不衛生な路地裏(2)

「失礼しまーす」

 そう言って二階のアトリエに足を踏み入れたキャマスは、一心不乱にスケッチする男を前に引いた。ドン引きだ。

 そこら中に茶色の獣らしき絵が沢山転がっていて、この短期間でこんなにも描いたのかと感心する一方で、どこか儚い鹿のような獣の絵に口元を痙攣けいれんさせる。


「室長、これ、なんですか?」

「……」


 キャマスの言葉も無視。仕方がなく書類を画材塗れのテーブルの上に置いて(この部屋ばかりはルシムも綺麗にできないそうだ)近くの座高が高いチェアに座った。木製のそれをギッコンギッコン前後に揺らしていると、ルシムが苛立ちげに筆を置く。


「うるさいな」

「いやぁ、集中していたようで」

 苦笑いしたキャマス。それから疑問に思ったことを再度聞いてみた。それに帰ってきたのは数秒の沈黙と、飲みかけのコーヒー。砂糖の匂いがする。


「なんです?」

「お前が飲み忘れていったものだ」

「そりゃ、律儀なもので……」


 キャマスが舌を出しながらちろちろと飲んでいると、ルシムは考えるように顎に手を置いた。よく彼がやる癖である。こういうときは話してくれるものだと察して、甘ったるいコーヒーをテーブルに置いた。


「これは……昨日、出会った少女を書いているのだ」

 ブッと唾を飛ばした。コーヒーを飲んでいなくて良かったと思いながら、こちらをぎろりと睨みつけるルシムに肩を竦める。

「いや、女の子? 確かに可愛いけど……え?」

 正直、ルシムにこのような趣味があると思っていなかったキャマスは若干、頬を引きらせながらも、もう一度絵を見てみる。


 鹿のような四足歩行の獣だが、その顔はすとんと表情が抜け落ちている。だが、動きは荒々しく狂暴的だ。本当に少女を表したものか? と考えて、それから少女という言葉にある可能性を思い至った。


「は? まさか、室長が惚れた少女って……」

「惚れたわけじゃない」

「え、トゥラン人なんですか!?」

「……」


 今度はだんまりなルシムに、キャマスはおののいた。確かに、トゥラン人の子ども達は内なるところに獣を潜めていると噂されるぐらい狂暴的で、反抗的で、騒がしく、手に負えない化け物らしい。高等文官が噂していた事だから嘘か誠か分からないが。

 だがしかし、ルシムの目にその子どもが化け物と映ってしまい、そして同じく化け物と言われてきたルシムがその少女に惚れてしまっていたとしたら……と考えるだけでキャマスは震えが止まらないようだった。


「室長……犯罪だけは起こさないでくれよ」

「……ああ! 言い忘れていたな。総督府の文官が一人、謎の事故で死亡した。偉そうなやつだったな。名前はロッセオ。死体は俺がきっちり総督府に届けてやった。さてキャマス。お前がやるべきことはなんだ?」


 嘘だろ……と、キャマスは顔を青ざめた。まさかもう既にやらかしていただなんて誰が思うだろうか。

 普通なら総督府に居られる総督閣下へこの事態を報告するべきなんだろう。だが前述した通り、キャマスはルシムという青年に同情している。だから、彼は仕方がないような顔をした。


「ああ、本当に室長は仕方ないっすね……」


 口ではそう言いながらも、ルシムの顔は緩んでいた。この男が変わろうとしている瞬間が楽しくて仕方がないんだ。


「カミセルに女の子のことを調べさせますか?」

「……好きにしろ」


 オーケーってことか。そう頷いたキャマスは、さっそく動き出すことにした。まずはロッセオとかいう文官の死の偽造。それから足取りが取れないように違法な金を積んでおく。

 この研究室は万年金欠だが、キャマス・ロガースは名のある貴族の三男なのであった。勿論、目の前のルシムという男も高位貴族の子息であるが、家族からは縁を切られているそうなので、実質、この研究室とルシムの尻ぬぐいはキャマスのお陰で成り立っているのだった。


「少しは部下を労わってくださいよ!」

「断る」


 そんなんだから『病気卿』と嫌われるんですよ、とまでは言わなかった。本人は気にしていないんだろうが、キャマスは彼がそう言われることを気にするのだ。

 そういうわけで、キャマスの忙しい一週間は幕を開けたのだった。


   1


 半月後、クライノート・ギムナジウムでは、祈念祭グリュクスブリンガーが行われようとしていた。

 ここぞとばかりに人が集まる特大イベント。月と太陽のガーランドに、緑帽子の小人たち、それから玄関ホールには色とりどりの帽子が所狭しと並んでいた。ご来賓の帽子たちを前に、メラニアは緊張にお腹を押さえた。

 あの日のことは結局、ルームメイトのナタリーに教えることはなかった。なんちゃってで済ませたメラニアに何か思うところがあったかもしれないけれど、結局彼女は黙ったままメラニアの肩を撫でた。


『いざとなったら頼ってくれたらいいわよ?』


 その言葉を思い出したメラニアは、少しだけ肩の荷を下ろした。そして帽子たちを見据えると、自分のやるべきことを確認する。

 メラニアがやるべきことは、愛想よく来校者を持て成すことだ。覚悟を決めたタイミングで、入り口がにわかに騒がしくなった。ギムナジウム生が興味深げに首を伸ばしている。

 メラニアもその若草色の目をきょろきょろと動かした。その瞬間、ひゅっとメラニアの体が浮いた。誰にも見られてない中で、メラニアは何者に抱き抱えられた。声を出せるほど、メラニアは強い子じゃない。これがクイーンのエル・スミスなら瞬時に状況を察して、助けを呼ぶか、沈黙を決め込むか、迷うことがないのだろう。

 でもメラニアには緊張で喉を引きつらせるのが精いっぱい。けれど、今回ばかりはそれが功を奏したようだった。


「黒髪黒服のベルチェスター人、その仲間だ」

 低い声で紡がれた言葉に、メラニアは目をまん丸にした。それから後ろを振り返って、抱き抱えている人を見る。自分と同じ茶色の髪に、はしばみ色の瞳を持った男性。まさかヴァルト人? ヴァルト人がベルチェスター人と仲間?

 ヴァルト人だってヴェルチェスターには煮え湯を飲まされてきたと歴史のグンター先生も言っていたはずだけど? そう思いながらも力を抜く。


「ちょっと話を聞いてもらうだけだ……」


 そう言ったヴァルト人の声がどんどんと遠のいていく。周りの喧騒も聞こえなくなり、次に私が目が覚めた場所は汚らしい部屋のソファだった。


   (続)


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