不衛生な路地裏(1)
ここはヴァルト州にある高さ25マルトの分厚い壁に包まれた街、レーベンスタット・クープ。通称、箱庭。そこにはクライノート・ギムナジウム、三等国民教育施設があり、そこで暮らしているのは、齢七歳から十六歳の子供たちだった。彼女──メラニア・コックもその内の一人である。
彼女は、七歳とクープに入ったばかりにもかかわらず、優秀生として名が知れている。だが、内気な性格と臆病なところが欠点と、誰もが思っていた。
彼女のルームメイトであるナタリーを除いて。
「我らが
ナタリーはそう言いながら、ベッドの上に片足を乗せる。そして胸に手を当てると劇場女優さながらに言った。これは数百にも上る禁止行為の一つである。メラニアがその若草色の瞳を嫌そうに細める間にも、ナタリーはその気だるげな声で言葉を紡ぎ続ける。
「顔面ボッコボコだってさ。クイーンったら無茶して……」
「……素敵な話だね」
どこに素敵な要素があったか。タシュは女の子に守られたし、女の子であるエルは顔に傷を負うという致命傷を与えられた。誰もが、銀河一キュートと噂されていた彼女を腫れ物扱いするだろう。たとえ人望が厚いエル・スミスだろうと。
そう考えて眉をひそめたナタリーだったけど、同室の友人の様子に首を傾げた。どちらも現実を早いうちに見た、いわゆる賢い部類だ。家族を思って泣き叫ぶことはなく、ただ生きるために鳴りを潜めた……爪を研いだ人間だ。だからこそ分かる、同い年のメラニアの様子がおかしいことに。
「どうかしたの?」
「いや……」
メラニアはメラニアで困っていた。あの日、メラニア・コックは工場帰りにベルチェスター国民に絡まれた。話に聞くタシュと同じ状況だ。メラニアはどうにか打破する方法を考えるべきだっただろうけど、極度の緊張と焦りにより走り出してしまったのだ。
そこで出会ったのが黒づくめの男。真っ黒い髪の男性だ。メラニアは何も考えず抱き着いた。子供の本能は、助けを求めるときは「そうすべきである!」と叫んでいたのだ。そして見上げて、驚く。男はベルチェスター人特有の白い肌と青い瞳を持っていた。メラニアは、殺される──と瞬時に思ったけれど、彼は顎に手を当てて、彼女を観察しているようだった。
ひとまず安心した彼女だったが、先ほどメラニアを悪魔と決めつけてきた男の怒号が聞こえてきて、ぶるりと震えた。メラニアを……いや、トゥラン人を
どうすれば、どうすればいいのかとメラニアは目線を彷徨わせた。その瞬間、しがみ付いていた黒服の男がしゃがみ込んだ。そして誘惑するかのように甘ったるい声で言う。
『お前、あの男を刺してみろ。ほら、オレの手にナイフがあるだろう?』
思い出しただけで震えが止まらない。あの時、私は何を考えて何をした? いつの間にか意識を失っていたのだ。その事実にギムナジウム生徒が着る
「わたし……人を殺したかもしれない」
1
時は一日前に戻る。こっそりとギムナジウムへ少女を送り届けたルシムは、柄にもなく熱に浮かれたような状態でクープ内にある研究室へと入った。汚らしい路地裏を曲がった先にある建物の前には汚物、吐瀉物、赤黒い液体、その他ネコやネズミの死体がゴロゴロと転がっていた。定期的に掃除しているのにこの有様だ。
理由は二点。近所に住むヴァルト人がバレてないと思ってるのか嫌がらせに死体を放棄している。もう一点は、ルシムの同僚であるカミセルというヴァルト人が仕事で使ったゴミを捨てているからだ。
「くそが」
ルシムはよく、社交界において我が儘で傲慢、癇癪持ち、人の心を持たない化け物と
同じく同僚のキャマスからは「そんな事ないと思いますがね」と言われているが。
「はよーございます、室長」
「……はよう」
雑な挨拶をするのは先ほど説明したキャマスとカミセル。キャマスは小麦のような金髪に、青色の瞳と典型的なベルチェスター人の色をしている。逆にカミセルは茶色の髪にヘーゼルアイと典型的なヴァルト人のような色合いだ。そういえば、あの時の彼女も茶髪をしていたなと思い出す。
ヴァルト人の血が入っているのか? それともあの能天気そうなカラフル頭たちの事だ。たまたまその色を引いたのかもしれない。
浮かれたままそんなことを考えていると、キャマスが下世話な顔をした。
「室長、女でも出来たんですかね」
「……さぁ」
「相変わらず興味ないんですか? カミセル」
「……ああ」
もう、全く。と肩を竦めるキャマスを睨みつけると、ルシムは自分のデスクに向かった。そこには様々な『病』について書かれた書類が散乱している。なんだこの有様は。ルシムは極度の綺麗好きであり、このようにデスク周りを汚したまま放っておく人間ではない。
「あ、それはカミセルがやりましたー」
「……違う!」
「カミセルですよー」
「違うと言ってっ!」
そういって事務所内を走り回る二人。
書類が巻き上がって、ネズミが走り抜けた。腐りかけのミートパイがべシャリと落ちて、ついに我慢の限界になったルシムは、黒いコートの懐から愛用しているナイフを取り出した。あの時、少女に渡したものとは違う。あれは素人が使ったおかげで刃こぼれしてしまったのだ。
「今すぐ片付けなきゃ殺すぞ……?」
その脅しは充分効いたようで、すぐさま動きを止めたキャマスが書類を
眉をピクリと動かしたルシムだったが、すぐに切り替えてデスク周りを片付け始める。研究室内が綺麗になったところで、ルシムは二階にある
ここはレーベンスタット・クープ内にある秘密の研究室。通称、ディジー。
ここでは総督府の軍人である監視員のキャマス、監視対象で『病気卿』と噂されるルシム、ただ巻き込まれただけの一般ヴァルト人のカミセル、それからもう一人の監視員で病や免疫について研究している。
成果が上がった試しはないが、例えば麻酔薬をどれほど投与すれば死ぬのか。或いはどれほど投与すれば効果が出るのか。調べつくされたことでさえ『証明せよ』と命令されるのがこのディジーでの日常だった。
それは病気卿をこの箱庭の中の小さな家に閉じ込めるためか。ここまで十何年、ルシムが十三歳のころから続いている悪夢に、今年三十九になるキャマスは同情めいたものも抱いていた。
「なぁカミセル、室長っていつになったらクープから出れるんだろうな」
話を聞く限りでは、成果を上げれば出れるそうだが……その成果を上げさせる気はさらさらない事には、ここに居る面々は感づいていた。
それでも命令に逆らえばいくらベルチェスター人と言えど胴と首が離れるのを免れるとは思えない。なぜならキャマスともう一人の監視員は軍人であり、ルシムは罪人であるからだ。
「正直言ってさ、カミセルには申し訳ないよ。こんなのに付き合わせちゃって」
「……いや。俺の目的は、病で死ぬ人を減らすこと……」
静かに呟かれた言葉に、キャマスは両手を投げだした。予算だって月日が経つごとに減らされている。こんな生き殺しみたいなことをして、しかも貴族として生きろとも仰られる総督閣下には頭が上がらねぇや。
「下げる頭もないがな」
そう呟いたキャマスは、けっと唾を吐いた。
(続)
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