サボタージュ:滅亡編
「あの、あの、あの」
騒々しくやってきた新人の顔は真っ青だった。まるで世界の終わりが訪れたと言いかねないような表情でまともな言葉を発せられずにいる彼へ、私たちは何事かと視線を寄越した。すると新人は、いよいよ顔を白くさせ、ふらっ、と身を傾げたのである。
「おやおや。どうしたの」
咄嗟に彼を支えたのは、私の同僚であり新人の先輩である。普段通りの穏やかな振る舞いで若者の背をさすれば、新人は僅かに平静を取り戻したかに見えた。
「あ、すみません、それが、その」
「また子供たちがやんちゃをしたのかい。それともうっかり庭の枝を折ってしまったとか……」
とにかく落ち着いてお喋り、と同僚が新人の手を取る。こくこくと新人が頷き、そして深く、息を吸った。私たちもその様子を見守っている。
「主がいないんです、どこにも」
彼がそう言った瞬間、誰かの椅子が大きな音をたてて倒れた。
どこにもいないんです。いつもお掛けになっている輝ける王座に。
さめざめと泣き始めた新人の隣で、同僚の顔も青ざめはじめていた。私の後ろではバタバタと慌ただしい様子で「庭には!?」「警備に連絡!」と誰かが叫び、また誰かはオフィスを飛び出していった。
「どうしよう、私のせいです。私がいけないんです」
「どういうこと?」
「昨日、主とお話をしました。恐れ多くも」
「なんと……主が? ここ最近、ずっと口を閉ざされていたというのに?」
「はい。私は驚きました。だってお仕えしてから一度もお声を聞いたことがなかったので……もしかすると空耳だったのかしらと私は一度、恐れ多くも主のお声に答えませんでした」
「それは……そう、しょうがない。だってあの方は喋らないものね。……それで?」
同僚がややぎこちなく新人を庇い、こわごわと続きを促した。私は彼らの会話に耳を傾けながら、後ろの棚にある電気ケトルのスイッチを入れた。
「主はもう一度、私に声をかけられました。お優しい方……私とお話を。あの方はそろそろ良いか、と仰いました」
「それで君はなんと」
「主よ、御心のままにと」
電気ケトルから湯気がモウモウと立ち、そしてぱちん、とスイッチが切れた。沸騰した湯をドリップポットに移し、私はインスタントコーヒーのパッケージを開いた。
「フム……」
同僚が唸る。それもそうだ、新人の受け答えはなんら問題は無い。たった一言二言の会話から我らが主が失踪する理由を汲み取る術は、彼とこの新人は持ち合わせていないだろう。この二人だけではない、このオフィスの誰も彼もだ。そう思うと、思わず鼻歌をうたってしまう。
ゆっくりと湯を注げば鼻腔にこっくりとした珈琲の
香りが届く。一杯分の珈琲を淹れて私は、相変わらず泣いている新人と困り顔の同僚に向き直った。
「さて、では私は失礼するよ」
「どこに? 主がいなくなったんだよ」
「いやはや困ったモノだね。お気の毒に、小さな天使君! でも大丈夫さ、すぐに終わる」
同僚が何かを言いかけるが、私はそれを待たずにオフィスを出る。珈琲を一口飲んで、慌ただしく走り回る職員達の間をすいすいとすり抜けていった。
「ついにサボタージュですか?」
私は海辺に居た。不純物がなにもない白い砂浜と、青にも碧にも紺にも黒にも見える海原。そこに一人でいたものに、歩み寄る。
「だってお尻が」
「たまには立ち上がれば良かったんですよ。立ち上がって、伸びをして、コーヒーを飲む。それだけでよかったのに。そうすればケツが凝り固まることはなかった」
彼に吐き捨てれば、そうだよねえ、と彼はため息を吐いた。砂浜に座り込んでいる彼に珈琲を手渡せば、嬉しそうに笑う。
「でも立ったらさ、みんな驚くんだ。大騒ぎだよ。立っただけで意味を求めてるんだから、僕はなんにも出来やしない」
「皆、あんたの事が好きですからね。欠伸一つで大事だ。そりゃ黙りたくもなるし、動きたくなる気持ちも失せる」
「分かってくれるか、君」
プルタブをあけて、彼は珈琲を一口。その瞬間、海原の奥で雲のようなものが過った。
「ああ、イナゴだ。佃煮にするとおいしいらしいね」
雲――もといイナゴの大群と思しき影を見て、彼は呟いた。それは全く無感動な響きをもって、私の耳に届いた。
ざん、ざん、と波が打ち寄せている。そのたびに小さな飛沫がきらきらとして、私たちのつま先を濡らした。
「……どれぐらいサボりますか」
沈黙を破ったのは私だった。私の問いに、彼は軽く眉を上げた。そのまま無言で、彼は仰向けに身を横たえたのだった。
「正直に言おう」
「はい」
「戻りたくない」
「つまり……仕事をお辞めに?」
「そうなる。僕の希望としては」
大の字に寝転がった彼は、ゆっくりと息を吐いた。いっそのことこのまま眠ってしまおうか、と言いたげな彼を見下ろし、私は首を振った。
「辞めさせてくれますかね」
「無理だろうなぁ。君、あそこに座らないか? 座っているだけで将来安泰だ。まあ、多分座っていることしか出来ないけど」
「遠慮します。その言い草、まるで窓際の勤め人のようですよ」
私が肩を竦めれば、彼はくつくつと笑った。まさにそうだよと言う姿を見れば、職員達はどんな顔をするだろうか?
「いつまでサボってもいい?」
「〝主よ、御心のままに〟」
私の言葉に彼は軽く片眉を上げて、それから胸ポケットから、手のひら大のくしゃくしゃとした紙箱を取り出した。
ややぎこちない手つきで、そこから煙草を取り出し、咥えた。私は尻ポケットに突っ込んでいたマッチを投げ寄越す。十数秒もしないうちに、彼の煙草の先端から紫煙が燻り立った。
「じゃあ……人間が滅ぶまでかな」
「長期休暇ですか?」
「うん」
彼――主がゆっくりと煙草を味わう。ぼつ、と煙草の先端が赤熱する。彼が煙草を短くするたびに、どこかで都市が滅ぶのだ。
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