、キャマスはいなかったの?」
「既に監視の役目は放置しているぞ、あいつは」
「あんのバカ弟め……!」
ベルトゥラは呆れ返りながらも、すやすやと眠っている少女を撫でた。
「服を洗う時間もなさそうだし……そのまま返すわよ?」
だんまりなルシムにため息を漏らしながら、ベルトゥラは彼女をクライノート・ギムナジウムの寮へとこっそり届けた。
(続)
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