真夏日
日本列島に居座っていた梅雨前線が失せた頃、友人はやってきた。ごめんください、と玄関の戸をガラガラと引いて現れた友人はカンと冴え渡る青空と、いっそ死を賜ろうかと言いたげな直射日光を後光として背負っている。
「相変わらず夏を連れてくる御仁だね、君は」
早朝にも関わらず茹だるような暑さを寄せ付けまいとする私の右手には団扇。ぱたぱたとそれで己を煽りながら、私は友人を迎えた。
「ここに来る途中で出会いまして。道に迷っていたようですから」
「まぁだ真夏日には早いんじゃないの」
「昨年よりかは夏らしい時に来たと思ってくだすれば」
失礼、と敷居を跨ぎ、友人が家にのそのそと入ってくる。その右手にはどこで誂えてきたのだろう、向日葵の花束が抱えられていた。
友人を土間から上がらせ、くつろいでいた居間へと通す。恐縮しながらソファに腰掛けた友人に麦茶を出しながら、私は扇風機のスイッチを親指で押した。ぶぅんと唸りながら水色の羽が勢いづく。
「しかし真夏日もあまり出しゃばれない様子で」
「へえ。なんで。ここ数年、夏と言えば恐ろしく暑いじゃないか。冷夏なんてくたばっちまってるよ」
「それです。暑すぎるんですよ」
出された麦茶入りのグラスを持ち、友人がグッと呷る。ここに来るまでに連れ立った夏の暑さのせいか、グラスはすぐに空になった。こつと音をさせ、グラスを置いた友人は生気をやや取り戻したらしく、改まった顔を私に向ける。
「真夏日とは」
「うん?」
「真夏日とは、最高気温が三十度以上のことを指します」
「そうだね」
「ただし三十五度以上は、猛暑日となります」
「……つまり、三十度以上三十四度以下が、真夏日の定義だと。なるほど」
私の返答に友人は重々しく頷いた。
「つまり、夏が盛りになるにつれて勢いづくのは猛暑日でしょう」
「ははあ、だからあまり出しゃばれない、か。私らにしてみたらどっちにしろ、いい加減にしろとしか言えないんだけども」
私は麦茶の入ったピッチャーを傾け、友人のグラスに注ぐ。網戸が外の熱気をある程度は防いでくれるが、土から出たばかりの蝉の叫びは元気に耳に飛び込んでくる。
「なので私どもは考えました」
「…………」
友人が己のことを〝私ども〟と自称する時。だいたいロクでもない事がやってくる。友人の言う〝私ども〟は己であり、そしてその背後に蠢く、何か――私のような一市民には到底触れることの出来ぬ何か、だ。それらが、この暑さに音を上げている。これ以上先は聞きたくないのが本音だが、私はあの忌ま忌ましい奴らが、夏の暑さにやられてドロドロに溶けかけていることを想像して思わずニヤついてしまった。
「いちど海を凍らせてみようかと」
「やめなさい海の家が泣くぞ」
私の制止に友人がふむ……と神妙に俯く。彼の背後では〝私ども〟の〝ども〟の部分が新しい解決策を模索しているに違いない。
からん、とグラスの中の氷が鳴る。
ぎこちなく首を振る扇風機はぶぅん、と唸り続けている。
蝉は叫んでいる。土から出てしまった事を後悔しているようだった。
先ほどまで夏の日差しの陽光を背負っていた友人は、今やこの古家、うす暗く蒸し暑い陰惨とした居間で、項垂れ、考え込み、そして、言い聞かせるような声を発した。
「私どもは、真夏日を死なせたくないのです」
私はこの友人が持ってきた向日葵の花束から一輪、一際大きく明るく笑うそれを引き抜いた。古くさい家の中でそれはさんさんと輝いている。今は無邪気に笑う、真夏日の申し子たるこの花も、猛暑日が続けば萎れて死ぬのだろうな、とふと思った。
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