恋の獣

プロローグ

 男に抱き着いてきたのは、色の濃い肌を持った女の子だった。髪は茶色、瞳は若草のような緑色。

 ふむ、この状況は好かんな。そう顎に手を当てた彼は、また彼女を見下ろした。どう見たって幼いトゥランの少女だ。色気のある女に抱き着かれたことは何度もあったが、こんなに小さな子供に……それも恐怖を顔に浮かべた子どもに抱き着かれたのは初めてである。

 時刻は午後の三時。ティータイムには丁度いいが、実験用ネズミとシリンジ、吐瀉物や汚物、生ごみが転がった路地裏ではご遠慮願いたいところ。

 男──ルシム・マスティフはその忌々しい噂から『病気卿』と言われている人間だった。舌打ちをすると、ルシムに抱き着いていた少女がびくりと震えた。結局こいつも恐れるのか。そう考えながらも、少女を引き剥がそうとした。だが、その瞬間に聞こえてくる怒号。


「私のコートを汚しおって!! 許さぬ、下等生物がっ!!」

 いかにも唾が飛んでそうな演説に、余計に震えた少女がルシムの足に頭を擦り付けるように抱き着いてきた。その身体はプルプルと震えている。

 ルシムは悪い笑みを浮かべた。このまま突き出してやれば、ちょうどいい悲劇が見れるんじゃないか? と。一見、ベルチェスター一等国民にありがちなトゥラン人迫害、慈悲の無い残虐性のようにも思えるが、彼の場合は一つだけ違った。

 ルシムはそっと屈みこむと、少女に囁く。


「お前、あの男を刺してみろ。ほら、オレの手にナイフがあるだろう?」

 自分が刺されるとは思わなかったのだろうか。それとも子供に刺されたところでなんともないと思っているのか。

 少女は言われるがまま、震える手でナイフを握った。だが直後にカランと取り落としてしまう。それに片眉を上げたルシムは、ため息をついてナイフを回収しようとした。けれど、直後に少女は、再びナイフを手に取った。


「ほぅ?」

 関心の声を漏らしたルシムだったが、直後、少女のすとんと落ちた表情に目を奪われた。それはまるで、まるで、人の心を無くした獣のようではないか。低く腰を落とした少女は、今までか弱い草食動物だったのが嘘かのように喚いていた男の懐に潜り込んだ。


「お前っ!! やっと見つけ──」

 頸動脈を一発、そのままぐりっとナイフをねじる。息の根を止めるまでナイフから手を離さないところも、パーフェクトに美しかった。

 ……その瞬間、ルシムは彼女に惚れ込んでしまった。その後、気を失った彼女をクライノート・ギムナジウムに送り届けてしまうほどに。


 一人の一等国民が死んだという事実は、ルシム・マスティフが己の力全てを使ってもみ消した。全ては闇の中に包まれた。ルシムが疑われることはあっても、あの少女が疑われることはないだろう。

 ネズミの出入りを許すぐらい杜撰ずさんなこの箱庭において、彼女が生き残る事ができるのか。彼はくつくつと笑いながらも、筆を動かした。


 そこには美しくも儚い、狂暴的な獣の姿で描かれたトゥラン人の少女がいた。


   (続)


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