洞穴にて

 冷たく、滝のような雨が身体を打つ。先ほどまで気持ちよいほどの青空であったのに、ふってわいた曇天が唸り声をあげたかと思えば、岩だらけの崖路を進む旅人を襲ったのだ。

 更に悪いことに、雷も鳴り出した。雨は旅装束が守ってくれるが、神の一喝はそうもいかない。――かよわい人間には隠れる場所が必要である。

 近くに人家でもあるならば僥倖ではあるのだが、生憎、岩だらけの山だ。旅人が最後に身を寝台に横たえたのは三日ほど前、この険しい山に住む人間はいない。旅人は皆、身体一つ、銀貨一枚握りしめてこれを越える。越えた先に、国があるのだ。

 越えられなければ、冥府へ向かう船頭に握りしめた銀貨を渡すことになる。

 カッ、と世界が――真っ白になった。そして次の瞬間には旅人は真っ逆さまに落ちていた。いかづちは旅人ではなく、その足下を貫いた。一撃は彼の立っていた道を崩すに充分であった。


 渡し船にしてはごつごつとしているな。

 旅人はぼんやりと考えながら、瞼を開いた。ここは冥府へと渡る川か、と思ったが水面をかき回す水棹の音も、亡者の嘆きも聞こえない。聞こえてくるのは、ぴつん、ぴつんと響く水のこどもの笑い声である。目の前では岩の天井が曖昧な輪郭を浮かばせていた。

 つまり、生きている。

 気を失うまで雨を凌ぐ場所さえない山肌にいたのは覚えているが、ここは洞穴の入り口のようだった。かろうじて、陽の光が差し込んでいることに気がついたのだ。誰かに運ばれたのか、それとも生へ縋り付く本能が旅人をそうさせたのか判然としない。分かるのは少なからず身体を打った痛みだけだった。酷く痛む。指先は辛うじて動かせるが、起き上がれそうにもない。どちらがよかったのか。

 痛む背中に地響きが伝わってきた。ずしん、ずしん、と象の歩みにも似た揺れである。誰か、来る。誰だ。人ではない。天井から小さな石の欠片がはらはらと落ちて、旅人の鼻先に降りかかった。地響きが大きくなる。頭のてっぺん、向こう側に何か、大きなものがいる。獣。獣なら、死ぬ。握りしめたまま開かない手の内の、銀貨が冷たい。

 影がさした。旅人の眼前に、二つのルビーが輝いている。

 あれほどの宝石なら、一城の主になれる価値がありそうだ。ふと、そんなことを思った。そして、旅人はその正体を悟り、は、と息を飲んだ。

 ――竜。

 暗闇の中でつやつやと鱗が輝いている。その喉から腹にかけてはもっと滑らかだ。あの腹には何人の哀れな人間が詰まっているのだろうか、自分も、あの内側に詰まった肉塊に加わるに違いない。

 旅人がそう悟った瞬間、奥歯ががちがちと鳴った。避けようのない死が眼前に現れ、それがいつ顎を開くのか分からないまま己は動けずにいる。いっそ雷に打たれてしまった方が苦痛は無かったに違いない。恐怖がそこにある。そこにあって、こちらを見つめている。

 竜は、起き上がることも出来ずにこちらを凝視している旅人をじっと、見つめていた。炯々と輝く赤い瞳には感情が無い。ただ、この傷を負い、死の淵で震える生き物を眺めている。

 竜は人よりも遙かに賢しき存在である。人よりも遙かに強大な存在である。故に愚かな人間が思うよりもずっと、穏やかなのだ。無為に怒る事などない。無闇矢鱈に、顎を開き、爪を振るう事も無い。

 ――そして、長寿であった。

 何ものにも縛られぬ竜には久遠とも言える時間がある。眼前、冷たい岩肌に横たわり、双眸をぎょろぎょろと彷徨わせ浅く息をしている人間を眺める時間は、この竜にとってはほんの、些末なことであった。

 竜が旅人を眺めている間にも、陽が昇り、落ちる。洞穴の中へ風が吹き込み、雨が岩肌を濡らす。幾日か、竜が旅人を見つけてからあまりかからない頃には、旅人はぎょろつかせていた眼差しをぴたりと一点見つめたまま、動かなくなってしまった。まるではりついてしまって拭うことが出来ないものとして、死の恐怖への煩悶と狂乱が顔に刻まれていたまま、竜を凝視するだけのものに、なってしまった。

 竜もそれをルビーの眼差しで飽きもせずに見つめていた。旅人の傍を座し、時に微睡み、時に洞窟の外を眺め、歌を歌い、稲光に目を細めながらも旅人をじっと眺めている。

 陽が昇り、落ちる。竜と旅人以外、何者もない。旅人の輪郭も、曖昧になってきた。ただ視線だけは、竜に注がれている。それを感じ取ることが出来るのは、竜だけである。


 ふいに竜は、微睡みから醒めた。温かな春の陽気が、ひんやりとした洞穴に温かな風を送り込んでいる。

 竜は旅人を見やる。染み。薄くなった、輪郭。

 そこから一輪の花が、咲いている。

 眼差しは、相変わらず向けられていた。

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